歴史 アーカイブ

2011年01月15日

Yosemite Nature Notes - Episode 13 - Rangers' Club

ヨセミテヴァレーのRangers' Clubの建物です。
National Park Serviceの初代長官のSteven Matherが私財を投じて、初期のパークレンジャーのために建設したものです。

投稿者 nishimura : 02:12

2008年02月07日

ヨセミテの「聞き書き」プロジェクト

YAからのメールニュースによると、NPSはヨセミテにおけるOral History Project「聞き書き」プロジェクト"I Remember Yosemite." を始める模様。

Yosemite Launches Oral History Project

Yosemite National Park has launched a multi-year oral history project to capture the stories of people who have helped shape, and whose lives have been shaped by, one of the nation's most iconic national parks. The goal of the project is to enhance and enrich the historical understanding of Yosemite National Park with information that could not otherwise be found in the documentary record and to create a high-quality audio-visual oral history collection for use by researchers and future interpretive functions such as museum exhibits, programs, and podcasts.

While initial interviews for the project will focus on former and current National Park Service (NPS) employees, the scope of the project will also include concession employees, spouses and children of employees, long-time park residents, and members of neighboring communities - in other words, those individuals who have had a significant, and often long-term, connection to the park. The project will explore such themes as work, technological change, evolution of park management, environmental change, and the development of community life in the park.

Participants are being sought for the recorded sessions to document Yosemite area history currently titled "I Remember Yosemite."

2007年06月27日

A Sierra Storm:1864

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[西から望むMt. Clark]
11月5日、二頭のミュールに一週間分の食料と二枚の毛布を積んだKingとCotterは、マリポサトレイルを使い渓谷の南側に上り、Bridalveil Creekの東の支流まで進み、キャンプをします。翌日はIllilouette谷に下り、モレインを辿り、午後遅くMt. Clark南側のメドウに達しました。この頃から天気が下り坂に向かい始めます。翌12日は雲が低く垂れ込め、周辺の山々を包み込み、風が強く吹き始めました。Kingは天気の回復を待つこととし、この日は周辺で鉱物調査をして過ごすこととしました。夜半9時、突然風がやみ、雪が降り始めます。夜中、毛布がどんどん重くなっていくことを感じつつも、二人は眠り続け、翌朝目が覚めたとき、やっと1フィート半もの雪が積もっているのに気付きます。もはや登山どころではなく、二人は急ぎ朝食を済ませ、引き返し始めます。雪嵐のなか、往路に描いておいた絵地図とコンパスを頼りに、マリポサトレイルにたどり着けたのは出発から8時間後でした。

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[Inspiration Point付近から望む渓谷(現在のOld Inspiration Point付近)。カラーをセピア化しています]
標高も低くなり積雪量は減っていたもの、Inspiration Pointに達した時には、凍てつく雪混じりの烈風が渓谷から吹き上げており、進退窮まってしまいます。凍りついた木の下で1時間近く休んでいると、突然凪が訪れ、真っ白になったヨセミテ渓谷やハイシエラの山々が目前に出現します。このチャンスを見計らい、夕闇が迫る中、二人はトレイルを下り、心配する仲間たちの待つキャビンへたどり着くことが出来ました。夜半、一時的に星が見えたものの、早朝にかけて雷雨が通り過ぎます。降雪で渓谷から脱出できなくなることを憂えたCotter、Wilmer、Hydeの三人は、早朝にWawonaへむけ出発します。一方、King、Gardner、Clarkらは渓谷にとどまり、嵐がもたらした雪と、水と霧が作り出す、渓谷の奇観を見て過ごすことにしました。Merced川の水位は上昇し、キャビンに達するような勢いとなり、ヨセミテ滝は落ちる水で大轟音を発しはじめます。翌15日、夜半からの冷え込みと、再び始まった積雪を見て、さすがに三人も脱出を決意します。渓谷の底では7-8インチ程度の積雪でしたが、Inspiration Point付近では18インチの深さがありました。9時間後の午後4時にはWestfallのキャビン(Bridalveil Creek CGの南西)に到着しました。すぐ後には、心配したCotterがWawonaからのトレイルを戻ってきます。最悪の状況を考えたKingはCotterと共に、雪がちらつき始める中、まだ残ってる足跡を辿り、Wawonaへと向かうことにします。道に迷ったり、Cotterが疲れきって倒れるなどの困難がありましたが、深夜2時、どうにか二人はClark’s Ranchに到着します。Kingの心配は稀有に終わり、天気は翌日の昼までもち、GardnerとClarkも無事下山して来ました。

午後からは再び嵐が通り過ぎ、17日の朝までにWawona周辺に2ft.の湿った雪を降らせます。一行は重い機材は残し、必要最低限のものだけをミュールに積み、ChowchillaトレイルでMariposaに向かいます。交代で雪を掻き分けて進み、昼過ぎには峠に達します。反対側の下りには雪も序々に浅くなり、最後は豪雨の中、ところどころ鉄砲水で分断されたトレイルを進んでいくことになります。機材を積んだミュールが川に落ちておぼれそうになると言うハプニングがあったものの、二日目には天気も回復し、無事にMariposaへ着くことが出来ました。
King、Gardner、Cotterは此処でClarkと分かれ、さらに二日をかけ、ぬかるみとなったセントラルバレーを越え、無事サンフランシスコへと到着、Yosemiteの測量結果を無事Frederick Olmstedに手渡すことが出来ました。こうして、5月に始まってから足掛け半年にも及んだCalifornia Geological Surveyの1864年の活動は、幕を下ろすことになりました。彼らの作成した地図は、やがて”Map of the Yosemite Valley from Surveys made by order of the Commissioners to manage the Yosemite Valley and Mariposa Big Tree Grove by C. King and J. T. Gardner, 1865. Drawn by J.T.G”というタイトルで、1868年Whitneyの出版した『The Yosemite Book』に、ヨセミテ最初の本格的地図として添付されることになります。

『California Geological Surveyのシエラネバダ調査:1863-1864年』(完)

投稿者 toshi : 12:42

2007年06月25日

Around Yosemite Walls : 1864

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ヨセミテ州立公園境界(1864年)

10月5日、King、Gardner、Cotterらは、マリポサトレイルからヨセミテ渓谷に入り、Blackのホテル傍のキャビンを測量のベースキャンプに定めました。手伝いとして、マリポサ大隊のFredrick A. Clark、渓谷の住人LongherstとWilmerが加わります。早速翌日、一行は二頭のミュールとともにBig Oak Flatトレイルを使って渓谷の北側に上り、Monoトレイルを辿ってEl Capitanのすぐ西側の沢(Ribbon Creek)のほとりにキャンプ地を構えます。この沢の水は、ヨセミテ渓谷最大の落差を誇るRibbon Fallの水源で、当時はホテルを経営するHutchingsが名づけたVirgin's Tearsと呼ばれていました。7日、一行はEl Capitanへ行き、渓谷全般の偵察や、岩壁を覗き込んだりしました。翌日からはいよいよ測量を開始します。境界は渓谷の淵からほぼ1マイルのところに設定されます。測量はチェーン測量法を使って一週間ほど続けられ、測量線がBoundary Hillに達したところで三角測量に切り替え、1マイルほど先のYosemite Creekの東側に測点を移します。同時にキャンプ地もNorth Domeの北西付近にあるメドウに移動し、Indian Rockに達するまで測量が続けられました(Clouds Rest、Mt. Star Kingには上っていません)。Kingはこの間、North DomeからRoyal Archの淵まで下ったり、Mt. Hoffmann登山、そしてTenaya Lake方面へ探索をしました。Mt. Hoffmannに登った際には、反対側に下り、Yosemite Creekをその水源からヨセミテ滝の落ち口まで辿ります。そしてモレイン跡や、条線、擦痕など、ヨセミテを覆っていた氷河の痕跡を見つけています。

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Boundary HillからYosemite Creek越しに見るIndian Rock、North Dome、Clouds Rest、Half Domeなど

北側の測量が終わると、一行はヨセミテ渓谷へと戻ってきました。一日休憩した後、今度はマリポサトレイルを使い、南側へと上り、Meadow Brookにキャンプを設営、同様に渓谷の淵から1マイルほどのところで、境界の測量を続けて行きます。こちら側でもKingは地学的探索をし、Bridalveil滝の落ち口付近や、Glacier Pointの東側1,000フィートほど下に見える突き出た岩などへも降りています。さまざまな痕跡を調べたKingは、最低でも1,000ft.の厚さの氷河が渓谷に流れ込み、それらが渓谷の底を覆っていただろうと推測しています。境界測量は一月ほどで終わり、測量隊は11月初旬、ヨセミテ渓谷のキャビンへ戻ってきました。しかしここでKingは、残された時間を使い、Cotterと共に鮫の背びれの形をした山、Mt. Clarkの初登頂を目指すべく、再びマリポサトレイルを上ることになります。


以上は『California Geological Surveyのシエラネバダ調査:1863-1864』の続きです。

投稿者 toshi : 06:34

2007年06月12日

日米の架け橋となったアワビ漁師と画家

日米の架け橋となったアワビ漁師と画家
〜小谷源之助・仲治郎と小圃千浦の足跡をたどる〜

 1897年(明治30年)に房総からカリフォルニアに渡った小谷源之助・仲治郎兄弟と男あまたち。兄源之助はカリフォルニアでアワビ事業を開拓し、弟仲治郎は千倉に戻り、器械式潜水技術者を養成して人材供給を行った。兄弟のパートナーシップは大きな功績を果たしたが、その後カリフォルニアのアワビ漁は衰退し、戦争を経てそれぞれの家族は太平洋をはさんだまま暮らし続けることとなった。兄弟が渡米してから110年目にあたる今年、兄源之助の末子・ユージン氏とその娘キミさんが初めて南房総を訪れ、小谷家のルーツをたどる。
 同じ時代に渡米し、風光明媚なヨセミテ国立公園を描いて認められ、戦前からカリフォルニア大学バークレー校で教鞭をとり、名誉教授にまでなった日本人画家・小圃千浦(おばたちうら)。日米開戦後に移送されたタンフォラン日系人収容所内では美術学校を開き、多くの後進に夢と希望を与えた功績をもつ千浦は、ユージン氏の夫人ユリさんの実父である。源之助と千浦を祖父にもつキミさんは現在、ヨセミテ・アソシエーションの理事として、千浦の作品管理や講演などを行い、活躍している。ユージン氏とキミさんの来日に合わせて、お二人の協力のもと、源之助・仲治郎兄弟と千浦画伯の足跡をたどる記念講演を行う。

日 時:2007年6月19日(火)開場12:00 開演13:00 終了予定15:00
開 場:たてやま夕日海岸ホテル(館山市八幡822 TEL.0470-23-8111)
参加費:1,000円(資料代含む、ソフトドリンク付)
内 容:スライド講演
    (1)「小谷源之助・仲治郎兄弟の功績」山口正明氏(南房総市在住)
    (2)「小圃千浦の芸術と生涯」キミ・コダニ・ヒル氏(カリフォルニア州在住)
       *終了後、かんたんなティーパーティーを用意します。

主 催:NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム
後 援:館山市、館山市教育委員会、南房総市、南房総市教育委員会(予定)
    たてやま海辺のまちづくり研究会、オーシャンクィーン

(関係者の山口様からいただいた情報を掲載しています)

投稿者 nishimura : 02:43

2007年05月11日

Yosemite Valley Railroad

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140号線でマーセド川に沿ってヨセミテに向かうと公園ゲート直前の小さな街がEl Portalです。
1907年から1945年までMercedからこのEl Portalまで鉄道「Yosemite Valley Railroad」が運行されていました。
El Portal には140号線から「El Portal Road」を北へ入っていったところに旧駅舎があり、いまは「The Yosemite Association」の事務所になっています。またその前には機関車、貨車が保存されています。

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140号線では、マーセド川を挟んだ対岸にもとの線路跡(レールや枕木は取り外されている)をみることができ、2006年の崖崩れで通行止めとなり対岸に仮ルートが建設された部分も、もとの線路跡を利用していることになります。

投稿者 nishimura : 23:18

2007年03月05日

California Geological Surveyのシエラネバダ調査:1863-1864年

1860年、カリフォルニア州政府は岩石、化石、土壌、鉱物資源、植性などの収集や、地図の作成を含む地質調査を目的とした組織California Geological Surveyを設立し、Yale大学出身のJosiah Dwight Whitneyをリーダーとし、William H. Brewer、William Ashburner、Charles Hoffmannといったメンバー[1]らが選ばれました。隊は1860年末から活動を開始しましたが、最初の2年は海岸沿いやサクラメント川沿いでの活動を中心とし、シエラネバダの調査を始めるのは、1863年の春も終わる頃でした。以下はBrewerの日記を中心に、ヨセミテ周辺での足跡を簡単にまとめたものです。

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地図:California Geological Survey、1863年夏のヨセミテ調査ルート

1863年5月、南カリフォルニアのTejon Pass方面(I-5、LAの北50マイル)での調査を終えたBrewerとHoffmannは、San Joaquin Valleyを北上し、Murphyの町(CA4沿い)でWhitneyと合流します。一行は近くにある発見されて10年ほどのCalaveras Grove[2]に行き、セコイアの巨木を観察します。このときWhitneyは、倒れていたセコイアの木の年輪を1225まで数えています。Brewerは伝わる話によると、大きな木々は倒れ、そのなかで”Father of the Forest”と呼ばれたものは、直径116ft.で、高さは400ft.あったと書いています。Murphyの町に戻った後は、金堀でにぎわうColumbia、Sonoraの町を経由し、いよいよヨセミテに向かいます。途中立ち寄ったBig Oak Flatも金鉱で賑わう小さな村で、その名の由来は、昔生えていた直径10ft.の樫(Oak)の木にあると書きとめています。翌11日には、村の北にある近くの小高い丘から、雪を被ったシエラネバダ、Table Mountain(120号が108号から分岐する付近)、そしてSan Joaquin Valleyの西側の山々を見ています。

14日にはBig Oak Flatを出発し南方へ向かい、Merced Riverの北俣沿いでキャンプし、すぐ傍にある石灰岩質のBower's Caveを見学します。いくつもの洞穴をこれまで見てきたBrewerですが、これがいちばん綺麗であると感想を述べています。15日はCoultervilleトレイルを使いBull Creek、Black's Ranch、Deer Flatに沿って進み、Crane Flatに到着し、翌日にはTuolumne Groveの見学に出かけます。1週間前にCalaveras Groveを訪れたばかりだったためか、スケールの小さいここにはあまり感動していません。この先のトレイルはかなり荒れ始めます。いくつかの谷や尾根を越えて、突然渓谷が視界に入り始めます。
この日はBridal Veil Fallを越えた、Tu-tuc-a-nu-la(El Capitan)の麓にキャンプをします。
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次の日はMerced Riverを対岸(南側)に渡り、Yosemite Fallsが真正面に見えるところまで行き、ベースキャンプを設営します。隊はこれから一週間ほどかけて、渓谷内の調査・測量を行うことになります。Brewerは、個々の滝や岩壁の形状や高度についての、詳細な記述を中心とした渓谷の概要を書きまとめています。また余談として、キャンプ地の付近のMerced川の流れが強く、渡ろうとしたら馬の足がさらわれて川に落ちたこと、ヨセミテ滝を測量しようとして、Hoffmannと共に高度差3,000ft.もある横の谷(現在のトレイルのある谷)を6時間掛けて登り、そこからみる景色に感嘆したこと、この頃渓谷にはたった12人ほどの観光客しかいなかったことについて触れています。 ところで、California Geological Surveyの最初の報告書”Geology I”は1865年に作成されますが、その中でWhitneyは学術的な話題をそれ、ヨセミテ渓谷について2点ほど面白いことを書きとめています。一つは、渓谷へのアプローチのとり方です。最初に感動的な渓谷の全容を見たいのならば、Mariposaトレイルを使い、Inspiration Pointから渓谷にルートをとるべきであること、渓谷めぐりをして個々の景観の様子を知ったあと、最後に全容を見て感動するならば、Coultervilleトレイルから入り、Mariposaトレイルで渓谷を出るルートを進めています[3]。本人はそう書いてはいないものの、Coultervilleのトレイルは今ひとつと言った感じが伺えます。もう一つは、渓谷を訪れる最適の時期について触れ、5〜7月の水の多い満月の頃に訪れることを勧めています。水のない季節に来て大岩壁を見て感動し、水がなくて少し残念だったと思うのは大間違いで、最も感動する状況を逃していると強調しています。
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6月23日、隊はいよいよヨセミテ渓谷を出発します。いったんColutervilleトレイルを西に戻り、途中でMonoトレイルに入り、この日はPorcupine Flatまで進みます。ここは標高8,850ft.のロッジポールパインの林に囲まれた小さな平地で、蚊がかなり多いと記しています。しかし、シエラの大展望があり、Whitneyはそれらを14,000ft.級の山々と思い込みかなり興奮したようです。翌日はその西側の尾根をたどり、標高11,000ft.ほどの山に初登頂します。これはメンバーの名前をとってMt. Hoffmannと名づけられました。周りには標高12,000ft.を越える山々が50ほど見られ、それらのほとんどは雪を抱いたり、急峻な岩壁を持つ花崗岩の岩峰であるとBrewerは記します。そしてスイスアルプスほどに綺麗ではないが、その広大な荒涼さが特徴であろうとしつつも、”The scene is one to be remembered for a lifetime”とその印象深さは一生ものであると書き残しています。6月25日にはTenaya Lake湖畔にキャンプをし、26日にはTuolumne MeadowsのSoda Springsに入ります。この日近くでトレイルの探査をするために近くでキャンプしていたパーティから、南軍がペンシルベニア州に侵入したことを知らされ、一行はかなり落ち込んだと記しています[4]。ともかくもこの日の夜は快晴で、月明かりに照らされ周辺の山々が美しい風景を作り出していました。
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27日にはキャンプをMono Passから3マイル付近に移し、翌28日、調子の優れないWhitneyを残しHoffmannとBrewerはガレ岩、氷、雪を越えて標高13,000ft.強の山に登り、Mt. Hoffmann以上の大展望を得ることが出来ました。この山はアメリカの地質学者の名前をとって、Mt. Danaと命名されます。キャンプに戻ってきた二人の話しを聞いたWhitneyは自分も登ると決心し、翌日三人は、再びMt. Danaの頂を目指します。Hoffmannは別の峠[4]を観察し、其処にもトレイルが作れる可能性を示唆します[5]。Berwerは、Monoトレイルが、すでにシエラの東側で見つかっていた鉱山への補給のため、パックトレインが週一度の頻度で、山を越えていることを記しています。また周辺の山々には昔あったであろう氷河の形跡がいたるところにあることを書き記しています[6] 。 30日には再びSoda Springsに戻り、翌7月1日にはWhitneyとパッカーのJohnはBig Oak Flatへ向けて戻ります。一方HoffmannとBrewerの二人はTuolumne riverの上流に探査に向かいます。谷に道はなかったものの、この日は10.5マイルほど進み、平らな谷の行き止まりでキャンプをします。
20070304E.jpg 奥には13,000ft.を越える雪を抱いた花崗岩の山が、青空を背景に聳えたっていました。 ”It was most picturesque, wild, and grand. And what an experience!…” Brewerはかなりの量を割いて、そのキャンプ地一帯の美しさを書きとめています。
7月2日は早朝に行動を開始し、奥に見える最高峰を登りに出かけます。樹林帯をぬけ、昔氷河によって磨き上げられた岩の斜面を越え、あと高度差にして1,000ft.までに迫ります。そこからの斜面の雪は場所によっては柔らかく、2-3ftも潜り始めます。出発して7時間後、二人は頂上直下125〜150ft.に達するも突破できず、其処であきらめます。高度は13,000ft.付近を示していました。この山は、英国の地質学者の名を取り、Mt. Lyellと命名されます。
20070304F.jpg翌日は朝遅くまで休んでから出発、ゆっくりとSoda Springsへ戻ってきます。7月4日、今度はTuolumne River沿いを数マイルほど下り、一帯の測量をします。Brewerは南に聳えるUnicornとCathedral Peakの二つの尖峰が特にすばらしく、まさに後者は巨大なCathedral(聖堂)のようだと書いています。あくる日は、二人はTuolumne Mewadowsの北にある岩峰[7]で最後の測量を済ませ、7日にはMono Lakeへと下りヨセミテ渓谷を出てから2週間にわたるテントなしでのヨセミテ・ハイシエラの駆け足の調査を終えました。
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資料:
”Up and Down California in 1860-1864: The Journal of William H. Brewer” William H. Brewer(1930)/Univ. of California Pressより再版
”Geology, vol I. 1865”, J. D. Whitney(1865)

挿絵(”Geology, vol I. 1865”より):
1. Yosemite Valley (Fig. 62)
2. The Obelisk Group - from Porcupine Flat (PLATE IV)
3. Cathedral Peak Group - Upper Tuolumne Valley (PLATE VI)
4. Mount Lyell and the source of the Tuolumne River (PLATE VII)
5. Summit of Mount Lyell (Fig. 73)
6. Glacier Polished Surface in Tuolumne Valley (Fig. 72)

注釈:
[1]1860-1864年の間のメンバー:
Professor J. D. Whitney ... State Geologist
Professor W. H. Brewer ... Principle Assistant, 1860-64, in charge of Botanical Department
J. G. Cooper, M.D. ... Zoologist, 1860-64
W. Ashburner ... Assistant in the Department of Economical Geology, 1860-61
C. F. Hoffmann ... Principle Topographical Assistant, 1861-64
V. Wackenreuder ... Topographical Assistant, 1862, 1863
W. M. Gabb ... Palaeontologist, 1862-64
A. Remond ... Volunteer Assistant in the Geological Field work, 1862, 1863
Clarence King ... Volunteer Assistant in the Geological Field work, 1863-64
J. T. Gardiner ... Volunteer Assistant in the Topographical Field work, 1864
C. Averill ... Clerk, Comissary and Barometrical Observer, 1860-63

[2] 1852年に発見。
[3] Coulterville及びMariposaトレイルは、現在の車道CA120とWawona Rd.は全く別のところを通っていました。
[4] 当時は南北戦争の最中:6月3日、Lee将軍率いる南軍がペンシルベニア州に侵入、やがて7月上旬のGettysburgで敗北を喫する。
[5] Tioga Pass。
[6] Muirは1870年、シエラに氷河が現存する事を発見します。ヨセミテ・シエラの氷河は、形状だけを見れば万年雪渓のようなもので、ヨーロッパでの大氷河を見ている3人にとっては、氷河と考えるに到らなかったと思われます。
[7] Ragged Peak。



1863年8月、ヨセミテを越えたBrewerとHoffmannらは、Mono Lake南岸のクレーターや、カリフォルニア・ネバダ州境にある金で賑わう町Auroraを訪ねた後、Sonora Passを越えて、出発地点のMurphyの町へ戻ってきます。その後、Ebetts PassやCarson Passを越えるルート(現在のCA4、CA88号沿い)を調査し、Lake Tahoeを周り、Sqaw Valleyからシエラを西に越えて、San Franciscoへの帰路に着きました。途中Brewerは、Sacramento川を下る蒸気船の中で、一年前にYale大学を卒業し、東海岸からカリフォルニアへと旅をしてきたClarence King(後にUSGSの初代所長となる)とJames Gardnerに出会います。すぐさまKingは無償のアシスタントとして隊に参加し、Brewerと共に年末いっぱいまで、Lassen Peak登頂を含む、北カリフォルニアのCascadeやKalmath地方の調査をしました。冬の間、KingはHoffmann、Ashburnerらと共に、Olmstedが監督するマリポサの金鉱で地質調査の仕事をし、その合間を縫って近くの山に登ります。そのとき遥か南方に白い峰々を望み、カリフォルニアの最高峰が、当時考えられていたMt. Shastaではなく、南部にあるとの確信を得ます。翌年4月、ネバダ州の西部探査の際に、同行したKingからその話を聞いたWhitneyは、そのシエラネバダの地図の空白部へ調査隊を送る決断をします。

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[横断ルート:5月~7月、下の▲はMt. Brewer。上はMt. Goddard]

1864年5月24日、Brewer、Hoffmann、King、Gardner、そしてCotterらはSan Franciscoを出発し、Visallia経由で6月10日にThomas' Mill(現Kings Canyon NPのGeneral Grant Groveのすぐ西側)に到着しました。一行は、手配中の荷物が届くのを待つ間、周辺に生えるセコイアの調査を行います。木々の太さや高さは、巻尺や三角測量を使ってかなり正確に測られました。いちばん大きなセコイアは、根元付近の円周が106ft、.高さ276ft.もあるものでした。また、火事で焼け中空となったセコイアの倒木があり、それは馬に乗ったまま、20メートルほど奥に入ることが出来るほどの巨大なものでした。Brewerはすでに幾本かの小さなセコイアが伐採され、フェンスの材料にされていること、数年のうちにまた幾本が切られるかもしれないと書きとめています。偵察のために近くの山に登ると、東には、雪を抱くシエラネバダの険しい山々が見え、Brewerはその荒々しさはいまだかつて見たことが無く、はたしてたどり着けるであろうかと、心配しています。

荷物が届き、6月17日にはいよいよ東へ向けて出発します。進路はおおむねKaweahとKings水系を分ける分水嶺に沿うもので、途中には数百本ものセコイアが見られます。Big Meadowsで数泊した後、6月28日は分水嶺上に聳える11,000ft.の山に登り、それをMt. Sillmanと命名します。その後Kings水系側の谷に下り、Roaring Riverを越え7月1日には、とある沢にキャンプを設営します。翌日BrewerとHoffmannは、沢の奥に聳えるピラミッド状の山(Mt. Brewerと命名)に登り、13,000ft.級の山々の連なるシエラネバダの主稜がさらに東にあることを発見します。戻ってきたBrewerとHoffmannの話を聞いたKingとCotterは、その一つの山(Mt. Tyndallと命名)を登りに出かけ、無事初登頂を成し遂げました。5日後二人が戻ってくると一行はキャンプ地を引き払い、エスコートのためにVisalliaからやってきた兵士たちの待つBig Meadowsへと戻ります。7月12日、Brewerは痛む歯の治療のため、Kingに付き添われ一時Visalliaへと山を降ります。其処からKingは別行動をとり、Mt. Whitneyへの登頂を試みるものの失敗、その後単独でWawonaへ戻り、Brewerらの帰りを待つことになります。

治療を終え、16日にThomas' Millに戻ったBrewerは、待っていた隊に合流し、翌日Kings渓谷へと向かいます。途中Owens Valleyからトレイルを作りながらKearsarge Passを越えてきた採鉱者らに出会い、シエラを越えるルートが開かれたことを知ります。18日に3000ft.の急斜面を下り渓谷の底に降り立ったBrewerは、川(South Fork Kings River)に鱒があふれんばかりに泳いでいたと記録しています。次の日は渓谷を上流に10マイルほど進み、川が二股に分かれるメドウ地帯にキャンプ地を定めました。Brewerはこの大渓谷の印象を、”Next to Yosemite, this is the grandest canyon I have ever seen. It much resembles Yosemite and almost rivals it”と、そのヨセミテに次ぐ大渓谷で、様相も似ていると表現します。
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[Kings渓谷(South Fork)]

Hoffmann、Gardner、Brewerらが渓谷の南側を調査する間、兵士たちは、たった5マイルで4,000ft.も高度を稼ぐ急峻な北側の斜面を偵察し、Kings渓谷を抜け出すことが可能と思われるルートを発見します。一行はそれを辿り峠を越えて、次の測量地点として定めたMr. Goddardへと向かうべく、北側の渓谷Middle Fork Kings Canyonへの下降ルートを探し求めます。しかし、その急な斜面に荷物を持ったパックが通過が出来るルートは見つけることは出来ず、Kearsarge Passからのルートを使い、ひとたびシエラを東に越えて、北側から回りこみMt. Godderedを目指すことにします。Kings渓谷に戻った一行は、26日にBubbs Creek沿いのトレイルを辿り始めます。最初の1,500ftの斜面はかなり急で、所によっては馬やミュールを引っ張りあげなければなりませんでした。苦労をしながらこの日はBubbs Creek、Charlot Creek沿いに11マイルほど進み、翌日はKearsarge Passを越え、28日には灼熱のOwens Valley(Independence)に下りました。
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[Middle Fork Kings River越しに望むMt. Goddard(左)]

一行は、Palisade(隊が命名)山群をはじめとする14,000~13,000ft.級のシエラネバダの山々を西に望みつつ、Owens Valleyを北上します。この間Brewerは、植物学が専門だけあって、Owens Valleyの植生についてきめ細かい観察を残しています。8月1日、隊は進路を西に変え、Rock Creekを辿り、8,000ft付近でキャンプをします。そして翌日、山陰の小さな谷を上り、雪と岩、そして砂に覆われた標高12,000ftの峠(Mono Pass)でシエラネバダの主稜線を越え、San Joaquin水系(Mono Creek)へと入ります。近くの尾根で一帯の偵察をした後、4日には谷を18マイルほど下り、Vermilion Valley(現在のLake Thomas A Edison付近)に到着しました。此処にベースキャンプを定め、隊は二つに分かれ、4人の兵士たちはシエラ西麓のFort Miller(現在はMillerton Lakeの湖底)へと食料調達に、残ったBrewerらは南側(Kings水系)からのアプローチに失敗したMt. Goddardを目指します。

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[横断ルート:8月、▲はMt. Goddard]

馬で進んだBrewerたちは、9日標高10,000ft.、目指す山まであと7マイル付近と思われるところまで達します。翌朝は夜明けと共に徒歩で出発、標高11,000ft程度の岩尾根を乗り越えていきました(Le Conte Divideに沿って進んだと考えられています)。7番目の尾根を越えたときに見たのは、さらに6マイルも先に聳えるMt. Goddardで、しかも二つの深い渓谷が間を隔てていました。すでに行動時間は9時間を越えており、HoffmannとBrewerはそこで断念し、引き返すことにします。Cotterと兵士のSprattはあきらめず、さらに進み続けましたが、ルートが見つけられず頂上まで300ft.を残したところで引き返すことになりました。そして夜通し歩き続け、翌日の午後、出発してから36時間をかけて、食べ物も切らし、馬を残したキャンプ地へと戻ってきました。ベースキャンプに戻り、数日間休養した後の8月15日、今度はSan Joaquin水系の北部探査に向けて隊は進みます。しかし以前から不調を訴えていたHoffmannの足の状況が悪化するにいたり、8月21日、調査を打ち切ることにします。そして8月23日、Clark's Ranch(ワオナにあったGalen Clarkの経営する宿)に到着し、Olmsted、Ashburner、3週間前にMt. Whitneyの試登(失敗)を終えて戻っていたKingらと再会します。Brewerは、隊員の服はぼろぼろで、馬も傷つき、本人の体重は30ポンドほど減ったと、調査行の厳しさを書きとめています。Hoffmannの様態を見る間Brewerは、Olmstedと共にヨセミテに出かけます。渓谷からはMonoトレイルを使いMt. Danaを目指しましたが、Olmstedはあまり山歩きが得意ではなかったため、馬で行ける隣の山に登り、それをMt. Gibbsと命名しました。Brewerがヨセミテ旅行から帰ってきても、Hoffmannの様態は悪化する一方でした。そこで4人は、Hoffmannを医者に診せるため、担架を使いマリポサへ山越えし、そこから先はKingとCotterがStockton経由でSan Franciscoへ送り届けました。そして後を追うように、BrewerとGardnerもOlmstedと共にマリポサを去ります。

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[”Geology Vol. I”に掲載されたBalloon Dome(Middle Fork San Joaquin River):Hoffmannのスケッチに基づく版画]

San Franciscoに戻ったBrewerは、Yale大学から教授職内定の手紙を受け取り、カリフォルニアを離れる決心をしました。4年間に渡るCalifornia Geological Surveyの仕事の間Brewerが廻った距離は、公共交通機関で4,440マイル、馬で7,564マイル、そして徒歩で3,101マイルの計15,105マイルでした。隊の1864年の活動は、たった3ヶ月半で広大なシエラネバダ山系(ヨセミテの南)の偵察的調査をするもので、時間、予算、人的にもかなり制約されたものでしたが、Kern Riverの水源を確認したこと、Great Western Divide(Kings及びKernの分水嶺)の位置を正しくつかんだこと、シエラネバダに残る氷河活動の跡を確認したこと、幾つもの地点の標高を測量・推定したことなどと、数多くの成果を残しました。

さて、Brewer一行がシエラの調査をしていた6月末、連邦政府はLincoln大統領のサインを得て、ヨセミテ渓谷とマリポサグローブを州の公園として譲渡する法案を通しました。カリフォルニア州では、年末に議会の開催が予定されており、公園の管理委員会メンバーに選ばれていたWhitneyは、それに間に合わせるべく、急ぎ公園の境界地図や報告書を作成する必要がありました。9月中旬San Franciscoに戻ってきたばかりのKing、Gardner、そしてCotterらはWhitneyの命を受け、急遽ヨセミテ渓谷へと向かう事になります。測量に残された時間は、冬の嵐が来て山が閉ざされてしまうまでの数ヶ月しかありませんでした。




資料:
”Up and Down California in 1860-1864: The Journal of William H. Brewer” William H. Brewer
”Geology, vol I. 1865”, J. D. Whitney
”Mountaineering in The Sierra Nevada”, Clarence King
”King of the 40th Parallel”, James Gregory Moore, Stanford Univ. Press
”Exploring The Highest Sierra” James G. Moore, Stanford Univ. Press
”History of The Sierra Nevada”, Francic P. Farquhar, Univ. of California Press
”Clarence King”, Thurman Wilkins, Univ. of New Mexico Press

投稿者 toshi : 03:35

2007年02月26日

Clarence KingとMt. Whitney

Eastern SierraのOwens ValleyにあるLone Pineの町の西に座すMt. Whitney(標高14,491ft.)は、アラスカを除く米国49州の最高峰として知られ、毎年多くのハイカーがその頂上に挑みます。この山は1864年California Geological Surveyによって遠方から初めて測量され、推定標高約15,000ft.の合衆国最高峰(アラスカ移譲は1867年)として記録されました。当時の測量隊メンバーであったClarence Kingは、南からアプローチし、登頂を試みましたが、頂上付近で敗退してしまいました。7年後、シエラネバダに立ち寄ったKingは、ついにこの山の初登頂を果たします。しかしその2年後、それが別の山であったことがわかります。Kingは急遽舞い戻り、真のMt. Whitneyを目指し、ついに9月17日、頂上に達しました。しかし時すでに遅く、山は数パーティが登った後でした。以下は、Clarence Kingを中心としたMt. Whitneyの測量と初登頂にまつわる興味深い話のまとめです。

20070227A.jpg1864年5月24日、サンフランシスコを出発したCalifornia Geological SurveyのWilliam H. Brewer、Charles F. Hoffmann、Clarence King、James T. Gardiner、そしてRichard Cotterらは、San Francisco湾沿いを南下しPacheco Passを越え、San Joaquin Valley(現在のセントラルヴァレー)を横断し、Visaliaに至ります。そこから一行は、シエラネバダへ向かい、セコイアの巨木群(現在のGrant Grove付近)を抜け、6月下旬にはKings渓谷の南側の山域に入り測量を開始しました。7月2日の早朝BrewerとHoffmannは、キャンプ地の東に聳えるピラミッド状の山の頂を目指します。8時間の辛い登りの後、ようやく標高13,600ftの山頂に立った二人は、東側に広がる荒々しい13,000ft.級の山容に息を呑みます。

”Such a landscape! A hundred peaks in sight over thirteen thousand feet - many very sharp-deep canyons, cliffs in every direction almost rivaling Yosemite, sharp ridges almost inaccessible to man, on which human foot has never trod - all combined to produce a view the sublimity of which is rarely equaled, one which few are privileged to behold.” - Brewer, July 2nd. 1864

この日二人が登った山は、リーダーの名前を取り、Mt. Brewerと命名されることになります。測量を終えキャンプに戻ってきた二人から、東に連なる高い山々の話を聞いた助手のKingは、Cotterと共にそのひとつへの登山を試みる許可を願い出ます。そして二日後の7月4日、6日分の食料と測量器具を含め、40ポンドの装備を担いだ二人は、再度Mt. Brewerの頂上で測量を行うBrewerとGardinerと頂上の南側の肩で別れ、南東方面の懸崖へと進んで行きました。崖を下り12,000ft.付近で寒い夜を過した次の日、二人はKings-Kernの分水嶺を乗り越え、Kern Riverの上流地帯に2泊目のキャンプ地を定めます。そして3日目は月明かりの下を歩き始め、目の前に聳える目標の山の北東斜面に取り付き、12時ちょうどに標高14,360ftの頂に立ちました。20070227B.jpgKingはこの山を物理学者で山岳探検家の名前を取ってMt. Tyndallと命名します。水平儀を使って見回すと、二人が驚いたことに、自分たちの立っているところよりもさらに高い二つの山と、ほぼ同じ高さの二つの山が確認されます。特に南6マイルほどに聳える最高峰は、ヘルメットを切ったような形をしていました。この山はやがて調査隊の所長の名を取りMt. Whitneyと命名されることになります。


”To our surprise upon sweeping the horizon with my level, there appeared two peakes equal height with us, and two rising even higher. That which looked highest of all was a cleanly cut helmet of granite upon the same ridge with Mount Tyndall, lying about six miles south, and fronting the desert with a bald square bluff which rises to the crest of the peak, where a white fold of snow trims it gracefully. Mount Whitney, as we afterwards called it in honor of our chief, is probably the highest land within the United States. Its summit looked glorious, but inaccessible.” - King, Mountaineering in the Sierra Nevada

測量を終えた二人は、南西斜面を下り、夕方にはキャンプ地に戻ります、そしてさらに途中で一泊をして、無事3人の待つベースキャンプ地へと戻って来ました。その後Kingは、歯痛の治療のため一時山を下るBrewerをエスコートしVisaliaへと向かい、7月14日そこから二人の兵士とともに、今度は工事中のHockett Trailを使いKern Riverに入り、それを辿り北上、南側からMt. Whitneyを目指します。KingはWhitneyの南東数マイル付近で分水嶺を越え東側に回りこみ、急峻な東壁側から頂上を目指します。しかし、たどり着けたのは頂上までの高度差にして300〜400ft.程度を残すところでした。そのとき高度計は14,740ft.を示していました。これによりWhitneyの推定標高は15,000ft.と記録されることになります。

1870年、HoffmannはOwens Valleyを訪れ一帯の測量を行います。このとき隊は、Lone Pineの南西に聳える山をMt. Whitneyと定めます。測量が終わり、San Franciscoに戻りデータを整理し始めたHoffmannは、1864年の測量結果との矛盾に気がつきます。当時の測量が、1864年のMt. Brewerからの測定と、KingによるMt. Tyndallからの簡易コンパスの方位の2点のみであったことから、それらに誤差があったと結論づけ、今回の測量結果を採用することにしました。こうして誤った山(Mt. Langley)をMt. Whitneyとする地図の作成が進められ、2年後の1873年に公表されることになります。このときの助手Watson A. Goodyearは、当時地元の人々からSheep Mountainと呼ばれていたこの山が、実際のMt. WhitneyよりもややOwens Valley側(東側)に迫っており高く見えることから、隊はそれを最高峰と勘違いしてしまったと回顧しています。20070222C.jpg

1871年Kingは、San Franciscoから自分が指揮している測量プロジェクトが行われているWyomingへ戻る途中にLone Pineに立ち寄り、Paul Pinsonと馬の面倒見役の子供を雇い、Hoffmannの測量地図に基づいて、南東に聳える偽Mt. Whitneyを目指します。この頃Lone Pine付近は悪天候が続いていました。山麓で馬を降り、二人は松、ヒバに覆われた岩の尾根を登りはじめますが、途中で嵐に会い、ずぶぬれになってしまいます。次の日の朝は雲ひとつない空で明けます。頂上直下の雪の斜面でKingがすべるという、少し緊張する場面はあったものの、登山ルートはおおむね困難や危険のない登りが続き、二人は雲に覆われ見通しの利かない頂上に達することが出来ました。しかしそこには、インディアンが組んだと思われる矢の差し込まれた岩がつんでありました。ともかくも、Mt. Whitneyの頂上に達したと確信したKingは、登頂の証拠に名前を書いた紙幣を残し、下山の途に着きます。Kingはそのあとすぐに「Mountaineering in the Sierra Nevada」(1872年)を出版し、Atlantic Monthlyへの投稿記事とともに(偽)Mt. Whitneyの初登頂記が紹介されます。

”Above us but thirty feet rose a crest, beyond which we say nothing. I dared not to think it the summit till we stood there, and Mount Whitney was under our feet. Close beside us a small mound of rock was piles upon the peak, and solidly built into it an Indian arrow-shaft, pointing due west. I climbed out to the southwest brink, and, looking down, could see that fatal precipice which had prevented me seven years before. I strained my eyes beyond, but already dense, impenetrable clouds had closed us in.” - King, Mountaineering in the Sierra Nevada

Kingの(偽)Mt. Whitney初登頂から2年後の1873年7月27日、Hoffmannの1870年の測量で助手を務めていたA. GoodyearとM.W. Belshawは、Kingの上った山に登頂を果たしました。しかしそこで見たものは、北西6マイル方面に聳えるひときわ高い山でした。8月4日、Goodyearは早速このことをSan Franciscoで開かれたカリフォルニア科学院の会合で発表をし、最高峰のMt. Whitneyが別のところにあったことが知られることになります。連絡を受け取ったKingは、急ぎニューヨークからカリフォルニアへとやってきて、今度はシエラネバダの西側のVisaliaの町からSeamanとKnowlesと共に、1864年のようにHockett Trailを使い、Mt. Whitneyにアプローチします。Kern RiverからMt. WhitneyとMt. Langley(Sheep Mountain)の間の支谷を辿り、シエラの主稜線上に立ったKingは、北西に聳えるMt. Whitney、南東に聳える偽Mt. Whitney(Mt. Langley)、そして自分が辿った1864年の東壁ルートを確認しました。Mt. Whitneyの南西側に簡単そうな斜面を認めたKingらはKern River付近まで戻り北上、Mt. Whitneyの西側の谷(Whitney Creek)に回り込みます。登頂前日は、標高12,000ft.付近にキャンプ地を定めます。望遠鏡でルートを見上げたKingは、頂上までの数時間の簡単な登りだろうと安堵します。翌日(9月19日)、KingとKnowlesは11時ちょうど、何の困難に出会うことなく真のWhitneyの頂上に立つことが出来ました。しかしときすでに頂上には、先行2パーティらが残した積み石や、メモなどが残されていました。9年越しの希望がかなったKingですが、さまざまな思いが脳裏を駆け巡ったと思われます。

”This is the true Mount Whitney, the one we named in 1864, and upon which the name of our cheif is forever to rest.” - King, Mountaineering in the Sierra Nevada

そしてKingは残してあった登頂記録メモに、先行者たちへの敬意を表したメッセージを書き足します。

”Sept. 19th, 1873. This peak, Mt. Whitney, was this day climbed by Clarence King, U.S. Geologist, and Frank F. Knowles of Tule River. On Sept. 1st, in New York, I first learned that the high peak south of here, which I climbed in 1871, was not Mt. Whitney, and I immediately came here. Clouds and storms prevented me from recognizing this in 1871, or I should have come here then. All honor to those who came here before me.
C. King
Notice. Gentlemen, the looky finder of this half a dollar is wellkome to it.
Carl Rabe Sept. 6th, 1873”

このメモを確認したのは、1月後に頂上を極めたJohn Muirでした。MuirもHoffmannの地図に従って偽Mt. Whitneyに登り、そこで地図のあやまちに気付き南側から頂上を目指ます。しかし到達できず、頂上のすぐ近く(Mt. Muir付近)で寒さに震えてビバークをし、敗退します。しかしその数日後、今度は東側から直接アプローチし第5登に成功しました。

絵と写真について:
1:Hoffmannによる南西から見たMt. Brewerのスケッチ。高度10,800ft.より。
2:Mt. Tyndallから見たMt. Whitney(中央奥)
3:Mt. Brewer, Mt. Tyndall, Lone PineからMt. WhitneyとMt. Langleyへの方位。Brewer-Whiney(約14マイル)、Tyndall-Whitney(約6マイル)、Lone Pine-Whitney(約13マイル) Lone Pine-Mt. Langley(約11マイル)

Mt. Whitney登頂記録:
初期の登頂が何時、誰によって行われたかについては、地元Lone Pineでかなりもめたようですが、最終的には次のように落ち着いています。
(1) 8月18日 1873: Charles D. Begole, Albert H. Johnson, John Lucas
(2) 8月末 1873: William Crapo, Abe Leyda
(3) 9月6日 1873: William Crapo, William L. Hunter, Tom McDonough, Carl Rabe
(4) 9月19日 1873: Clarence King, Frank Knowles
(5) 10月21日 1873: John Muir

参考資料:
”Geology, vol I. 1865”, J. D. Whitney(1865)
”Mountaineering in the Sierra Nevada” Clarence King (1872・1874改訂版)/Univ. of Nebraska Pressより再版
”Up and Down California in 1860-1864: The Journal of William H. Brewer” William H. Brewer(1930)/Univ. of California Pressより再版
”History of the Sierra Nevada” Francis P. Farquhar(1965)/Univ. of California Pressより再版
”Exploring The Highest Sierra”James G. Moore, Stanford Univ. Press
”The Life and Letters” John Muir (by William Frederic Bade` 1924)

投稿者 toshi : 07:24

2006年12月10日

[3.7] ヨセミテ国立公園:境界変更(1905年)

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1890年10月1日、ヨセミテ国立公園が制定されてから、ヨセミテ渓谷及びマリポサグローブを除くヨセミテ一帯は、連邦政府により保護・管理されることになりました。この法律は、内務省長官が管理の為のルールや規定を作ることを定めており、当時の内務省長官Nobleは、軍隊を用い、伐採、放牧などの取り締まりをさせることを決めています。早速サンフランシスコのGolden Gate BridgeそばのPresidioに駐屯している騎兵隊は、5月〜10月の間Wawonaに本部を置き(ヨセミテ渓谷が連邦に返還される1906年まで)、ヨセミテをパトロールすることになります。最初のヨセミテ公園長(代理)に任命(1891〜1892)されたのは、第四騎兵連隊I-中隊の指揮官Abram E. Wood大尉でした。ヨセミテに入った騎兵隊は、早速判然としない公園の境界問題に直面します。特に西側の公園内には、かなりの数の私有地が存在し、パトロールをかなり困難なものにしました。また放牧者らも、私有地を使い、公園内へと簡単に侵入してきました。Wood大尉は1891年度の内務省長官への報告書で、公園内に含まれる私有地が65,000エーカーにも及び、さらに300もの鉱山の採掘権が許可されていることを指摘しています。そして、公園の規模が小さくなるものの、分水嶺や、川などで新境界を指定することにより、私有地を公園からほとんど除外でき、パトロールが簡単になると述べていました。また連邦議会では、Camminetti議員らにより、境界変更の法案を通す試みが行われましたが、シエラクラブの反対運動によって、成立しませんでした。

1903年、ヨセミテ国立公園内に広大な私有地を持つYosemite Lumber Companyが公園内で伐採を始めると、ついに連邦議会も境界問題にアクションをとり始めます。連邦議会は調査に$3,000の予算をあて、1904年4月28日、内務省長官Ethan Allen Hitchcockに、ヨセミテの境界に関してどの区域が公園として不必要か調査するよう指示します。6月14日、Hitchcock長官は陸軍技術部隊のH. M. Chittenden少佐、USGSの地形図作成係Bob Marshall、内務省Genaral Land Officeの地図課Frank Bondをメンバーとする、境界に関する委員会(Federal Boundary Commission)を設立しました。委員会は6月24日にWawonaに到着し、公園の調査を開始しました。7月9日にはHetch Hetchyを含む主要な地点のフィールド調査を終了、その後サンフランシスコで関係者らの意見を聞きます。7月2日にMuirは、Chittendenから、会って意見を聞きたいという手紙を受け取ります(実際Muirが委員会と会ったのかは資料がなく、不明です)。8月23日には、Muir、LeConte、Colbyらにより、Mercedグローブも含んだ公園南西部の3区画を削除し、東側には現在のTioga Pass(鉱山を含む)、June Lake、Mammoth Lakes付近(同じく鉱山を含む)に区画を追加するという対案書が作成され、委員会に送られました。さらにColbyは28日にChittenden宛に、公園内には多くの採掘権があるものの、それらはほんのわずかばかりの土地しか占めていない。ならば、ある制限のもとで、公園内でそにまま採掘させるのは可能ではないか。その方が、すばらしい景色を楽しめる大きな公園区画を失うよりは良いのではないかとも書き送っています。

公園内の私有地の買い上げも考慮されましたが、評価額は$4Mにも及び、連邦がそのような予算を捻出するのは不可能であること、さらの鉱山の採掘権の問題もあり、最終的な委員会の提案は、新しいヨセミテ国立公園の新境界を、北・東、そして南の境界はTuolumne及びMercedの水系で囲まれ、西側は、ほぼGLOの測地境界とするものでした。シエラクラブとしては不満だったものの、何故か反対運動はしませんでした。12月5日のHitchcockによる議会への最終報告に基づく法案:”An Act to Exclude from the Yosemite National Park, California, certain lands therein described, and to attach and include the said lands in the Sierra Forest Reserve”(H.R. 17345)は議会を通過し、1905年2月7日にRoosevelt大統領によってサインされました。これによって、ヨセミテ国立公園は総面積を1,512平方マイルから1,082平方マイルの約2/3に縮小され、現在とほぼ同じ形状の境界線を持つことになりました。しかしヨセミテ渓谷とMariposa Groveは依然カリフォルニア州のもので、公園内には22,000エーカーの私有地が残されていました。


地図:黄色は1890年に決められたヨセミテ国立公園の境界。白はChittendenらのヨセミテ境界調査委員会が提案し、採用された1905年の新境界。ヨセミテ渓谷、Mariposa Groveは、依然州の所有地。西側の突起は、Tuolumne、Merced Groveを含む地帯。シエラクラブの対案は、1890年の境界から南西の区画を削り、東側に3区画を付け足すもの。

話の流れは[3.3] [3.4] [3.5] [3.6]を参考にしてください。

投稿者 toshi : 09:27

2006年09月03日

A Rival of Yosemite: 1891年6月

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Muirの歩いたシエラネバダ(続き)
1891年5月28日、Muirは画家のRobinsonと共にSan Franciscoを出発し、Kings渓谷と出来たばかりのGeneral Grant及びSequoia National Parkへと向かいます。これは1873年10月、1875年7月、そして1877年10月の旅行に続き、Muirにとって4度目の訪問となります。日記[1]によると、5月30日にGeneral Grant National Parkを訪ね、6月1日にはKings渓谷へと下り、そこで2週間近くをすごしています。Robinsonと共に渓谷沿いの岩山(Second Sentinel)に登ったこと、出会った少年が熊をしとめた話、帰るときに増水した川にミュールが落ち、それを助けたことなどのエピソードが書かれています。Muirは渓谷の様子について克明な記述を残しており、そこがヨセミテ渓谷とかなり似た形状をしていると書いています[2]。MuirはここでYosemiteという言葉をヨセミテ渓谷のような形状の谷と一般化し、The Kings River Yosemiteと使っています。

さてMuirは同年11月、Century誌に”A Rival of Yosemite: The Canyon of the South Fork of King's River, California”[2]という記事を掲載します。これはKings渓谷の概略、アプローチ、渓谷景観の詳細な記述、過去4回の自分の探査行などをRobinsonの描いたスケッチと共にまとめたものです。78ページ目(記事の第2ページ)には、出来たばかりのSequoia National Parkの地図があり、そこにKings渓谷を含む広大な一帯を追加する提案がされています[3]。日記と”A Rival of Yosemite”を読み比べると、後者ではかなり自然保護を訴えていることに気づきます。また日記では淡々と書きとめた熊狩りの話ですが、動物愛護風の書き方に変わっています。

写真:Kings渓谷の上半分を上流から望む。

参考:
[1]"John of the Mountains: Unpublished Journals of John Muir"(Linnie Marsh Wolfe編)
[2]6月1日のエントリーは、渓谷の様子について詳しく書いています。しかしWolfeは脚注で、オリジナルの日記が判読不明なためCentry誌の記事を使って代用したと書いています。注意して読み比べると、数行を除いて完全なコピーとなっています。
[3]"Remembered Yesterdays"(Robert Underwood Johnson著)によると、1891年5月にJohnsonは、Muirに依頼して作らせたKings渓谷付近の地図を内務省長官Nobleに送り、その一帯を保護区とするように提案しています。Muirは常日ごろ、ヨセミテ渓谷よりKings渓谷のほうがよりすばらしいと主張していたとの事です。 ”May, 1891, I sent him a sketch map which at my request Muir had made of the Kings's River Canyon region to support my proposal that a large reservation should be made to include that gorge, which Muir always asserted was more wonderful than the Yosemite.” これにNobleは8月28日に返信し、Kings渓谷をSequoia NPに組み込む件は、機会があったら大統領に尋ねてみると返答しています。 ”It will greatly please me to bring the additional reservation for the Sequoia National Park before the President as soon as an opportunity is afforded. The necessary legislation will also be asked.”

投稿者 toshi : 02:16

2006年08月31日

ヨセミテ国立公園の境界変更案:Caminetti法案(1892年)

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Muirの自然保護運動(続き): 1890年10月1日にヨセミテ一帯を国立公園にする法案が通過すると、Mariposa、Tuolumne、Mono、Fresno郡の人々は、自分たちの税収源が突然失われてしまった事に気づきました。また山岳地帯で自由に放牧をしていた牧畜業者たちは、一帯が突然閉鎖されてしまった事に反対していました。やがて新聞記事、牧畜業者や林業者組合の会合などで反対意見は勢いづき、1891年1月末には連邦議会への嘆願書が出されるに到ります。
このような中、1892年2月10日、連邦下院議員のAnthony Caminetti(元カリフォルニア州の議員)は、鉱山、牧畜、林業者らにとって重要な一帯を、ヨセミテ国立公園の境界から除くための法案HR5764を農務委員会に提出しました(しかしながらCaminettiは、自然資源の保護の重要性も理解しており、脚下されたものの、1892年5月26日には、ヨセミテ国立公園の保護のために1万ドルの予算をつける予算修正案を申請したり、前述HR5764で、ヨセミテ国立公園の湖沼に農務省長官の裁量で魚の放流ができるという項も付加していました)。
同じ頃、内務省長官Noble(R. U. Johnsonとは1890年10月以来書簡のやり取りがある。1891年6月には二人はYale大学より名誉称号を授与されている)は、議会で前年度(1891年)の年次報告をし、夏の間ヨセミテ国立公園をパトロールする第四騎兵隊(Saf Francisco、Presidioが駐屯地)I中隊長のWood大尉(ヨセミテ国立公園長代理)の推薦に基づき、公園境界の見直しを推薦します。Muirは3月24日にNoble宛に手紙を出し、境界の縮小案に賛成の意を表明します。一方、チャーターメンバーのJames Mason Hutchings(Muirがヨセミテに住んでいたとき働いていたホテルの経営主)やJohn T. McLean博士は、同月25日と26日に同じくNoble宛に強固に反対する手紙を出します。特にHutchingsは、更にMt. DanaとMt.Warren一帯(T1N/R25E)を公園に取り込むことを推薦しています。
6月に結成されたばかりのシエラクラブは、10月1日にOlneyの事務所で理事会を開き、クラブとして活動を開始することを決めます。2週間後に開かれた総会では、Caminetti法案の説明がされます。Caminetti議員は、11月5日の総会に出席し、Olneyとディベートをする予定でしたが、これは都合で実現できませんでした。そして、このときクラブは、法案反対の請願書を連邦議会の農務委員会へと送る事で決議しました。当時の理事会の議事録は、1906年のサンフランシスコ大地震の火災で焼失しまい、前述のMuirの境界変更への賛成意見が自分で取り下げられたのか、他のメンバーに押し切られたのかは不明ですが、最終的には境界変更を全く認めないということで嘆願書は作成されました。反対の主な理由は以下の通りです。

[1]T4S/R25、T4S/R25E、T3S/R25E(地図右下の三区画)はSan Joaquin川の重要な水源地帯である。[2]T1S/R19E、T2S/R19E、T1S/R20E(地図中央左の三区画)は重要な森林地帯でまたTuolumneとMercedのセコイアグローブもある。[3]T1N/R19E、T2N/R19Eは州の水源地帯として保護されるべきである(現在はEleanorとCherry湖が出来ている)。[4]T2N/R20EとT2N/R21Eの上半分、T2N/R22E、T2N/R23E、T2N/R24E、T1N/R22Eの上半分、T1N/R23Eの上半分、T1N/R24E、T1S/R25E(残りの地図上側の区画)はTuolumne川の水源地帯であり、Hetch-Hetchyを含む一帯は、将来重要な観光地になることが考えられる。

1893年2月、Caminetti案が農務委員会の議題に上ることを知ったR. U. JohnsonはMuirに電報を打ち、シエラクラブとして抗議することを求めます。2月6日、Muirは委員長宛に"The Caminetti bill is in favor of sheepmen and timbermen chiefly the latter. We urge delay until the light shines"と電報を送りました。これがどう影響を与えたのかは定かではありませんが、まもなくCaminetti案は委員会内で消滅してしまいました。
しかし翌1894年8月1日に、Caminettiは大統領の許可があれば、議会の承認なしに内務省長官が、その裁量で公園の境界変更が出来るという法案(HR7872)を公地委員会へ提出します。すでに長官Nobleは、1893年3月にHarrisonからClevelandへの政権交代に伴い退任しており、新たにHawk Smithが就任していました。MuirはSmithもNobleのように境界変更に賛成する事を恐れ、シエラクラブとしての意見書を送る事にします。シエラクラブの書記のElliot McAllister(カリフォルニア州議員)は、1985年1月15日にCaminettie法案を破棄を呼びかける州法案を提出、これは両院で通過し連邦議会へと送られました。やがてCaminetti法案は1895年3月2日に廃案となり、またCaminnetti本人も選挙での二選目を果たすことができませんでした。こうしてヨセミテ国立公園の最初の境界変更の危機はとりあえず回避することが出来ました。


地図:Caminetti議員が提案したヨセミテ国立公園の境界変更案(青)。赤は1890年に設定された公園境界線。

この記事は"John Muir and the Sierra Club" (Holway R. Jones著、1965年出版)の11〜15ページを要約したものです。また"Yosemite: The Embattled Wilderness"(Alfred Runte、1990年)、"How the U.S. Cavalry Saved Our National Parks"(H. Duane Hamption著、1971年)、"Remembered Yesterdays"(Robert Underwood Johnson著)も参考にしました。

投稿者 toshi : 13:52

2005年12月31日

ヨセミテの歴史:1833年〜1914年

ヨセミテの歴史

更新ログ:
2006年2月9日:再構成開始。
2006年2月11日:Walker隊のヨセミテ横断を再編集。




1833年:Walker隊のヨセミテ横断

1851年はマリポサ大隊が開拓者としては始めてYosemite渓谷内を探査、キャンプをした年です。 しかしすでにその18年前(1833年)の10月、ヨセミテ渓谷及びセコイアはシエラを横断したJoseph Walkerらによって発見されていました。パーティーの一員であったZenas Leonardはそのときの記録を「Narrative of the Adventures of Zenas Leonard」(1839年出版)に残しています。以下はその要約です。

ネバダの湖沼(Battle Lakeと命名)でインディアンと戦ったWalker隊は、1833年10月10日にアルカリ性で水の流出のない湖に達します。彼らの眼前には南北へと連なる大きな山々が聳え立っていました。偵察の後、湖に流れ込む川のひとつを辿り、2日間で草木の全くない峠に達しました。そこからは深い雪の中を進んで行きましたが、食料は尽き、ついには次々と倒れる馬を食べざるを得ない状況となってしまいます。 峠についてから5日ほど経った頃、自然の作り上げた奇観(an occasional specimen of the wonders of nature's handy-work)や、雪の下から出た水が深い岩の割れ目を伝って流れ、やがて岩壁(その中のあるものは高度差にして1.6キロはある)から流れ落ちていく光景を見かけます:

Here we began to encounter in our path, many small streams which would shoot out from under these high snow-banks, and after running a short distance in deep chasms which they have through ages cut in the rocks, precipitate themselves from one lofty precipice to another, until they are exhausted in rain below. - Some of these precipices appeared to us to be more than a mile high.

岩壁の下に見える谷への下降路を探しましたが、見つからなかったので二つの大峡谷を分ける尾根に沿って西進を続ける事にします:

We were then obliged to keep along the top of the dividing ridge between two of these chasms which seemed to lead pretty near in the direction we were going - which was West,

数日後、ハンターの一人が偵察中にインデアンと遭遇、落としていった木の実をもって帰ります。これにより、彼らは食料が採れる高さまで山を下ってきていることを知り、勇気づけられます。そして数日後には巨大な木を発見します:

we have found some trees of the Red-wood species, incredibly large - some of which would measure from 16 to 18 fathoms round the trunk at the height of a man's head from the ground.

その数日後、彼らは西のかなたに黄色く光る平原を望みます。馬をロープに繋ぐなどして急な斜面を下り、雪のない、動物の豊かな地帯へと降り立ったのでした(10月30日)。

さていかがでしょう。もし10月10日にたどり着いた湖をMono Lake、最初に登った峠をMono Pass、奇観はTuolumne Meadows西側のドーム群、1.6kmの岩壁はClouds Rest、二つの大渓谷はYosemiteとTuolumne、セコイア発見場所はTuolumneもしくはMerced Grove、黄色く光る平原はセントラルバレーと考えればなんとなくそのルートが同定できそうな感じです。しかしながら、地図や写真を目の前に広げ、何度もLeonardの文を読み返すと、次から次へ疑問点や矛盾点が見つかってしまいます。そのうちに詳しい解読をしてみようと思います。

参考:

* Narrative of the adventures of Zenas Leonard

* Francis P. Farquhar,"History of the Sierra Nevada", University of California Press

Walker隊のルートについては諸説がある。 FarquharはMono Pass説を採らず、Twin Lakes(ヨセミテ国立公園の北東)方面からTuolumneに達したとい書いています。

"Accepting the fact that Walker's party saw Yosemite, we can make a reasonable interpretation of Leonard's narrative of the preceding few weeks. From somewhere west of Tuolumne Meadows the party must have been following the general course of the old Mono Indian trail, in general the route of the present Tioga Road. Before reaching this they had struggled for a number of days through a country of hills, rocks, and snowfields, had found lakes and timberline-type trees. They could not, therefore, have crossed by Bloody Canyon and Mono Pass, nor even Tioga Pass; for if they had, they would not have encountered the rough country described. The answer seems clear. They must have been floundering through the intricate mazes of the northern tributaries of the Tuolumne River. Working backwards,  this brings us to the most likely point of crossing the crest, somewhere at the head of East Walker River west of Bridgeport Valley" 


追記(2006年1月4日):
貴重な資料を提供しているMountain Men and the Fur Tradeウエブサイトが長期間メインテナンスされておらず、いつクローズしてもおかしくないような状態です。バックアップとして、Zenas Leonardの書いたWalker隊ヨセミテ横断(1833年)の行動記録をコピーしておきます。

「Adventure of Mountain Man: The Narrative of Zenas Leonard」

ヨセミテ横断は35ページ、モノレイクに到達したあたりから始まります。

著作権については、ダウンロード、再掲示が許可されています。




1849年: Abrams のヨセミテ渓谷発見

1851年の3月末、Mariposa大隊は白人として初めて、Yosemite Valleyを正面(Old Inspiration Point)から展望、渓谷内でのキャンプや探査をしました(最初にYosemite Valleyの一部を上から見かけたのはWalker隊ですが、渓谷には降りていません)。しかしその1年半ほど前(1849年10月)、Abramsと Reamerというハンターが、Merced 川沿いで熊狩りをしている最中に渓谷を見かけていたそうです。Abramsは日記の中で、以下のように書きとめています。

「…a valley enclosed by stupendous cliffs rising perhaps 3,000 feet from their base and which gave us cause for wonder. Not far off a waterfall dropped from a cliff below three jagged peaks into the valley, while farther beyond a rounded mountain stood, the valley side of which looked as though it had been sliced with a knife as one would slice a loaf of bread …」

渓谷の深さが3000フィートとかなり的確な推定をしています。Waterfallは ブライダルベイル滝、three jagged peaks はカセードラルロック、そしてrounded mountainはハーフドームで間違いないと思います。特にエルキャピタンに関する表現は無いようです。

参考:

Francis P. Farquhar 「History of The Sierra Navada」 Uiversity of California Press
Abramsの日記について




1851年:マリポサ大隊のヨセミテ渓谷発見

1848年に、シエラネバダの西側山麓で金が発見されてから、カリフォルニアには大量の白人が移住してきました。当然のごとく、Mariposa付近でもインデアンとの揉め事、争いが起こりだします(註:1848年初頭のカリフォルニアではインデアンを除く総人口は約2万人でしたが、その後2年の間に9万人ほどが移入してきたそうです、逆にゴールドラッシュの後インデアンの人口は激減してしまいます)。そのような背景のもと、1851年2月、マリポサ大隊が編成されます。Savege少佐(大隊の編成直前までは一般人で、マリポサ周辺のトレーディングポストを所有、二人のインデアンの妻を持ち、インデアンと話せた)指揮のもとBoling、Dill大尉らの2個中隊は協定にサインしない(山間部に住む)インデアンを捕捉し、居住区へと移動させるべくWawona方面に進みます。Wawonaから北上中、彼らはYosemiteインデアンの酋長Ten-ie-ya(テナヤ)に出会います。話し合いのあと、数日後にテナヤは70名ほどの部族をひきつれて山を下りてきました。まだ残存のインデアンがいると信じるSavageは更に北上、ついにいままで噂にだけ聞いていたValleyを、現在のOld Inspiration Pointから眺めることになります。1851年3月27日でした。隊に同行して記録をとり続けたBunnell(軍医)は以下のように綴っています。

"The grandeur of the scene was but softened by the haze that hung over the valley, -light as gossamer- and by the clouds which partially dimmed the higher cliffs and mountains. This obscurity of vision but increased the awe with which I beheld it, and as I looked, a peculiar exalted sensation seemed to fill my whole being, and I found my eyes in tears with emotion."

この日、大隊は、ヨセミテ渓谷の中(ブライダルベイル滝の見えるメドウ)で白人として初めてキャンプをします。夕食後のキャンプファイアで、渓谷の呼び名はBunnellの提案した"Yo-sem-i-ty"に決定されます。翌日はインデアンが逃げ去った(崖を登れない老婆一人のみが残されていました)渓谷の徹底的な探査(Mirror Lake、Little Yosemite Valleyの発見も含む)を行い、次の日の朝早く帰途につきました。Walker隊(1833)、William Penn Abrams(1849)らに発見の功績は譲らざるを得ませんが、渓谷の詳細情報などを初めて世に知らしめたという事で、ヨセミテの歴史の中では忘れられない重要項目です。

参考:
"Discovery of the Yosemite" , Lafayette H. Bunnell
"Mariposa Indian War, 1850-1851"


1851年:マリポサ大隊とTenaya Lake

ヨセミテ渓谷を発見したものの、インディアンを捕捉できなかった大隊は、Boling大尉の指揮の下、5月に再び渓谷へと戻ってきました。5人のインディアン(うち3人はテナヤの息子達で、Three Brothersの名前の由来になっています)を捕らえたものの、大方は逃げたあとでした。その後(居住区へ行く途中逃げ出して戻ってきていた)、テナヤを捕らえます。彼らはテナヤと共にIndian Creekを伝ってリムの上へと上り、Yosemite Creek方面とMt. Hoffmannの山裾付近を探査、トレイルを発見します。下りはテナヤの案内でRoyal Archのすぐ西横の岩棚を降りて行きました。次に彼らはSnow Creek(Mirror Lakeの奥、北側)の斜面を登り、雪線近くまで達します。岩稜を超えてBoling、Bunnell、テナヤらが見たものは、小さく綺麗な湖、そして崖の麓から立ち上る蒼い煙とインディアンの部落でした。(註:Olmsted Pointの付近の岩山から眺めたのでしょうか)

"As I lowered my line of vision to the base of the cliff, to trace the source of the smoke, there appeared the Indian village, resting in fancied security, upon the border of a most beautiful little lake, seemingly not more than a half mile away. To the lake I afterwards gave the name of Ten-ie-ya."

このようにして奇襲を受けた最後のヨセミテインデアン35名は捕捉され、山を下っていくのでした。このとき交わされた若い酋長との会話には悲しいものがあります。

…for when the young chief was asked if he and his band were willing to go to the Fresno, he replied with much emotion of gesture, … "Not only willing, but anxious;" for, said he: "Where can we now go that the Americans will not follow us?" As he said this, he stretched his arms out toward the East, and added: "Where can we make our homes, that you will not find us?" He then went on and stated that they had fled to the mountains without food or clothing; that they were worn out from watching our scouts, and building signal-fires to tire us out also.

さて、これをもってマリポサ大隊の1851年のヨセミテでの活動は終わります(隊も解散)。翌年には殺人事件が起こり、Moore中尉(California第二歩兵師団)らは犯人のインディアンを追って渓谷にやって来、捕まえます。それを知った(帰還を許されて渓谷に住んでいた)テナヤは山を越え東側へと逃げ去ります。Mooreらはそれを追いかけ、Tenaya Lake-Tuolumne Meadows-Mono Passを通るインデアィンのトレイル(Mono Trail)と金を発見するのでした。その後テナヤはインディアン同志の争いに巻き込まれ、悲しい死を遂げます。

参考:
"Discovery of the Yosemite" , Lafayette H. Bunnell
"Mariposa Indian War, 1850-1851"




1864年: Yosemite Grant

ヨセミテを訪ね、その美しさに魅了されたIsrael Ward Raymond(サンフランシスコ在住、蒸気汽船会社のビジネスマン)は、1864年2月20日にカリフォルニア出身の上院議員John Connessへ一通の手紙を送りました。それはヨセミテ渓谷とマリポサグローブのセコイアの保護をするべく、連邦政府からカリフォル二ア州政府への譲与を訴えるもので、Inspiration Pointから写された渓谷の写真が添えてあったそうです。Connessらの努力により議案は作成され、上・下院を通過し、1884年6月30日にはリンカーン大統領がサイン[1]する事になります。 
 それには、ヨセミテ・マリポサグローブが公共の使用を目的とし、リゾート、レクリエーションのためのものにあり、その譲与はできないという重要な条件が付いていました。9月末、知事のFrederick F. Lowは、正式な手続きを待たず受け取りを承認、委員会のメンバーとしてFrederick Law Olmsted、Israel W. Raymond、Josiah D. Whitney、William Ashburner、E. S. Holden、Alexander Deering、George W. Coulter、Galen Clark(1866年から1880年の間、現地でのパトロールをする:Guardianと呼ばれた)ら8人が選ばれます。
 直ちにCalifornia Geological Servey(Whitney測量隊)のJames T. GardnerとClarence Kingは渓谷へ入り[2]、測量を開始(1864年10月)します。1865年には委員の一人であるOlmsted(NYセントラルパークのデザイナーの一人)は公園管理のポリシーなどに関する報告書[3]を提出し、自然景観をありのままに保存・保守・保護すること、人口建造物と景観の調和、公共交通機関の提供の重要性などを訴えています。1866年4月、州政府は正式に承認、ここにヨセミテは州の管理下に置かれます。
 しかしながら運営にはさまざまな問題があったようです(LamonやHutchingsをはじめとする先住者らとの土地所有・借用権に関しての係争、保護よりも観光に重きをおいた管理による渓谷の植生の変化等など)。1890年にはJohn Muir(1868年に初めてヨセミテを訪問)らの運動の影響もあり、ヨセミテ渓谷、マリポサグローブを取り囲む広大な森林地帯(Yosemite National Park)の保護法案が通ります(Benjamin Harrison大統領がサイン[4])。やがて州政府は批判などを受け1906年には返還、Yosemite National Parkへ編入されることになります(1905年Theodore Roosevelt大統領がサイン[5])。

本要約は以下の文献を参考にしました。

* "History of the Sierra Nevada", Francis P. Farquhar, University of California Press
* "YOSEMITE The Embattled Wilderness",Alfred Runte, University of Nebraska Press
* "National Parks The American Experience",同上
* "Histric Resource Study YOSEMITE: The park and its resources",Linda Wedel Greene
[1] 38th Congress. Sess. I.. Ch. 184. June 30. 1864 An Act authorizing a Grant to the State of California of the "Yo-Semite Valley," and of the Land embracing the Mariposa Big Tree Glove.
ヨセミテ渓谷、マリポサグローブをカリフォルニアに譲与する法案。
[2] "Mountaineering in the Sierra Nevada"、Clarence King
"Around Yosemite Walls 1864" の章は、測量時の私的体験を綴っている。
[3] "Yosemite and Mariposa Grove: A Preliminary Report, 1865",Frederick Law Olmsted
[4] 51st Congress. Sess. I. Chs. 1263 October 1, 1890
An act to set apart certain tracts of land in the State of California as forest reservations.
ヨセミテ及びGeneral Gtant国立公園設立に関する法案。ただしヨセミテとは特に記述されていない。後に内務省長官が命名。
[5] 48th Congress. Sess. III. Res. 30.. March 3. 1905. Joint Resolution Accepting the recession by the State of California of the Yosemite Valley Grant and the Mariposa Big Tree Grove in the Yosemite National Park
ヨセミテ渓谷、マリポサグローブを連邦に返却する法案。




ヨセミテでのジャイアントセコイア発見記

mariposa.jpgジャイアントセコイア(以下セコイアと略)は大木だと頭ではわかっていても、実際林の中を歩いて行き、それが目の前に現れると、その大きさに驚かされます。150年も前に予備知識もなく発見した先人たちの驚きはさぞかしであったと思われます。さて、ヨセミテにはセコイアの森が3箇所あります。それらに関連する記録は次のとおりです。 

Tuolumne・Merced Grove
1833年: Walker隊によって、TuolumneもしくはMerced Groveのどちらか(もしくは両方)が発見されました。
1858年: Big Oak Flatからヨセミテ渓谷へ向かう途中、CogswellらはCrane Flatでキャンプをします。仕留めそこねた鹿を追いかけている時に、巨大な木に遭遇します。彼らは鹿を追うのも忘れ、周辺を調べ回ります。そのうち一本の木は中が火事で焼けておりKing Solomon's Templeと命名しました(後にDead Giantと呼ばれる)。Cogswellはすぐさま彼らの発見を新聞に投稿、以後Tuolumne Groveは、ヨセミテ渓谷へ行く途中の観光スポットになります。
1871-1872年: Coultervilleとヨセミテの間に馬車用の道路を引くために測量をしていたMcLeanらはMerced Groveを発見します(註:既に馬の通れるトレイルはできており、現在のHazel Green Ranch、Merced Grove トレイルヘッド、Crane Flat付近を通っていました。1869年の7月8日、羊の放牧にヨセミテに来たJohn Muirらはこの道を使い、Hazel Green Creekの源流でキャンプしています「My First Summer in the Sierra」。トレイルのすぐそばにセコイアの森が隠れていたわけです)。
1878年: William McCarthyの一行はTuolumne GroveのDead Giantをくり貫き、馬車が通れるようにしました。

Mariposa Grove
1849年: 10月後半、Burneyらがインデアンに盗まれた動物を追い求めているときに、数本のセコイアを発見します(Mariposa Groveではありません)。
1852年: ヨセミテ渓谷へ向かう鉱山試掘グループのメンバーStephen F. Groverが、セコイアの森を通過したことを記録に残します(正確な位置は不明)。
1855年:狩猟中のHoggは、Big Creekの支流でセコイアを発見し、その正確な位置をGalen Clark、Milton Mann、らに伝えます。秋には探査中のJ. E. Claytonが他のセコイアを発見します。その数日後、Bunnell(元マリポサ大隊)はClaytonと引き返し、確認をしました。
1856年: 6月1日、Galen ClarkとMilton Mannが現在のMariposa Groveを発見します。

参考:
"Histric Resource Study YOSEMITE: The park and its resources" ,Linda Wedel Greene
"Discovery of the Yosemite"  , Lafayette H. Bunnell




1860〜1874年: California Geological Surveyとヨセミテ:

1860年科学的地質調査の必要性を感じたカリフォルニア州政府は、 Geological Survey of California(州地質調査所)を設立しました。担当責任者(State Geologist)として既に名を馳せていたエール大学出身のJ. D. Whitney(地質学)が選ばれます。 W. H. Brewer(植物学)、W. Ashburner(鉱山学)、 C. F. Hoffmannn(地図作成)らが初期のメンバーに選ばれます。調査隊(Whitney隊)は早速、12月から南カリフォル二アで調査を始めます(Brewerのジャーナル[1]に4年間の詳しい記録が書かれています)。1863年6月、彼らはBig Oak Flat、Crane Flat経由でヨセミテに初めて入り、渓谷での調査の後、北側のリムに上がり東進、Mt. Hoffmann、Mt. Dana、そしてRagged Peakへの初登頂を果たします。またLyell Canyonを辿りMt. Lyellの登頂も目指しましたが、頂上直下で敗退しました。その後Mono Pass経由で東に抜け、調査隊はヨセミテ一帯での活動を終えました。1864年秋、南シエラでの調査を終えた隊はWawonaのClark's Ranchに集合、C. King、J. Gardner(ともにエール大学)とR. Cotterはヨセミテ渓谷に入り、Yosemite Grantの件で境界設定のための調査を行います(調査のあとKingとCotterはMt. Clarkへ登山に向かいます。途中Illilouette Basinで最初の冬の嵐に襲われ、降り積もる雪の中、渓谷経由でWawonaへ必死で脱出することになります[2])。’65年には予算不足のためシエラでの調査活動は行われませんでしたが、’66-’67年にはヨセミテ渓谷・ハイシエラの更なる調査が行われました。これらの調査に基づき、Whitneyは’69年に"The Yosemite Book"[3](これは豪華版で、後に写真なしの普及版が幾度か改定、再販)を出版します。当時幾冊かのヨセミテ案内本[4][5]はありましたが、調査に基づく正確な地図やデータ、C. Watkins[6]の写真で彩られたこの本は、群を抜いていたそうです。ところがこの調査隊は常に資金不足や政治的な軋轢に悩まされていました。そして1874年に活動に終止符を打つことになります。州には特記すべき利益をもたらさなかったものの、彼らの仕事の質の高さはそれ以降、調査の見本となります。特に彼らの作った地図はYosemite Grantに絡んだ土地所有権裁判に役立ち、またヨセミテ渓谷に測量当時の環境(植生等)を再生する上での重要資料となりました。

参考:

[1] "Up and Down California in 1860-1864", William Brewer, University of California Press
[2] "Mountainineering in the Sierra Nevada", Clarence King
"A Sierra Storm"の章が嵐からの脱出記。"Around Yosemite Walls"の章は測量時のエッセイ。
[3] "The Yosemite Book", Josiah D. Whitney
CD版(www.octavo.com)の序文(Jim Snyder)も参考にした。
[4] "Scenes of Wonder and Curiosity in California", James M. Hutchings
[5] "Yosemite: Its Wonders and Its Beauties", John S. Hittell
[6] Carleton E. Watkins (1829-1916)
サンフランシスコ在住の風景写真家、Yosemite Bookの中の24枚の写真を撮影した。彼が撮ったヨセミテ渓谷の写真は、1864年のYosemite Grant案を通す大きな働きをした。

[註]
* US Geological Survey(USGS)はTVなどで「米国地質調査所」と訳されていますので、本文でもそれにならいました。
* Whitenyの本では二つの重要なキーワード("High Sierra"と"National Park")が初めて使われています。
* Clarence KingはUSGSの初代長官となる(1879-1881)。


〜 1870年代: ヨセミテへの道

昔からヨセミテ渓谷の北側にはシエラの東と西を結ぶインディアンのトレイル(Mono Trail)がありました。それはMono Lake付近からBloody Canyonを登りMono Passに出、そこからDana Forkを通りTuolumne Meadowsに達する道です。そこからはほぼ現在のTioga Roadに沿ってMerced-Tuolumneの分水嶺を越え、Tenaya Lake、Porcupine Flatへと続きます。そこからは南西に向かってYosemite Creekへと下り、Bluejay Creekを登り返しRibbon Meadows付近を越え、Big Meadows(現在のForesta)へとぬけていました[1]。おそらくWalker隊(1833)やMoore隊(1852)はこの道の一部を辿ったと考えられます。また、渓谷の西には部族を結ぶ数々のインデアンのトレイルがありました。これらの道は判然とせず、初期のヨセミテ訪問者が通るには、かなりの苦労が強いられたそうです。
 当然のごとく、トレイルの整備が始まります。1857年にはTom McGeeはMono Trailに道標をつけ、Big Oak Flat からのトレイル[2]へと繋ぎます。1857年にはBunnelとCoulterはCoulterville Trailを作りはじめます[3]。一方南では1856年に、Andrew A. HoustonとMillton MannがWawona方面から山越えのトレイルを整えます[4]。しかしながらこれらの大部分は人と馬・ロバしか通れない、狭く急なトレイルでした。
 ヨセミテが有名になるにつれ、整備された道路を作る必要性が高まってきます。1860年代の後期には本格的な開発が始まります、そして1874年にはCoulterville Road[5]とBig Oak Flat Road[6] が、1875年にはWawona Road[7]が開通、ワゴンが渓谷にはいるようになったのでした。そして1883年にはOld Tioga Roadが開通します[8]。

参考:

Greeneの"Historic Resource Study"に基づきました。Whitneyの"Yosemite Book"も参考になります。付属の地図にはトレイルが書きこまれています、また本文には、各ルートの区間ごとの距離、移動手段(ワゴンかHorseback)が記述されています。

[1] Mono Trailにはいくつかの分岐道もありました。たとえばCathedral PathからLittle Yosemiteを通りBridalveil creekへ向かうトレイル(Old Mono Trail)、Tenaya Lake付近からSnow Creekを経由してYosemite渓谷へ下るトレイルなど。

[2] Big Oak Flatの町からGarrote、Hardin Flatを通りHodgdon Meadowにいたり、尾根沿いにGin Flatへと上りTamarack Flatを越え渓谷に下っていました。既にシエラの東側に鉱山が見つかっており、鉱山師たちはシエラを越える必要がありました。

[3] Coultervilleの東にあるBower Caveから始まります。Deer Flatを通りPilot Ridgeの南側を登り、Hazel Green(Merced Grove THの近く)に達する。そこからCrane Flat、Gin Flat経由でBig Oak Flat トレイルに合流。 John Muirが1869年ヨセミテへのアプローチに使ったルート。
 
[4] Wawonaから北上、Alder Creekを登りBridalveil Creek Meadowsを経由、Old Inspiration Roadを越え渓谷に入る。

[5] 工事中にMerced Groveが発見(1872年)されたため、既にあったCrane Flatを通る[3]プランを中止、Merced Groveを通りMoss Creekを下りBig Meadows(Forest)方面へ下るようにルートが変更されました。Coultervilleからの道路は国立公園の設定後、廃れてしまいます。

[6] 初期のGin Flatへ向かうトレイル[2]と違い、Hodgdon Meadowsからは谷沿いにTuolumne GroveをぬけCrane Flatへ登った後、Gin Flat、Tamarac Flatを通りCascade Creekを渡り、El. Capitanの麓に下る道路。

[7] 現在のWawona Roadにほぼ近い。トンネルビューの上、Inspiration Pointのすぐ下を通過。初期のトレイル[4]とは全くルートが違います。Glacier Pointへのワゴンロードは1882年に開通。

[8] 1883年にはTioga Pass近くの銀山へ補給路となるOld Tioga Roadが開通。Aspen ValleyからLong Gulch Creek沿いにWhite Wolfに向かい、Yosemite Creekキャンプ場、May Lake トレイルヘッドを通ってTuolumne Meadowsにぬけています。現在のTioga Road(120号)とはあまり一致してません。1883年はヨセミテ国立公園が制定される前なので、このような道を作ることができました。


1870〜 1890年代: ハイキング トレイルの整備

ヨセミテ渓谷の主要なハイキングトレイルは、1800年代後半に既に作られていました。
以下はその整備にまつわる話です。

Four-Mile Trail : 1871年James McCauleyがヨセミテ公園委員会の許可を受けて工事、1872年の夏に完成。現在のルートとは少し違う。
Yosemite Fall and Eagle Peak Trail : John Conwayが1873年にLower Yosemite Fallへの道を作る。秋にはUpper Yosemite Fallの下までのトレイルを作る。1877年には滝の上までの道が完成。1878年にはEagle Peakへの道を作る[1]。
Indian Canyon Trail ; 1874年にHutchingsが私費を投入して施工。しかし1877年にはYosemite Fall トレイルの完成によりすたれ、廃道となってしまう。
Pohono Trail : 渓谷の底からOld Inspiration Pointを越えて、Bridalveil Creekへと続にインディアントレイルがあった[2]。やがて南のリム沿い[3]のトレイルが1890年代から作られ始まる。1906年ごろ、このリム上のトレイルはPohonoと呼ばれるようになった。
Clouds Rest及びHalf (South) Dome Trail : 当初これらのトレイルはOld Mono Trail(Little Yosemiteからは現在のJMTに近い所を通っていた)の一部を使っていた。1890年には委員会の推薦でトレイルが整備された(詳細は不明)。Half Domeの初登は1875年10月。ドリルで岩に穴を開け、支点を作り突破された(詳細は別の記事で紹介の予定)。
Vernal Fall及びMist Trail : 1864年に州がヨセミテの管理を始めたときには、既にHappy IsleからMerced川の南側を使い、Nevada Fallへ抜ける道ができていた。誰が作ったかは不明。古くはインディアンのトレイル。後にはマリポサ大隊が探査に使ったと思われる。途中にはRegister Rockといわれる大岩があり、そこで通行料をとっていた。そこからMist Trailが派生、Vernal Fallのすぐ横を通って行く。当時、最後は木の梯子で登った。
Panorama Trail : 1871年、John ConwayはVernal FallとNevada Fallの間にあったSnow's HotelからMerced 川の北岸に沿ってNevada Fallを越え、Little Yosemite Valleyに達する馬道を作った。一年後WashburnとMcCreadyはGlacier PointからOld Mono Trailを使いLittle Yosemite Valleyへと続く、Panorama Trailを完成させた。1885年には、Nevada FallからGlacier Pointへ直接つながるようになった。
Ledge Trail : 1871年までにはHutchingsはこのトレイルを使い、客をGlacier Pointへ案内していた。Camp Curryの裏から始まり、Glacier Pointへの3,200ft.を1.5マイルで登りきる。あまりにも危険なので、後の公園当局(National Park Service)はこれを公式トレイルとは認めず、やがて廃道となる。

参考:

Greeneの"Historic Resource Study  YOSEMITE"より要約しました。

[1] 当時トレイルは私道であった。1882年にはヨセミテ公園委員会が公園内のすべての道は公道であると宣言したが、Conwayは拒否。が、最後には私有をあきらめ$1,500で売却した。
[2] 1896年McClure中尉の地図にはPohonoと名が表記されていた、Whitneyの1868年の地図には道のみ記入、名前はない。
[3] 現在のPohonoトレイル。Glacier Pointから、Sentinel Dome、Fissures(Taft Point)、Dewey Point、Stanford Point、Old Inspirationを結ぶ。
[4] 1882年には木の階段へと改良された。1869年と1870年の間にはAlbert SnowはRegister Rockから先のVernal Fallトレイルを整備。 ジグザグに登っていきClark Pointに達し、やがてVernal Fallの上流へと下っていく。




1890年: ヨセミテ国立公園の設立

1890年秋、ヨセミテ及びセコイア国立公園の設立がほぼ同時に決定しました。その経緯を調べて見たところ、設立の最大の原動力となったのは、Southern Pacific Railwayという鉄道会社であったという説が散見されます。それらの文献をもとに当時の流れを組み立ててみました。

〜1889年:
1872年: イエローストーン国立公園が設立される。鉄道会社にとっては、ビジネスを広げる大きなチャンスとなる[1]。1876年:Muirは伐採や牧羊による森林の荒廃の問題を訴える記事を書いたが、大きな影響をあたえるにはいたらなかった[2]。 以降1889年までは、Muirはヨセミテには数えるほどしか出かけていない[3]。1878年:Visaliaの新聞社Deltaの編集員George W. StewartがTulare郡のジャイアントセコイアを守るための運動を始める[4]。1888年: Benjamin Harrison(共和党)が大統領になる。内務省長官はJohn Noble[5]。 1889年: 5月末、Century誌の編集員Robert Underwood JohnsonがMuirを訪れ、すぐ(6月上旬)二人はヨセミテに旅行に出かける。Tuolumne Meadowsでヨセミテ国立公園を作るアイデアが生まれた[6]。同じ頃、Stewartはメディアを使ってワシントンに対し保護キャンペーンを始めていた[7]。 

1890年:
1月、JohnsonはCentury誌一月号でヨセミテ渓谷の荒廃を指摘し、保護を訴える記事を書く[8]。 3月4日、MuirはJohnsonへの手紙で、ヨセミテ渓谷の管理及びYosemite Grantについての自分の考えを述べる[9]。3月、下院議員のWilliam Vandever(Southern Pacificとつながりがあった)がヨセミテ渓谷を囲む一帯の森林保護法案(HR8350)を提出[10]。4月19日、MuirのJohnson宛の手紙では、記事の進み具合や周辺での運動の状況を報告。更に5月8日に送られた手紙では、HR8350で示された保護区の範囲は小さいと批判をしている[11]。6月2日、Johnsonは下院の土地に関する委員会で、Muirの案を説明する。7月、同じくVandeverがStewartの案にほぼ沿った形で現在のセコイア国立公園設立の法案(HR11570)を提出[12]。Muirは7−8月の間、アラスカに旅行に出かける[13]。
この頃、Southern PacificのDaniel K. Zumwalt(Vandeverの友人、Visalia出身)はワシントンでロビー活動(内容は不明)をしていた[14]。8月と9月にMuirの二つの記事"The Treasures of The Yosemite"と"Features of the Proposed Yosemite National Park"、及びJohnsonの記事がCenturyに掲載される[15]。9月25日、Harrison大統領はHR11570にサイン、10月1日にはHR8350の修正案、HR12187[16]にサインをする。これによりセコイアそしてヨセミテ国立公園の設立が決定した。

ややこしくなってしまいましたが、確かにJohnson・MuirとSouthern Pacific・Vandever・Zumwaltの二つの流れがあったようです。ここでいくつかの疑問が湧いてきます。誰がヨセミテ保護の最初の原案を作り3月にVandeverに手渡したのでしょうか。また二者の間に何らかの繋がりがあったのでしょうか。新しい資料(例えば[17])が入手でき次第、適時更新していきたいと思います。

参考文献:

* William Frederic Bade, "The Life and Letters of John Muir"(1924年)
* Robert Underwood Johnson,"Remembered Yesterdays"(1923年) amazonより購入可
* Linnie Marsh Wolfe,"Son of the Wilderness: The life of John Muir",The Univiesity of Wisconsin Press(1945年) :Pulitzer賞受賞の本、amazonより購入可
* Francis P. Farquhar, "History on The Sierra Nevada ", University of California Press(1965年) :amazonより購入可
* Shirley Sargent, "John Muir in Yosemite", Flying Spur Press(1971年):amazonより購入可
* Larry M. Dilsaver and William C. Tweed, "Challenge of The Big Trees", Sequoia Natural History Association(1990年)
* Alfred Runte, "Yosemite The Embattled Wilderness", University of Nebraska Press(1990年)
* Richard West Sellars,"Preserving Nature in the National Parks: A History", Yale University Press(1997年)
* Linda Wedel Greene,"YOSEMITE: The Park and Its Resources", U.S. Department of the Interior/National Park Service(1987年)
* H. Duane Hampton, "HOW THE U.S. CAVALRY Saved Our National Parks", Indiana University Press (1971年)
* Mark Neuzil abd Bill Kovarik, "Mass media and environmental conflict", SAGE publication(1996年)
第三章"The Mother of the Forest"より
* John Muir, ”The Creation of Yosemite National Park. Letters of John Muir to Robert Underwood Johnsson” Sierra Club Bulletin (SCB) XXIX, No. 5
1889-1890年にMuirがJohnsonに宛てて送った手紙(1889年9月13日、 1890年3月4日、4月19日、4月20日、5月8日、 そして6月9日付け)の全文が公開されている。Sierra Club Bulletinはシエラクラブの雑誌(註:絶版、UCの図書館で閲覧可)
* John Muir,"The National Parks and Forest Reservations", Sierra Club Bulletin, 1896.


[1] Joshua Scott Johns, "All Aboard: the Role of the Railroads in Protecting, Promoting and Selling Yellowstone and Yosemite National Parks", University of Virginia
鉄道会社と国立公園(特にYellowstoneとYosemite)との関係に関してかなり詳しく研究している。

[2] Badeの12章: 記事はSacramento Record Unionに投稿(1876年2月5日)。タイトルは"God's First Temples"、サブタイトルが"How shall we Preserve our Forests?"。森林保護の重要性を訴えるが、議員の間では殆ど影響をもたらさなかった。記事の一部が引用されており、森林破壊の最たるものは牧羊業者が使う野火(running fires are set everywhere to burn off the old logs and underbrush)であると述べている。

[3] Sargentの本は40ページと薄いが、Muirの生涯を簡潔にまとめている。1880年には結婚。その後10年ほどMartinezの果樹園(義理の父が所有)の経営をする。結婚の年の前後にはアラスカ(1879,1880,1881年)への探査を行っている。 ヨセミテには1876、1877、1879、1884年に訪れただけである。 註:この期間の、Badeの本に引用されているMuirの手紙や、Harper's やScribner’s Monthly、(後にCenturyに改名)の掲載記事には自然保護活動がらみの内容は見当たらない。

[4] Dilsaverの4章:によると、Stewartはまず1878年にはセコイアの伐採を禁じる州法案の必要性を訴える。1880年の上院選の準備のためにVisaliaを訪れていたJohn F. Millerに森林保護の重要性を訴える。議員となったMillerは1881年12月にセコイアのある地域(今のセコイア・キングス国立公園)を公園にする法案を提出するが、注目を浴びることはなかった。Wolfeの本にはMuir,Dr. A. Kellogs and Charles C. Parry of California Academy of Science, そしてStewartが一緒になって案を作ったと書いている。しかし”Both of these bills, recently discovered from clues in Muir's correspondence and unearthed from Congressional archives”と書いてあるだけで出展が示されていない。

[5] Dilsaverの4章:新しい内務省長官Nobleは保護には積極的ではなかった。前任のポリシーには同意せず、連邦の土地を払い下げる方のスタンスをとった。これにより連邦の土地を買い取る動きが活発化する。Stewartは1889年春から、それに対抗すべくキャンペーンを開始した。冬にはTulare及び周辺のFresnoやKern郡からのサポートを取り集め、嘆願書を提出した。しかしそれはワシントンで立ち消えとなってしまた。

[6] Johnsonの回顧録、”Spiritual Lobbying at Washington”の章より: ニューヨークのCentury誌の編集員Robert Johnson本人がサンフランシスコを訪れる。初対面のMuirに”Gold-Hunters”という金探しに関するシリーズ物への原稿依頼をするつもりであった。すぐ、二人はヨセミテに出かける。MuirはSoda Springs(Tuolumne Meadows)で、羊による植生破壊や水系への影響の説明をする。それに応じてJohnsonは、イエローストーン国立公園のようにヨセミテ国立公園を作ることを提案。Muirにはイラストつきで2本の記事を書くことを要請した。Johnsonはその記事をもって連邦議会(以前の著作権運動のときに係わりがあった)の土地委員会でアピールすることを約束。彼の知り合いの議員に下院土地委員会のHolman、上院委員会のPlumbらがいた。またOlmstedにも依頼してEvening Post(New York)に記事を書いてもらった。逸話としてヨセミテの帰りにExaminer(San Francisco)の記者に二人の会話を立ち聞きされ、その記者が彼らの話題の記事を書く許可を求めてきた。Johnsonは拒否し、後に事実とは違う記事がExaminerに掲載され非難されたと書いてある。 Badeの本には、Muirの6月3日の妻宛の手紙が載せてある。ヨセミテ渓谷から書かれているが、古い友人(Galen Clark等)と会った事や、すばらしい景色のことのみしか記述していない。

[7] Dilsaverの4章:1890年5月、セコイアのある土地区画がいよいよ売りに出されることになる。危険を感じたStewartはNobleに抗議の電報を送る。また広域の保護を訴えるのではなく、特に重要な一区画の保護へと運動の方向を修正する。7月にはDeltaに立て続けに記事を載せ、かつNobleにも手紙を送った。そして7月Vandeverによる法案提出にこぎつける。どのようないきさつで二人が知り合ったのかは書かれていない。

[8] Johnsonは1890年1月のCenturyに”The Care of the Yosemite Valley”という編集員記事を書き、ヨセミテ渓谷の荒廃、委員会の運営の問題点をなどを指摘している、さらに(自分の書いたものを含め)3つの投稿が添付してある。Johnson自身の記事はMuirとのTuolumne Meadowsへ行った事、そして羊による被害のことが簡単に触れられてはいるが、やはりヨセミテ渓谷の問題が主な内容。

[9] Badeの15章:1890年3月4日の手紙で、Muirはヨセミテ渓谷の管理は連邦がすべきである事、保護の対象は渓谷だけでなくその(メルセド)水系全?をカバーすべきである事を述べている。更にできれば北緯37.3度と38度にはさまれ、東の境界はDana、Lyell、Ritter、Minarettを繋ぐ山脈、西の境界は山脈から36ー40マイル位のところに定めている(”The Treasures of The Yosemite”の地図に境界が引かれている)。SCBによると、Badeはこの日の手紙のかなりの部分を省略している。1889年9月13日の手紙では、Examiner誌のことや、記事をすぐ送るなどといったことを書いている。セントラルパーク(註:Olmstedが設計者)の事について触れてもいる。3月4日には、投稿記事のために写真、イラスト、地図を送る準備をしている事も書かれている。

[10] 連邦議会の1890年3月の記録ではVandeverによってHR8350が提出されたとしか記録がない。 ”By Mr. VANDEVER: A bill (H.R. 8350) to establish the Yosemite National Park in California - to the Committee on Public Buildings and Grounds”

[11] Badeの15章: 1890年4月19日の手紙は、自分の記事について簡単に書いた後、Century誌の記事がCaliforniaで与えた影響について書いている。Olmstedの記事(註:タイトルなど不明)についてもコメント。最後にVandeverについて訊ねている("How fares the Bill Vandever? I hope you gained all the basin")。 SCBではイラストレータのRobinson(イラストレーター)に会い、Cathedral PeakとHetch-Hetchyの絵が完成近いことを書いている。さらに、反対派の先鋒MaCkenzieの記事に関して非難をしている。次の日には、届いたばかりのJohnsonの手紙に返信をしている。(註:かなり過激な内容で)MacKenzieの背後にWashburnやR.R.Co.(鉄道会社?)がいて、Vandeverの法案に反対していること、MacKenzieらは現在のヨセミテ委員会の運営で公園を拡大することを狙い、連邦の管轄下に置かれることを恐れていること、MuirはVandeverを応援することなどが書かれている。Badeは5月8日の手紙からも内容の一部を抜いて公表している。 SCBによれば:”I am glad you think Mac(註:MacKenzieのこと?) is all right and that I am "all off", for he has done good work thus far, though I have not yet seen a word in his letters that could injure the state and hotel company and saddle train company” さらにMuirはSam Millという R.R.Co. とStage Co.のエージェントと話したことを述べ、”you would be delighted to see how fine and wide an improvement had taken place in the views of these gentlement on Yosemite management”とも書いている(註:前後の手紙が無いのでやや意味不明、ただ反対派の側に何かの変化があった様子が感じとられる)。

[12] セコイア国立公園設立の法案。明確に国立公園とタイトルに記述されている。Dilsaverによると、この後Stewartは同じくTulare郡のFrank Walkerともに運動をし、やがてTribune(New York)やCenturyのJohnson、California州知事S. W. Watermanのサポートを得たと書いている。

[13] Wolfeの本:6月14日にはSeattleへ向けて出航、9月には戻ってきた。上旬にはOakland TribuneでJohn P. Irishに非難と中傷の記事(20年前にヨセミテで立ち木を切ったこと)を書かれたが、すぐさまそれに反論している。Badeの15章では、7月7日付けでGlacier Bay(アラスカ)より妻宛に手紙を送っている。

[14] Runteの4章は[18]を引用し、次のように述べている:Muirの意見に基づき、Johnsonは6月2日に下院の土地に関する委員会(the House Committee on Public Lands)で範囲の拡大を訴えたが、効果はなかった。Muirは既にアラスカに出かけている。この時点で修正案は次期国会まで持ち越されるかに見えた。しかしながら、Southern Pacific Railroadの土地担当のDaniel K. Zulwalt(Vandeverの友人)の働きで修正案(H.R. 12187)が作成され、短期間で両院を通過、10月1日の大統領のサインにこぎつけた。

[15] "The Treasures of The Yosemite"(1890年8月号)では僅かばかりだが、伐採、牧羊による森林破壊を示唆している。それ以外は主に渓谷内の案内記事。Muirが提案しているヨセミテ国立公園の境界を示す地図が掲載されている。また公園内の人為による破壊のイラスト(写真を基に作成)がいくつかある。"Features of The Proposed Yosemite National Park"(1890年9月号)に、提案されたヨセミテ国立公園全般の紹介記事。Tuolumne渓谷、Hetch-Hetchy、Mt. Dana Mt. Lyellなどの山々のことが書かれている。最後のところでVandeverが提案したと述べている。 "Amateur Management of the Yosemite Scenery"(1890年9月号)で、JohnsonはMuirの二つの記事、及び1月号の自分の記事に触れ、National Parkの必要性と委員会の運営の問題を強調している。(参考:Muirの”The Treasures of The Yosemite”の序文では既に"Then it seemd to me the Sierra should be called, not the Nevada or Snowy Range, but the Range of Light"が使われている。同じフレーズが1894年に出版される”The Mountains of California”で使われている。)
以上Muir、Johnsonらの記事のオリジナルはコーネル大のアーカイブで閲覧可能


[16] 会期の終了が迫る土壇場で修正案が提出された。Runteによると、H.R.12187とH.R.8750の違いは、保護する土地の大きさが5倍になった事。(註:H.R.8750案が見つからないので、5倍という数字は確認できない)。Hamptonの8章には、法案成立の過程がかなり詳しく書かれている。要約すると、Paysonは9月30日に提案、すんなりと下院を通過、その後すぐにPlumbが上院に持ち込みこれも通過、翌日の大統領のサインとなる。またStewartの手紙に触れ、ZumwaltがGeneral Grant Groveをヨセミテ保護案に取り込む力となったと書いている。Johnsonによると、この修正案はVandever(Johnsonとのつながりはどこにも見当たらない)によって提案され、数ヵ月後(9月)Plumbによって上院に提出されたと書いている。 Muirの提案した境界HR12187の境界の大きな違いに注意。

[17] Richard J. Oris,"'Wilderness Saint' and 'Robber Baron': The Anomalous Partnership of John Muir and the Southern Pacific Company for Preservation of Yosemite National Park", Pacific Historian 29 (Summer-Fall 1985).
Oris教授によると文献はオンラインでは入手不可能、雑誌も廃刊とのこと。この論文(修正版)を含む本("Sunset Limited : The Southern Pacific Railroad and the Development of the American West, 1850-1930")は5月に出版の予定。 


[各文献の見解のまとめ]
RunteはOrisの論文を引用し、観光収入や灌漑農地の開発に利権の絡むSouthern Pacific Railwayが最大の貢献者、またMuirとJohnsonがSouthern Pacific Railwayの経営陣にアイデアの提案をしたとまとめている。SellarsはそのNotesの章でRunteが鉄道会社の貢献を指摘していることを書いている。またOrsiの論文[17]も参照。KovarikもSouthern Pacificの影響を指摘。さらにいくつかの興味深い記述がある:(1)Muirが1881年にセコイア公園の法案設立の手伝いをした、(2)同じく1888年Mt. Shastaの保護運動に加わった(3)Muirの記事がVandeverを動かした(4)1889年に社長のStanfordへJohnsonが助力要請をしたが断られた(註:文献への参照の仕方が不明瞭なので出展は不明。ただし1890年にSouthern Pacific Railwayの社長がStanfordからHuntchingtonに交代したのは事実、且つStanfordは1885年から上院議員を務めている)。GreeneはMuirらの国立公園設立提案は、ヨセミテ渓谷への交通を独占する”Yosemite Stage and Turn Pike Company”、牧畜業、林業、牧羊関連者らと利害の衝突があったこと。しかしSouthern Pacific Railroadの協力を得て成立したとまとめている。FarquharはSouthern PacificとZumwaltがセコイア国立公園の設立に影響をしたと述べるものの、ヨセミテに関してはなんら結論は書いていない。BadeSargentはMuirとJohnsonの貢献のことのみを書いている。WolfeはMuirの記事によってHarrison大統領とNoble内務省長官が動かされ、法案成立のために働いたとも書いている。Muir本人はSCB 1896年の記事の中で”Even the soulless Southern Pacific R.R. Co., never counted on for anthying good, helped in pushing the bill for this park through congress. Mr. Stow in particular charged our members of Congress…”とSouthern Pacificの影響があったことを示唆している。

[註] 連邦議会での記録は、そのWebよりキーワード(”H.R. 12187”、”H.R. 8350"等)を検索すれば、原本が読めます。




1891年〜1914年: 騎兵隊によるヨセミテの保護

1890年10月1日の法案HR12187の成立により、ヨセミテ渓谷及びマリポサグローブを除くヨセミテ一帯は、連邦政府により保護・管理が行われるようになりました[1]。当時の内務省長官Nobleは軍隊(陸軍)を用い、彼らに伐採、牧牧、不法侵入などの取り締まりをさせることを決めます。早速Abram E. Wood大尉が初代監督官(代理)に任命され、騎兵隊が5月〜10月の間ヨセミテのパトロールをすることになります[2]。彼らが最初に目にしたのは、判然としない公園の境界、道・トレイルの不備、広大な地域で好き勝手に行われる狩猟、採鉱、放牧等でした。軍隊が民間人の取り締まりをする事に対しての法的な問題点も指摘されましたが、1900年6月6日には内務省長官の申請があれば、軍務省長官(Secretary of War)が軍に不法侵入者を防ぐ為の命令を出せるという法案が制定され、法的な問題が解決されます[3]。1905年2月6日には更なる法案が通り、国立公園及び森林保護区内の管理者が、違反者を逮捕できるようになりました。しかしながら現実には懲罰はなく、違反者を公園から追い出す[4]だけでした(1910年になって木を切ったり火の不始末をした者に罰金や投獄ができるようになる、これだけが軍による管理時代における唯一の懲罰であった)。初めのうちこそ住民にあまり歓迎されなかった軍でしたが、やがて人々はその存在意義[5]を認めるようになります。歴任の監督官らは常にパトロール人員の増加、公園内に残る個人所有地の買い上げ、ルール違反者への厳しい懲罰、マネジメントファイア、といったパークポリシーの制定を唱えてきました。公園の状況がかなり改善した1914年には、軍側の主張で公園管理の任務に終止符が打たれます。彼らが24年の間に作り上げた管理の基本ポリシーはやがてNational Park System(1916年成立)に受け継がれていくことになります。危機に瀕していたヨセミテの自然資源の保護と管理を行い、その意義を公共へ知らしめた軍(騎兵隊)のヨセミテへの貢献はとても大きなものです。

参考:

* H. Duane Hampton,”HOW THE U.S. CAVALRY Saved Our National Parks”,Indiana University Press(1971年)
* Linda Wedel Greene,”Historic Resource Study: YOSEMITE”, U.S Dept. of the Interior/National Park Service(1987年)
* Erwin N. Thompson, ”DEFENDER OF THE GATE”,U.S Dept. of the Interior/National Park Service(1997年)
* William Frederic Bade, ”The Life and Letters of John Muir”(1924年)
* Peter Browning,”Place Names of the Sierra Nevara”, Wilderness Press
Amazonより購入可。

[1] HR12187:”An act to set apart certain tracks of land in the State of California as forest reservations”。Sec. 1.と Sec. 3. はヨセミテ渓谷、マリポサグローブを除くヨセミテ一帯及びGeneral Grant Tree周辺を森林保護区(Yosemite及びGeneral Grant国立公園)に指定。 Sec. 2.は”That said reservation shall be under the exclusive control of the Secretary of the Interier, whose duty it shall be as soon as practicable, to make and publish such rules and regulations as he may deem necessary or proper for the care and management of the same…”と内務省長官が保護管理の為のルールや規定を作り公開することを定めている。一方 ヨセミテ渓谷及びマリポサグローブは1864年のYosemite Grant以来、カリフォル二ア州が所有、管理していた。1905年にはカリフォル二ア州はそれらの返還を決定、翌年には連邦が承認し正式返還が行われた。
HR12187の詳細は連邦議会図書館のWebよりキーワード(”H.R. 12187”)を検索。

[2] Thompson: 騎兵隊はサンフランシスコのGolden Gate Bridgeそばに在るPresidioに駐屯し、季節(5月初め)になるとそこからヨセミテ・セコイア国立公園へと280マイルの道のりを2週間ほどかけて向かった。1906年にヨセミテ渓谷及びマリポサグローブが連邦に返還されるまではWawonaを、以降はヨセミテ渓谷を拠点とする。1891年から1914年まで歴代18人のActing Superintendents(監督官代理)が任についた。監督官はみな士官、たとえばA. E. Woodは第四騎兵連隊、I-中隊の指揮官(大尉)。歴代監督官の名前と階級・所属のリストはAppendix Dを参照。Greene: 特にHarry C. Benson少佐(任期:1905〜1908年)は、探査、地図の作成、放魚、牧羊者たちの駆逐と色々な面で大きな貢献をした。Browning: ヨセミテ国立公園内には、Camp A.E. Wood、Rodgers Peak、Young Lake、Benson Lake、Forsyth Peak等彼らの名を抱く地名が在る。(参考: 騎兵隊にまつわる話で有名なのはLittle Bighornの戦い。1876年6月、カスター将軍の指揮の第七騎兵連隊はインデアンによって壊滅的な打撃を受けた。)

[3] Hampton: 厳密な法解釈に従えば、軍の任務は公園に入り込む不法侵入者を防ぐ事であった。よって内務省長官の命令を受ける事や、入園する車のチェック、料金の収集、ツーリストのガイド、山火事のパトロールや消火活動、遭難者の救助、羊などの駆逐、農務省の為に水量計を読む、内務省のためにパックトレインを提供する事、川や湖への放魚等は違法であった。

[4] Hampton: A. E. Woodの報告によると家畜の所有者らはおおむね決まりに従った。しかし牧羊者(外国人が多かった)らは状況が異なり、 公園から追い出されたものの、一度懲罰がないとわかると、また公園に戻ってきてた。Woodの考えた対策は、つかまえた牧羊者と羊とを公園の反対側に追い出す事であった。彼らが再合流するまでには日数がかかり、その間羊は獣に襲われてしまう。被害が大きいので公園には戻らないようになった。 とりあえずは牧羊者の排除にほぼ成功したかに見えたが、その後、彼らは更に奥地のほうへと入り込むようになったり、騎兵隊の動きを偵察するスパイを雇うなどをして、いたちごっこが続いた。しかし辛抱強く取り締まりを行った結果、羊の被害はやがてなくなっていった。Bade: 1895年の秋ヨセミテから帰ってきたMuirはR. U. Johnsonに手紙を書いて(9月12日)、状況がかなり改善されている事を報告している: ”I have just got home from a six week's ramble in the Yosemite and Yosemite National Park. For three years the soldiers have kept the sheepmen and sheep out of the part, and I looked sharply at the ground to learn the value of the military influence on the small and great flora. On the sloping portions of the forest floor, where the soil was loose and friable, the vegetation has not yet recovered from the dibbling and destructive action of the sheep feet and teeth. But where a tough sod on meadows was spread, the grasses and blue gentians and erigerons, are again blooming in all their wild glory. The sheepmen are more than matched by the few troopers in this mismanaged park,…”

[5] Hampton: 軍による管理の終わりごろには、羊などの放牧や密猟は減り、動物が増えだしてきた。騎兵隊の主要任務は辛いパトロールの代わりに、道路やトレイル[6]建設の監修、ゲートの管理、公園の訪問者へのアドバイスと内容が変わってきた。監視所は公園一帯で維持されたものの、その目的は目撃される動物の報告や、森林火災の監視、火器の取り締まり、そして訪問者の登録などに使われた。初めの頃は一帯の住人たちに敵意を持って迎えられたが、やがて友好的に接されるようになってきた。

[6] Greene: パトロールの必要性から、プリミティブだったトレイルに樹皮を削って作る印が付けられ始まった(Blazing)。1890年〜1906年の間、軍は"T"印をつけた。その後は1930年ごろまではダイアモンド形の印がつけられる。 他にはUS Forest Serviceの使った”i”、 牧羊者たちの”Q”などの印がある。 主にロッジポールパインの高さ5フィートくらいのところに付けられた。これらの跡は当時のルートを知る貴重なものであるが、木の損壊、火事などによりかなりのものが失われつつある。331〜333ページには1896年に使われていたパトロール用の地図が掲載されている。Big Oak Flat、Colter、Tioga(Aspen Valley経由の旧道、Tioga Passの東側の部分はMono側の道路とつながっていない)などの道路が書き込まれている。ヨセミテ北部も含め現在に近いかなりのトレイル網ができている。パトロールステーションの位置も書き込まれている。1914年ごろまでには現在の主要なトレイル網が完成。また各トレイルの建設、整備の記録も詳しく書かれている。



1906年: ヨセミテ渓谷、連邦へ返還

1890年の法案H.R. 12187の通過により、連邦によるヨセミテ一帯の保護が始まりましたが、依然二つの大きな問題が残されたままでした。ひとつはヨセミテ渓谷が依然カリフォルニア州の所有下にあり、保護よりも観光が重視され、景観の荒廃が進んでいたこと。もうひとつは連邦の管轄となったものの、かなりの広さで私有地が残っており、管理上の問題があったことです。騎兵隊によるパトロールで、とりあえず羊などによる自然破壊に歯止めをかけることができましたが、ヨセミテは国立公園としてはこれらの不安定な要素を含んでいました。以下は1890年にヨセミテ国立公園が設立してから、渓谷が州の管理から連邦へと返還され、ヨセミテ全域の管理が連邦に帰する1906年までの主な出来事・運動のまとめです。

1890年:ヨセミテ国立公園設立の法案(HR. 12187)が通過する直前、上院は内務?長官Nobleにヨセミテ渓谷管理の問題の調査を命じた[1]。1891年:”The Forest Reserve Act”(H.R.7254)法案が通過、大統領の判断で森林保護区を作れるようになる[2]。1892年:R.U.Johnsonの訴えに応じ、Muirはシエラクラブを結成する[3]。Nobleはその最終報告書で、ヨセミテ渓谷が連邦に返還されるべきと結論を下す[1]。1893年:Clevelandが大統領となり、内務省長官とともに保護のスタンスを表明する[4]。1894年:大統領の許可があれば、内務省長官は公園内の私有地の調整ができるという法案、Caminetti Bill(H.R.7872)が通りかかるが、シエラクラブの運動により廃案となる[5]。Muirの「Mountains of California」が出版される[6]。1895年:Muirはヨセミテに行き、ハイシエラが自然破壊から回復しつつあることを報告[7]。1896年:Sargentらを中心に森林委員会ができ、全国の森林の調査を開始する[8]。1897年:任期終了直前のClevleandはH.R.7254を用い、21Mエーカーに及ぶ森林保護区を定める大統領令を出す。しかし上院の反対に会い、その実行は一年間保留となる[8]。1898年:Clevelandの大統領令が下院によって認められる[9]。 1899年:MuirはUnion Pacific鉄道の実権を握るE. H. Harrimanのアラスカ遠征隊に加わる[10]。1901年:HarrimanはさらにSouthern Pacific鉄道の実権も握る。”The Right of Way Act”(H.R. 11973)が通り、内務省長官の権限で、国立公園内にダムなどを建設できるようになる[11]。11月、Rooseveltが大統領となり、すぐに保護の方針を示す[12]。1903年:5月にRoosevelt大統領はMuirともにヨセミテでキャンプをする[13]。1904年:議会は内務省長官のHitchcockに対して、ヨセミテの境界を見直すようにと指示、年末には報告書が提出される[14]。1905年:2月にヨセミテの境界を変更・縮小する法案(H.R. 17345)が通る[14]。またほぼ時を同じくして、カリフォル二アではシエラクラブ原案によるヨセミテ渓谷返還の案が通過(Muirの要請でHarrimanが州議会に影響をあたえた)、直ちに連邦での法案通過へと動き始める。しかし会期末日だったので、合同案(S.J.R. 115)の形で予算だけを通す[15]。それに応じ、騎兵隊は本部をWawonaからヨセミテ渓谷に移そうとしたが、州の運営委員会の抵抗で延期となる[16]。年末には正式返還のための法案(H.J.R. 14)が下院に提出される。 1906年:若干の土地境界の修正をした法案(H.J.R. 77)が下院に提出される。Muirは更にHarrimanに援助を求め、最終的には法案(H.R. 118)となり上下院を通過し、6月11日の大統領Rooseveltのサインにこぎつけた[17]。直ちに騎兵隊はヨセミテ渓谷に司令部を移し、以降National Park Serviceが取って代わるまでの管理を行う[17]。

以上、キーポイントとして数点が指摘されると思います:1890年のヨセミテ国立公園設立のときとは異なり、Muirが表立った保護・ロビー活動を開始したこと、鉄道会社がまたもや法案通過に大きな役割を果たしている事、森林保護の意識が議会で高まってきた事、そして大統領・内務省長官が保護や開発に関して大きな実力を握っていた事です。

参考:

* Linda Wedel Greene,"Historic Resource Study: YOSEMITE", U.S Dept. of the Interior/ National Park Service
* William Frederic Bade, "The Life and Letters of John Muir"(1924年)
* Robert Underwood Johnson,"Remembered Yesterdays"(1923年)
* Linnie Marsh Wolfe,"Son of the Wilderness: The life of John Muir",The Univiesity of Wisconsin Press(1945年)
* Linnie Marsh Wolfe,"John of the Mountains: Unpublished Journals of John Muir",The Univiesity of Wisconsin Press(1938年)
* Alfred Runte, "Yosemite The Embattled Wilderness", University of Nebraska Press(1990年)
* Mark Neuzil abd Bill Kovarik, "Mass media and environmental conflict", SAGE publication(1996年)
第3章"The Mother of the Forest"
* 法案の原本の写し:連邦議会図書館、デジタルアーカイブ
* The Atlantic Monthly、The Century 、Harper's New Monthly、Harper's New Monthly、The North American Review、Scribner's Monthlyの原本の写し: コーネル大学、Making of America デジタルアーカイブ
* Overland Monthlyの原本の写し:ミシガン大学、Making of Americaデジタルアーカイブ
* Maury Klein,”The Life and Legend of E. H. Harriman”, The University of North Carolina Press(2000年)
* William Colby,”The Story of the Sierra Club”,Sierra Club Handbook(1947年)
* Stephen R. Mark,”Seventeen Years to Success: John Muir, William Gladstone Steel, and the Creation of Yosemite and Crater Lake National Parks”, U.S Dept. of the Interior/ National Park Service
* Theodore Roosevelt,”Theodore Roosevelt: An Autobiography”(1913年)
* Theodore Roosevelt,”John Muir: An Appreciation”(1915年)
* Theodore Roosevelt,”In Yosemite with John Muir”(1913年)


[1] Greene(3章D):ヨセミテ国立公園設立の法案、”An act to set apart certain tract of land in the State of California as forest reservation”(H.R. 12187)が通過する直前の1890年9月22日、上院は内務省長官Nobleに対してヨセミテ渓谷のマネジメントの問題を調査するよう指示した(調査の予算はなし)。Nobleは手紙などにより情報収集を行い、1891年に提出した報告書で、ヨセミテ渓谷の運営委員会は、公共のリゾートという本来の目的を逸脱し、州の利益のために土地を耕してしまったと結論付け、更なる調査の必要性を指摘した。1891年3月2日、上院は報告を聞き、更に調査を続ける事をNobleに申請した。1891年10月3日のWeigel少佐の報告と1892年11月15日のStidger大尉の報告に基づき、Nobleは1892年12月29日の最終報告書で、ヨセミテ渓谷は連邦に返還されるべきだと結論付けた。当時の一致した見解としては 1)建材、燃料、見通しを良くするために木が切られていた、2)渓谷の25〜50%は有刺鉄線で囲まれていたり、草や穀類が植えられていた、3)貴重な植物系は牛などの動物や隙返しなどにより破壊されていた、4)渓谷内のビジネスは独占状態となっていた、5)唯一の放牧地は厩舎や運送会社関係者によって占められ、馬などを使ってくる旅行者の為の余裕はない、6)ハイカントリーの植生は牧羊者により被害を受けていた、7)火事の鎮火作業を怠ったため、マリポサグローブのセコイアにダメージを与えてしまったことなどが挙げられる。

[2] 1891年3月3日、"An act to repeal the timber-culture laws, and for other purposes."(H.R. 7254)、 通称”The Enabling Act(The Forest Reserve Act)”が通過した。これによって、1873年に制定された”Timber Culture Act”(S.680)を無効とし、大統領の権限で森林保護区が指定できるようになる。”Timber Culture Act”とは簡単に言うと、40エーカーにわたる森林を10年にわたり大切に守ったものには160エーカーの土地を譲渡する、という聞こえのよい法であったが、かなり欺瞞性の高いものであった。”The Enabling Act”の主たる目的は、水系の保護(特に上流や川沿いを守って侵食や洪水を防ぐ事)や木材の供給の保護・保存をする事にあった。連邦議会図書館で、この法案の通過に絡むディベートの記録が残されている、R. U. Johnsonの知り合いであるPlumの名前が見受けられる。法案自体も9ページとかなり長い。大統領の権限について述べるその最後、Sec. 24は、同じくJohnsonの知り合いである下院のHolmanによって書かれたとのこと。

[3] Wolfe(6章): 1889年以来、R.U. JohnsonはMuirにカリフォルニア(少なくともヨセミテ)の自然の保存活動をするような組織を作る事を訴えていた。1892年5月末の会合の後、 6月4日正式にシエラクラブが設立された。その趣旨は"To explore, enjoy and render accessible the mountain regions of the Pacific Coast; to publish authentic information concerning them; to enlist the support and corporation of the people and the goverment in preserving the forests and other natural features of the Sierra Nevada Mountains"と、太平洋岸の山々の探査・報告、シエラネバダの自然保護などにあった。チャーターメンバーは182人。Muirは死去する1914年まで会長を務めた。Colby:1900年よりクラブのSecretary(事務官)であるColbyは、初期の功績として、Caminetti案(ヨセミテ国立公園を半分にする法案)への反対運動、公共への教育活動、ハイシエラの地図の作成、ヨセミテ渓谷返還運動などを挙げている。Mark: Muirは会合には不規則にしか参加しなかったため、すぐにクラブの取りまとめは他の役員によって行われるようになる(1898年には殆ど参加していない)。ColbyはTuolumne Meadows(Soda Springs)でのシエラクラブアウティングを開催し大成功を収め(1901年)、以後毎年行われるようになる。

[4] Wolfe(6章):1893年初頭、当選を決めたCleveland大統領は、R.U. Johnsonに保護の姿勢をとることを表明していた。また、内務省長官候補のHoke Smithも同じ姿勢をとった。1893年2月14日、任期終了間際のHarrisonは”The Enabling Act”を使い、 13Mエーカーにわたる水系を森林保護区と定めた。そのうち4Mは中南部シエラネバダが占めていた。しかしパトロールは入らず、牧羊、林業者の問題が残されたままとなる。6月にMuirは東海岸へ行き、JohnsonによりCentury誌のスタッフ、有名人などに紹介される。BostonではHarvardのDendrologist(樹木学者)のCharles S. Sargentと会う。

[5] Wolfe(6章)、Bade(16章)、Runte(6章):1892年、すでに林業者と牧畜業者は、ヨセミテの境界を変更(規模を半分にする)する為の法案提出(Caminetti Bill)への反対運動を開始した。法案は下院を大差で通過したが、上院に来る前にMuirとシエラクラブらの運動により(Muirは東海岸の新聞にインタビューを受けたり、また政府の有力者に電報を打ったりした)、持ち越されることになった。法案は幾度かの修正を受け、1894年には「大統領の許可があれば、連邦議会のレビューなく、内務省長官は境界の変更ができる」という法案(H.R. 7872)が提案された。法案に賛成の立場にたつ上院のレポートはその理由として、1890年のヨセミテ国立公園を定める法案は会期の最終日に通ったもので、その影響を受ける者が注意深くレビューする機会がなかったため、65,000エーカーに及ぶ譲渡地や300近い採掘権の要求が公園内に残されてしまったことを挙げている(1894年12月10日、下院報告書1485)。しかしながら、内務省長官Hoke Smithは、法案の通過に異議を唱えるのにやぶさかではないという態度で臨んだ。

[6] The Mountains of California: 第1章「The Sierra Nevada」の冒頭は1890年8月にCenturyに投稿した”The Treasures of The Yosemite”の一部を使っている。ほかの章はOverland Monthlyの1875年6月号、 Harper's の1875年11月、1877年7月号、Scribner's Monthlyの1878年2、11、12月号、 1879年1、2、3月号、 1880年7月号、 1881年5、9、10月号、 Centuryの1882年6月号を基にしている(”Sierra Thunder Storms”と”In the Sierra Foot Hills”の章の出展は現時点で不明)。

[7] Wolfe(”John of the Mountains”): 1895年8月7日、Glen Aulin付近(オリジナルは”at the head of the Grand Cascede”と書いてある)でキャンプ、そこから、Tuolumne渓谷を単独で下る、8月12日にはHetch-Hetchに貫けた。食料が尽きたので帰る途中、Lekensに出会う。Lukensは食料が十分あるので、一緒にHetch Hetchyへ行こうと促され、Muirは再び渓谷に戻り一緒にキャンプをする。その後、ハイシエラに戻り8月26日、Mt. Connessに登った。8月31日にはヨセミテ渓谷で、昔住んでいたキャビンを探す。9月12日には公園及び渓谷の状況を書いた手紙をR. U. Johnsonに送る。[註:この年Muirの投稿記事には、鉄道会社に関してのコメントが見られる。Century1895年2月号の特集”A Plan to save the forests”への投稿記事では、”Now railroads, carrying everywhere the rapidly increasing population, have rendered nearly every tree in the country accessible to the ax and to fire, till at last the Goverment has taken alarm, and seems ready to adopt measures to stay destruction and save what is left.”と書いている。この特集には後の大統領ルーズベルトの投稿もある。また11月23日のシエラクラブの会議で 発表された記事、”The National Parks and Forest Reservations”では”Even the soulless Southern Pacific R.R. Co., never counterd on for anything good, helped nobly in pushing the bill for this part through Congress”と鉄道会社のヨセミテ国立公園設立への貢献を認めている。]

[8] Wolfe(6章):1894年ごろGifford Pinchotが中心となってSargent、JohnsonらとともにNational Forestry Commission(森林委員会)を作る計画と練り上げた。それは森林保護区の測量や新しい保護区の推薦、その管理のポリシーなどを提案するものであった。 1896年、内務省長官SmithはNational Academy of Scienceの会長(Wolcott Gibbs、政府への科学面でのアドバイザー)に人選を頼み(ただし無給)、委員会のメンバーがきまる。委員長のSargentをはじめAbbot、Brewer、Agassiz、Hague、Pinchotらが選ばれた。委員会は7月より調査に出かけ、Muirも同行した。

[9] Wolfe (6章)、Bade(16、18章):1897年1月18日、MuirはOlney(シエラクラブの幹部メンバー)に手紙を書き、シエラクラブとしてのヨセミテ渓谷返還を訴えるべきことを示唆する。2月には州に法案を提出するも反対にあう。これが通るのは1905年。同月、Cleveland政権の終了間際に森林委員会のレポートが完成する。大統領はそれに感銘してExecutive Order(以下EO)を発令、13の保護区(21Mエーカー)を設定した。直ちに保護反対派は電報などで抗議活動をする。彼らをバックにする上院の議員たちはEOを非現実的と非難。わずか一週間の後に、上院は反対なしでEOを無効とする補足案をSundry Civil Billに付け足すことに成功した(ただし、カリフォルニアの保護区はPerkinsとWhiteの二人の上院議員の働きでそのまま残された)。大統領はもし補足案が含まれていれば、Sun Dry法案に拒否権を発動(Veto)すると表明。そのまま会議は閉会した(1897年3月4日)。更に5月には、議会で特別のセッションが開かれ、EOを1898年3月まで1年間保留する決議を出し、McKinley大統領が6月にサインする(それに応じ新政権の内務省長官Blissは保護区を入植者に開放。直ちに申し込みが殺到した)。この頃MuirはAtlantic誌に”The American Forest”(1897年8月)及び”The Wild Parks and Forest Reservations of the West”(1898年1月)を投稿している。1897年8月にMuirは Sargentらとアラスカに行き、その帰りシアトルでPinchotと口論をしている。1年後の1898年、上院はEOを無効にする事を可決。しかし下院の土地委員会では否決される。かつ下院での採決は100:39で無効案は否決された。

[10] 当時Union PacificとIllinois Central鉄道の実権を握っていたEdward H. Harrimanがアラスカ遠征隊を計画。Muirもそのメンバーに加わる事になった[註: 参加にいたる理由は不明。それまで幾度かアラスカ?検をしていた実績を買われたことが考えられる]。1899年5月26日、サンフランシスコからオレゴンへ向かい、出発。ポートランドでHarriman一行と会う。Wolfeの”John of the Mountains”には出発から8月にカリフォルニアに戻るまでのほぼ毎日の日記がある。Harrimanをはじめ、U.S. Geological SurveySのHenry Garnett、U.S. Biological SurveyのC. Hart Merriamらと知り合った。Klein: 1900年にSouthern Pacific鉄道の社長Huntingtonが死去すると、Harrimanは1901年以降、その経営の実権も握った。HarrimanとRooseveltはNY州知事選(Rooseveltが出馬)のとき、Harrimanの友人Odell(NY州の議員)を介し1898年に知り合った。Rooseveltが副大統領になってからはOdellがNY州知事となる。Rooseveltは1903年、大統領に就任。Harrimanとの蜜月期は大統領選を境に終焉に向かい、1906年には決別となる。やがて追い討ちをかけるように、Rooseveltは鉄道会社への規制を強める方向へと動き始めた。

[11] Greene(3章D-8):1901年2月15日:当時すでに内務省長官は公共用地に発電、通信路、灌漑、水路を通す許可を出せる権利があった。この法案”An Act Relating to rights of way through certain parks, reservations, and other public lands.”(H.R. 11973)により、それが国有林や国立公園内の土地にも適用される事になる。この頃既にSan Franciscoは、人口増加のため、新たな水源探しを始めていた。この法案はやがて有名になるHetch-Hetchy渓谷でのダム建設に大きく関わることになる。 

[12] Wolfe(7章):1901年9月:現職のMckinley大統領が暗殺された為、副大統領のTheodore Rooseveltが急遽就任(1909年まで大統領)した。Rooseveltは12月に議会で森林保護の必要性を訴えた:"An Imperative business necessity"。その頃、C. Hart Merriam(Harriman遠征隊で同行)はMuirに手紙を送り、大統領が保護に興味があることを伝えている。この年、Muirの”Our National Parks”が出版される。[註:”Among the Animals of the Yosemite”と ”Among the birds of the Yosemite”はThe North Americal reviewの1898年11月、12月号の記事より、他のはAtlantic Monthlyの記事(1897年8月、1898年1月、4月、1899年8月、1900年4月、8月、1901年4月、9月より)をまとめたもの] 

[13]Bade(18章):1903年3月:カリフォルニアの上院議員Chester RowellはMuirに手紙を送り、ワシントンから届いた個人的な情報として、大統領がカリフォルニア訪問の際、Muirとハイシエラに行きたいと思っていることを伝えた。既にSargentと世界旅行の予定を立てていたが、それを延期し、5月15日にはRooseveltとMuirのヨセミテキャンプが実現する。Rooseveltはマリポサでの出迎えの群集に"Ladies and Gentlemen: I did not realize that I was to meet you to-day, still less to address an audience like this! I had only come prepared to go into Yosemite with John Muir, so I must ask you to excuse my costume"と、彼のプランを発表し、その後3日間をMuirとヨセミテの自然の中ですごす事になった。残されているMuirの手紙によると、妻宛には”I had a perfectly glorious time with the President and the mountains. I never before had a more interesting, hearty, and manly companion.”またMerrianには”Camping with the President was a memorable experience. I fairly fell in love with him.”と書かれている。ヨセミテから帰ってきたばかりのRooseveltは、州都サクラメントのスピーチで、森林保護なくして農業への水の供給はできないこと等を述べている。[註:Bade自身は1916年にRooseveltと会って当時の話を聞いている。] Johnson(”Men and Women of Distinction”の章):Rooseveltがヨセミテに行く計画があると聞いて、大統領に手紙を送ってMuirと会うことを薦めた。Rooseveltは乗り気だったので、Johnsonは早速Muirに連絡を取った。またMuirがJohnsonに伝えたキャンプファイアを囲んだ大統領との話が書かれている。Johnsonは既にRooseveltがNew York州の議員であった頃からの知り合いであった。Wolfe(7章):Muirのサンフランシスコでの出迎えのことや、ヨセミテ渓谷での逸話が色々と書かれている。Roosevelt:回顧録の中で、Muirが意外にも鳥に関する興味・知識が無いことを指摘している。またMuirが別れ際に、(Sargentに?)頼まれてRooseveltに渡そうとした手紙に関しても述べている。

[14] Runte(6章)、Greene(3章F):1904年4月28日、議会は内務省長官Ethan Allen Hitchcockにヨセミテの境界に関し、どの部分を公園として残すべきか調査するように命令を出す。6月14日にはChitterden、Marshall、Bondをメンバーとする、境界に関する委員会(Federal Boundary Commission)が設立された。7月9日にはフィールド調査を終了、一行はその後サンフランシスコに行き、関係者ら(Muirも含まれていた)の意見を聞く。12月5日にはHitchcockは最終報告を議会に提出。1905年2月7日にRooseveltは”An Act to Exclude from the Yosemite National Park, California, certain lands therein described, and to attach and include the said lands in the Sierra Forest Reserve”(H.R. 17345)法案のサインをする。これによりヨセミテ公園の境界が大きく変わり、且つ小さくなり、現在の境界とほぼ同じになった。

[15] Greene(3章G)、Wolfe(7章)、Johnson:1904年12月年末にはヨセミテ渓谷を連邦に返還する案の論議がカリフォルニアで熱を帯びてきた。反対派は州の議員(John Curtin)や新聞社のSF Examinerであった。1905年1月:MuirのリクエストでColbyがカリフォルニアでの法案の原案を書く。このころは殆どの新聞が返還案を支持していた。1月8日にはヒアリングが行われる、2月2日には州の下院に於いて45:20で可決、2月23日には州の上院で一票差で通過する(このときMuirはCaliforniaで政治的影響力のある、Harrimanに助けを求めていた)。3月3日にはカリフォル二ア知事Pardeeがサインし、カリフォルニア州としてヨセミテ渓谷とマリポサグローブを連邦に返還することが決定する。このことは、すぐ電報でカリフォルニア出身の上院議員George C. Perkinsに送られる。上院で法案を提案、通過した。次に下院に送られたが、会期の最終日となっており、即日で新法案の提出はできないという決まりがあるため、Joint Resolution(S.J.R. 115)として提案。これはすぐ下院を通過した。

[16] Greene(3章G):S.J.R. 115が通過するとすぐ、内務省長官と軍はヨセミテ国立公園全体を管理するのに都合のよい渓谷へと騎兵隊のキャンプ地を設営する事、及び州の所有物を連邦へ引き渡す事を州に求めた。しかし、ヨセミテ運営委員会は法案がそのような事を許可することはどこにも書いていないとし、抵抗する。騎兵隊は他の一般キャンパーを同じとみなされ、指示したキャンプ場所は大隊規模が幕営できるような広さのところではなかった。勿論州の所有物の引渡しも拒否した。よってBensonはその年、ヨセミテ渓谷に移ることはを断念する。

[17] Greene(3章G)、Wolfe(7章): 1905年12月、PerkinsはJoint Resolution S.R. 14を提出。1906年1月15日、下院のJ. N. GilletはJoint Resolution 77を提出、一部の土地をS.R. 14から削る。もし、法案が一定期間内に許可されなければ無効となるため、Muirは再びHarrimanに助けを求めた。HarrimanがMuirへ書いた1906年4月16日の手紙には”I will certainly do anything I can to help your Yosemite Recession Bill”と書いている。5月には最終案”Joint Resolution Accepting the recession by the State of California of the Yosemite Grant and the Mariposa Big Tree Grove, and including the same, together with fractional sections five and six, township five south, range twenty-two east, Mount Diablo meridian, California, within the metes and bounds of the Yosemite National park, and changing the boundaries thereof.”(H.R. 118)は下院を通過、三度目のHarrimanの力で上院を通過し、6月11日、Roosevelt大統領のサインをもってヨセミテ渓谷、マリポサグローブはヨセミテ国立公園に取り込まれることになった。[註:Greeneは、この背景について面白い事を書いている。1903年にYosemite Valley Railroadに対抗すべく、Southern Pacific Railwayの援助を受けたFresno Traction Companyが設立された。目的はYosemite Valley Railroadに対抗して、Wawona経由でヨセミテ渓谷への鉄道を引く事であった。そのためには、ヨセミテ国立公園南西部を1905年に決まった公園指定区からはずさなければならなかった。H.R. 118にはまさにそのための修正が加えられている。Greeneの407ページの地図に1864年、1890年、1905年と1906年の境界の変化が詳しく描かれている。]

[18] Greene(3章G):1906年6月15日、内務省長官は、監督官のBensonにヨセミテ渓谷にキャンプを設立し、渓谷、マリポサグローブの管理をするよう正式な指示を出す。また州知事Pardeeに電報を送り、運営委員会が法律を認め、州による管理(Guardian)を廃止、所有物の返還を行うよう求めた。これにより8月1日をもって、州による管理に終止符が打たれ、ヨセミテ全域が連邦の管理下となった。


1901〜1913年: Hetch-Hetchy渓谷、ダム建設論争

1901年、人口増加に伴い将来の水の供給に不安を抱えるサンフランシスコ市[1]は、"The Rights of Way"法案[2]に従い、ヨセミテ公園内のHetch-Hetch渓谷にダムを作る許可を申請しました。これ以降Conservations-for-Preservation(保存の為の保護)派とConservations-for-use(利用のための保護)派の間で、是非論争が巻き起こります。最終的には1913年にRaker法案[3]が通過し、ダム建設が許可されます。以下はその12年間の流れです。

1901年:2月15日、"The Rights of Way"法案が通過する。Tuolumne川にダム建設を考えるサンフランシスコ市長のPhelanは、1900年から技師(City Engineer)のGrunskyに命じ、候補となる水源の調査をさせていた。7月29日、個人としてTuolumne川沿いに"Water Rights”(水利権)を申請する公示を出した。10月15日、PhelanはHetch-Hetchy渓谷とLake Eleanorにダムを建設する許可を内務省長官Hitchcockに申請する[4]。 1902年:Eugene Schmitzがサンフランシスコ市長に就任。 1903年:1月20日、Hitchcockは申請を却下する。2月20日、元市長のPhelanは自分が所得した権利をサンフランシスコ市に移譲する。ヒアリングなどの後、12月22日、Hitchcockは正式な却下を市に通達[5]。 1906年:サンフランシスコ市はHetch-Hetchyのダム建設計画を正式に取りやめる[6]。4月18日、サンフランシスコ大地震が起きる。5月28日、森林局長のPinchotはCity EngineerのMasonに手紙を送り、彼がダム建設をサポートする旨を表明する[7]。さらに11月15日、内定した内務省長官James R. Garfieldがダム建設に好意的であると伝える[8]。 1907年:3月5日、内務省長官にGarfieldが就任。7月にはサンフランシスコで公聴会に出席。この頃Tuolumne川の灌漑区は、すでに彼らへの水割り当てが確保されていたので、サンフランシスコ市側についていた[9]。 1908年:1月、Muirは”The Hetch Hetchy Valley”を書く。この頃には、地元の新聞は開発側の勝利が近い事を書いていた。4月21日、MuirはRoosevelt大統領に手紙を送り、助けを求める。4月22日、City EngineerのMasonはダム建設の許可を申請する。4月27日、RooseveltはGarfieldに対してMuirからの手紙を添え、ダム建設はLake Eleanorだけにできないかと書簡を送る。 しかし、Garfieldは5月11日に条件付でダム建設を許可した[10]。12月には下院で公聴会が行われる[11]。 1909年:2月9日、下院土地委員会のレポートが提出される[12]。3月4日、Taft政権が成立、新内務省長官にRichard A. Ballingerが選ばれる。10月、Taftはヨセミテを訪れ、Muirと4マイルトレイルを下り、ダムの件について話をする。またTaftはBallingerと不仲のPinchotを罷免[13]。 1910年:1月4日、サンフランシスコ市で45Mドルの公債発行が20対1で許可される。2月25日、BallingerはGarfieldのHetch Hetchy渓谷に関する部分の許可に疑問を投げかける。4月13日、サンフランシスコ市はLake Eleanor付近の土地と水利権を所得。5月にTaft大統領は計画を見直すための調査を指示した[14]。 1911年:3月、Ballingerは健康上の理由で辞任し、Fisherが後を継ぐ。6月22日、サンフランシ??コ市はCherry Lake付近、及びその水利権を所得。 1912年:James Rolph, Jr. がサンフランシスコの市長に就任。7月15日、John R. FreemanはHetch-Hetchyにダムを建設する為の計画を発表。9月1日、O'shaughnessyがCity Engineerになる。調査に関する最終公聴会が11月に開かれる。 1913年:2月19日、委員会のFisherへの報告は、建設費が他の候補地よりも20Mドルほど安い事などを挙げ、Hetchy-Hetchyでのダム建設を推薦する。3月1日、Fisherは以降、この件に関しては連邦議会の許可が必要であるとした[15]。3月、Wilsonが新大統領となり、サンフランシスコでHetch Hetchyダム建設を推進していたFranklin K. Laneが内務省長官となる。8月にはRaker法案(H.R. 7207)が提出される。9月3日、下院を183対43で通過(205人は棄権)[16]、さらに12月6日には上院を43対25で通過[17]、12月19日大統領Wilsonがサインをする。以上のような経過でダム建設が正式に認められ、1923年に今のO'Shaughnessy Damダムが完成した。

参考:

San Francisco Public Utilities Commision(SFPUC) :サンフランシスコ市の電気・水道のなどサービスを行う。当時のダム建設推進側から見た歴史を書いている。

Sierra Club: 1914年までJohn Muirが初代会長をつとめた。Hetch-Hetchy渓谷ダム化反対派。同じく歴史の項を参照。

Linda Wedel Greene,"Historic Resource Study: YOSEMITE", U.S Dept. of the Interior/ National Park Service

Linnie Marsh Wolfe, "Son of the Wilderness: The Life of John Muir" The University of Wisconsin Press, ISBN: 0-299-18634-2 (2003)

Robert Underwood Johnson, "Remembered Yesterdays", Kressinger Publishing, ISBN: 1-417-91700-8

New York TimesのHetch Hetchy論争に関する記事

連邦議会資料: ”San Francisco And The Hetch Hetchy Reservoir: Hearing held before the Committee of the Public Lands of the House of Representives December 16, 1908 on H.J. res. 184,”下院公地委員会での公聴会報告書

連邦議会資料: ”Granting Use of Hetch Hetchy To City of San Francisco"1909年2月8日の下院公地委員会の報告書。Lake EleanorとHetch Hetchy渓谷へのダム建設の許可を与える事を推薦している。Muirら反対派の手紙などが添付されている。

連邦議会資料:"Hetch Hetchy Reservoir Site Hearing Before The Committee on Public Lands United Sstates Congress. Senate 63rd. Congress 1st. sesseion on H.R. 7207,"9月24日に開かれた、上院公地委員会での公聴会の報告書。
 
連邦議会資料:"An Act Granting to the city and county of San Francisco certain rights of way in, over, and through certain public lands, the Yosemite National Park, and Stanislaus National Forest, and certain lands in the Yosemite National Park, the Stanislaus National Forest, and the public lands in the State of California, and for other purposes."(H.R. 7207) Raker法案。

連邦議会資料:Martin S. Vilas,”Water and power for San Francisco from Hetch-Hetchy Valley in Yosemite national park,”(1915) 数少ないダム建設賛成派の資料。

連邦議会資料:1901-19071908-19111912-1920のページに上記を含むHetch-Hetchy関連資料がある。Muirの反対を唱えるパンフレットも見ることができる。

[1] Greene(pp. 380〜383): 1857年The San Francisco Water Works社は市に大型の給水施設を作った。1860年にはThe Spring Valley Water Works社は市の南、San Mateo郡に貯水池を作りそこから32マイルにわたり水を引き始めた。1871年に市は、その給水能力が将来限界に達することに気づく。当時、ベイエリアへの水の供給はThe Spring Valley社とThe Contra Costa Water社らによる独占状態になっており、法外な値段を請求していた。The Spring Valley社はさらにAlameda、Santa Clara郡からも水を引く権利を得たものの、その供給能力にやがて限界が来るのは明らかであった。そのような中でSan Francisco市は新たな水の供給源を(150マイルという長大な距離を送るという問題があるものの)シエラネバダに探し始めた。

[2] ”An Act Relating to rights of way through certain parks, reservations, and other public lands”(H.R. 11973)、これにより内務省長官の裁量で保護区内(ヨセミテも含む)にダムなどを作る許可が出せるようになった。 出だしは”Be it enacted by the Senate and House of Representives of the United States of America in Congress assembled, That the Secretary of the Interior be, and hereby is authorized and enpowered, under general regulations to be fixed by him, to permit the use of rights of way through th epublic lands, forest and other reservations of the United States, and the Yosemite, Sequioia, and Grant national parks, California, for electrical plants, poles, and lines for the generation and distribution of electrical power, and for telephone and telegraph purposes, and for canals, …”と始まっている。

[3] カリフォルニア出身の下院議員John Edward Rakerによって1913年に提出された。正式名称は"An Act Granting to the city and county of San Francisco certain rights of way in, over, and through certain public lands, the Yosemite National Park, and Stanislaus National Forest, and certain lands in the Yosemite National Park, the Stanislaus National Forest, and the public lands in the State of California, and for other purposes."(H.R. 7207)。10ページに及ぶかなり長いもの。):Hetch-Hetchy論争で有名なRakerだが、NPSの設立など国立公園に関わる法案成立に貢献をしているとGreene(pp. 503)は指摘している。

[4]SFPUC、Vilasのレポート及び下院公地委員会の報告書(1909年2月8日)より。註:”The Rights of Way”法案は明らかに内務省長官の裁量次第で、ヨセミテにダム建設が可能となることがわかる。不思議なことに、この法案設立時にシエラクラブなどが反対したという記録は、調べた限り見当たらない。 Wolfe(pp. 311)は影響力のあるサンフランシスコ市民により”Yosemite”も対象に入ると付け加えられた、と書いている(詳しい資料はない)。面白い事に、SFPUCは市長が”The Rights of Way”の通過前年にTuolumne川を含む候補地調査の指示を出していたことを書いている。

[5] Greene(pp.385,386):Hitchcockが許可しなかった理由は、1890年の公園設立の法案(H.R. 12187)に従い、内務省長官が自然の景観を保護する義務があること、そしてLake ElarnorやHetch Hetchy渓谷はそのような範疇に入るとしたからであった。註:資料により日付に違いあり。Greene(pp. 384,385)の各1903年1月20日、12月22日に対して、SFPUCは6月20日、9月22日としている。

[6] SFPUC:Modesto、Turlockに住む土地所有者約1,200人は彼らが得ているTuolumne川の水権が犯される事を恐れ、サンフランシスコ市に計画を取りやめるよう嘆願書を出す。これは受け入れられ、2月には計画が破棄された。

[7] Wolfe pp. 312.

[8] Johnson(308ページ): PinchotがMansonに宛てた手紙の一部。 ”I cannot, of course, attempt to forecast the action of the new Secretary of Interior [Garfield] on the San Francisco watershed question, but my advice to you is to assume that his attitude will be favorable, and make the necessary preparations to set the case before him.…”

[9] SFPUC History(The Sierra Nevada)より

[10] 1908年の流れはWollfe(pp. 313〜314)に詳しい。Wolfeはまた次の4点を指摘している:Rooseveltはその保護政策に関してはPinchotに大きく頼っていた(pp. 311)、GarfieldとPichotは友人であった(pp. 312)、MuirとPinchotはかなり前(1897年)に口論をしている(pp. 275)、Pinchotが5月13日に”Conservation Conference”を開いたが、Sargent、Muirらは招待されなかった(pp. 314)。Muirの4月21日付けの手紙の全文はBadeの18章にある。Masonの申請日はSFPUCを参照。Garfieldの許可はまずLake ElearnorとCherry Lakeを優先的にダム化すること。更に必要な事が証明できたならばHetch Hethyをダム化できるといった内容のもの(Vilas)。

[11] 連邦議会資料公聴会の記録で、サンフランシスコ市のCity Engineer MansonやR. U. Johnsonへの質疑記録が残されている。またMuirら反対派の文書がある(pp. 32、42)

[12] 連邦議会資料:”Granting Use of Hetch Hetchy To City of San Francisco”、下院報告書2085。報告書の表紙のまとめには、サンフランシスコ市に許可を与える事、しかしそれは内務省長官により将来取り消される可能性があることを書いている。付録として、Parsonのレポートがあり、Muir(pp. 15)、Bade(pp. 16)らの手紙もついている。 この時点で反対派はシエラクラブ、Appalachian Mountain Club、新聞・雑誌社のみであった。

[13] Wolfe(pp. 322〜324):Taftがヨセミテ渓谷にダムを作るという冗談を言った話は有名。Wolfeはこれらの会話の出所は大統領周辺にいた記者らの記事とコメントしている。 

[14] Greene (pp. 500):シエラクラブのHetch-Hetchy Timelineによるとこの年シエラクラブ内での意見は589がダム反対、残りの161は賛成であった。

[15] Greene pp. 500より。

[16] Wolfeのpp. 339及びJohnson pp. 310より。

[17] 票数はVilasより。連邦議会ライブラリーには、この間、8月から12月までの上下院での討論の記録が残っている。総400ページほどのかなり長いもの。また8月5日の下院土地委員会のレポートには1910年から2年にわたって行われた政府機関(US Army Board of Engineers)のダム建設地の調査結果、サンフランシスコ市に委託されたFreemanの報告、内務省長官Laneを含む各方面からの意見のまとめがされている。9月24日の公聴会では反対派のParsons、R. U. Johnson、Modestoの灌漑区の代表Lehaneらが陳述をしている。

註: 各資料間で日付に違いが多々見受けられました。その場合は、連邦議会の資料の日付を最優先して用いています。

投稿者 toshi : 14:08

2005年12月30日

Mariposa Gazette 1890s

1890年代のMariposa Gazette誌に掲載された、ヨセミテに関する記事のいくつかが読めます。
1890年にヨセミテ国立公園が設立されてからも、ヨセミテ渓谷は依然カリフォルニア州の所有下にあり、
Yosemite Commissionersが管理していました。その管理の仕方には問題があり、Muirらによる連邦への返還運動へとつながって行きます。1895年1月19日の記事「Prof. Muir and the Park」は、自然保護運動の被害者とも言える農場主側の立場に立った物で、Muirを辛らつに非難しています。これは、Muir側の立場に立った資料が多い中で、貴重で興味深いものです。Caminetti's Billはヨセミテ国立公園を縮小するために提案された法案です。

このウエブには、いくつかの、興味深い昔の写真があります。

投稿者 toshi : 03:58

2005年12月20日

Walker隊ヨセミテ横断ルートを解明する

「Upon one occaision I told Capt. Walker that Ten-ie-ya had said that, ”A small party of white men once crossed the mountains on the north side, but were so guided as not to see the valley proper.”」 −Lafayette H. Bunnell、「Discovery of the Yosemite」(1892年)より

ヨセミテの歴史は、1833年10月、シエラネバダを横断したJoseph Walker隊が、白人として初めてヨセミテ渓谷とセコイアを発見したところから始まります。しかしこのWalker隊のルートには、いくつかの説があり[1]、知りうる限り今もまだはっきりと結論は出ていません(それ以上に忘れ去られたトピックともいえます)。ルート解明の資料は、以前に紹介したメンバーZenas Leonardの手記[2]と、Mariposa大隊のメンバーBunnellの口述[3]だけです。yosemite.jpでも負けずにルート解明に参加してみたいと思います。ここでの仮説はMono LakeからBloody Canyonを登り、Tuolumne Meadows付近にぬけ、そこから現在のTioga Roadに添うようにして横断、Crane Flat付近でセコイアを発見(TuoulmneかMerced Grove)し、Pilot Peakの西に抜けたというものです。Leonardの資料から、ヨセミテ横断の部分を一日ごとに切りだして見出しタイトルをつけ、地形などルート解明に有用と思われるところの要訳とコメントをつけて進めていきたいと思います。では最初の一日です。






10月10日:Mono Lake湖畔に到着
”On the 10th of October we left these Indians and built rafts out of rushes to convey us across the river, when we left the Lakes and continued our course in the direction of a large mountain, which was in sight, and which we could see was covered with snow on the summit. In the evening we encamped on the margin of a large Lake formed by a river which heads in this mountain. This lake, likewise, has no outlet for the water, except that which sinks into the ground. The water in this lake is similar to lie, and tastes much like pearlash. If this river was in the vicinity of some city, it would be of inestimable value, as it is admirably calculated to wash clothes without soap, and no doubt could be appropriated to many valuable uses. There is also a great quantity of pummice stone floating on the surface of the water, and the shore is covered with them.”

要訳:
1833年10月10日 …雪で覆われている大きな山に向かって進んでいき、夕方には大きな湖のそばに到着し、キャンプをする。山から流れてきている川は湖に流れ込んでいる。しかし湖から流れ出す川は無い。水はlei(?)と似ており、Pearlash(真珠灰)の味がする。石鹸などを使わなくても洗濯でき、町のそばにあれば、たいへん重宝されるであろう。湖面にはPumiceが浮いており、また湖岸もそれで覆われている。

コメント:
明らかに、水の流れ出さないアルカリ性の湖沼に到着したことが伺えます。東シエラでこれに相当するのは、Mono Lakeしかありません。ここで注意しておきたいことは、山々にすでに雪が積もっていることです。



10月11日:Walker Creek沿いにMono Passへ向かい進む

”The next day we travelled up this river towards the mountain, where we encamped for the night. This mountain is very high, as the snow extends down the side nearly half way - the mountain runs North and South. In the morning we despatched hunters to the mountain on search of game and also to look out for a pass over the mountain, as our provisions were getting scarce - our dried buffaloe meat being almost done. After prowling about all day, our hunters returned in the evening, bringing the unwelcome tidings that they had not seen any signs of game in all their ramblings, and what was equally discouraging, that they had seen no practicable place for crossing the mountain. They, however, had with them a young colt and camel, which they secured by the natives taking fright and running off, when the hunters came in sight.”

要約:
次の日は川沿いに山へ向かって進み、キャンプをした。南北に連なる山はとても高く、雪は山裾の半分くらいまでを覆っている。朝には食料とルートを探しにハンターを山の方へ送り出した。一日中雪の中を進み、夕方帰ってきたハンターたちがもたらした報告は、甚だ落胆させるもので、獲物や山を越えられそうな場所は見つからなかった。しかし、ハンターらを見て逃げたインディアンが残していった、子馬とcamel(駱駝?)をつれてきた。

コメント:
Mono Lakeに流れ込んでいる川は(現在の地図によると)、Mill Creek(Lundy Canyon)、Lee Vining Creek(Tioga Road)、Walker Creek(Bloody Canyon)、Parker Creek等が候補として挙げられます。ここでは、Mono Passに直接登るWalker Creekをルートに仮定します。


10月12日:停滞日

”The next morning, having eaten the last of our dried buffaloe meat, it was decided that the colt should be killed and divided equally to each man. Our situation was growing worse every hour, and something required to be done to extricate ourselves. Our horses were reduced very much from the fatigues of our journey and light food, having travelled through a poor, sandy country extending from the buffaloe country of the Rocky Mountains, to our present encampment, a distance of about 1200 miles, without encountering a single hill of any consequence, (with the exception of the one in which Barren river heads, and that we went around,) and so poor and bare that nothing can subsist on it with the exception of rabbits - these being the only game we had met with since we had left the buffaloe country, with the exception of one or two antelopes. Notwithstanding these plains forbids the support of animals of every description, yet I do not believe that we passed a single day without seeing Indians, or fresh signs, and some days hundreds of them.”

要約:
翌朝は、最後の乾燥肉(バッファロー)を食べ、ついには子馬も殺し、その肉を皆で分けることにした。隊がおかれている状況は刻々と悪化してきており、何らかの対策が必要だ。ロッキー山脈からここに到る1,200マイルの砂漠地帯は、Barren Riverの上流部を除き野兎くらいしか進まないような荒涼とした地帯で、連れてきた馬も疲労と粗末な食料事情のため、かなり数が減ってしまった。しかし、動物はいないにもかかわらずインディアンとの遭遇、もしくはその形跡を見かけない日は一日たりとも無く、多いときには数百人も見かけた。

コメント:
隊は、Great Salt Lake付近から、ネバダ州北部のGreat Basin地帯をHumboldt Riverに沿うようにして横断してきたことが知られています(1,200マイルはかなり大げさな距離です)。この日は、隊の行動については書かれていず、停滞日と思われます。



[1]「History of the Sierra Nevada」(Francis P. Farquhar著、University of California Press)の”Joseph Walker”の章。 FarquharはMono Pass説を採らず、Twin Lakes(ヨセミテ国立公園の北東)方面からTuolumneに達したとい書いています。Farquharの古い記事もあります。 また、「One Hundred Years in Yosemite」(Carl P. Russell著)も第一章で、Walker隊について書いています。

[2] 「Adventure of Mountain Man: The Narrative of Zenas Leonard」(Zenas Leonard著、1839年) ヨセミテ横断は、35ページ、10月10日から始まります。資料はダウンロード、再掲示が許可されているので、yosemite.jpにコピーしておきました。

[3]「Discovery of the Yosemite」(Lafayette H. Bunnell著、1892年) 第二章にWalkerとの会話、酋長テナヤから聞いた話が書かれています。この記事の最上部に引用しておきました。

投稿者 toshi : 06:25

2005年09月14日

Blaze

20050913.jpg

ロッジポールの林の中のトレイルを歩いていると、木の表皮が削られた痕を見かけることがあります。これは、昔つけられた道しるべ(Blaze)です。人の頭の高さほどのところにあり、注意していると、かなりの数を見つけることができます。トレイルビルダー、軍、放牧、採掘業者たちによる、いろいろな形のBlazeがあったようです(詳しくはGreeneの324ページ付近)。

Greeneより一部転載:
A valuable group of resources within Yosemite National Park's backcountry are the blazes left by individuals who used the backcountry in a variety of ways. Styles range from the vertical lens of sheepherders Q to the uppercase T of the military to the more recent U.S. Forest Service I . "Some wags stoutly maintained that the 'T' was used as [the] symbol so that the Irishmen in the army would know that it was a tree!" Although the early sheepherder blazes marked trails and grazing areas, some figures and designs appear to be simply efforts to pass the time. The army used the T mark between 1890 and 1914, possibly ending as early as 1906, to aid backcountry patrols, especially after snowfalls. After that time Gabriel Sovulewski, in charge of trail work, used a diamond-shaped blaze, which was used into the 1930s until he retired.

投稿者 toshi : 00:00

2005年07月27日

ヨセミテ観光150周年

7月27日は、ヨセミテに初めての観光客がやってきた150周年にあたります。
James Mason Hutchingsはヨセミテでの最初の観光業者ですが、1855年、彼に引率されたグループがヨセミテを訪問しました。その中にはアーティストのThomas Ayresが含まれており、 Ayresの描いたヨセミテのスケッチはHutchingsの文章とともに世界中に紹介され、ヨセミテ観光の時代に幕が開いたというわけです。
(NPSのDaily Reportより)

Ayresのスケッチはこちらのページ"A trip to the yohamite valley"に載っています。

150TH Anniversary of Tourism, July 27th

July 27, 2005 markes the 150th anniversary of the arrival of the first documented tourist party to Yosemite Valley. Led by James Mason Hutchings, the group included Walter Millard, Alexander Stair, and artist Thomas Ayres. Although people have inhabited the area for some 8,000 years, it was the Hutchings Party that left the first known published images and descriptions of Yosemite.

While the others explored, Ayres sketched.  His several drawings were reproduced as etchings and other works of art, often embellished and exaggerated in scale.  Along with Hutchings' written descriptions, these illustrations circulated around the world, in effect  beginning the era of Yosemite tourism.

When he returned to Mariposa, Hutchings had his account of the trip published in the Mariposa Gazette on August 9, 1855. The only known copy of this article, pasted into Hutchings' own scrapbook, was obtained for the Yosemite Museum collection using a grant from the Yosemite Fund in 1999.

Yosemite musician/historian Tom Bopp has written an article about the Hutchings visit to appear in the next edition of the Yosemite Association journal.  Bopp's 10-minute DVD documentary on the same subject is being shown at selected evening programs in the valley.

On July 27th, Tom Bopp's short documentary will air in the Yosemite Valley Visitor Center from 9am to 7pm.  Stop by and view this 10 minute piece!

The long version of the article that Tom Bopp wrote on Hutchings in Yosemite, complete with primary sources, is online at yosemitemusic.com. (J. Miller - 7/25/05)

投稿者 nishimura : 23:58

2005年01月31日

「ヨセミテ」の語源

1851年、マリポサ大隊のBunnellによって命名[1]された「ヨセミテ渓谷」ですが、Daniel E. Anserson氏が「ヨセミテ」の語源について、簡潔な紹介記事を書いています[2]。 それによると 「ヨセミテ」はミウォーク(Miwok)族により、ヨセミテ渓谷に住むインディアンを指して使われていた言葉とのことです。その意味は”those who kill”(註:日本語では「殺し屋たち」という意味でしょうか)。「ヨセミテ」の”yos”は「to kill」、”e”は「one who」、そして複数形をさす”meti”の三つの部分に分解されるようです(註:細かい事ですが、”Yosemite”ではなく”Yosemeti”を使い、それを3つに分解しています)。ヨセミテ渓谷を取り囲むインデアンの部族は、彼らを恐れ、そう呼んでいたようです。テナヤを酋長とするヨセミテ族はシエラの東側のモノ・パイユート族を含むいくつかの部族から成り立っていました。パイユートは伝統的に平和的なミウォーク族の敵でした。 さて、ヨセミテ族はヨセミテ渓谷を”Awooni”(アワ二ー)と呼んでおり、それは gaping mouth (註:gapping は「裂ける」、「ぎざぎざになる」)を意味しています。また、そこに住む自分たちを”Ah-wah-ne-chee”(アワニーの住人)と呼んでいました。もともとは渓谷内の最大の村(ヨセミテ滝の南東にあった)を指していましたが、後に渓谷全体を指すようになりました。マリポサ大隊の指揮官Savageは、酋長テナヤが説明しようとしたアワニーの意味を取り違えたとBunnellは述べています[3]。Bunnell自身はヨセミテを”Grizzly Bear”の意味だと書いてていますが、これもまたSavageによる間違いだったようで、”isimati”というMiwokの「熊」を"yosemite"と聞き違えたようです[4,5]。

参考:

[1] Lafayette H. Bunnell, ”Discovery of the Yosemite” (1892)

[2] Daniel E. Anderson, "Origin of the Word Yosemite"(December 2004)
Anderson氏は、 「ヨセミテ」の意味及び「ヨセミテ」を「熊」と間違えた理由の説明として、UC Berkeleyの言語学教授Beelerの文献を引用しています。氏のThe Yosemite webには膨大な量のヨセミテに関する古典本や文献が集められています。各資料への「ヨセミテ国立公園大好き!」からのリンクを快諾していただきました。ここで改めて感謝の意を表したいと思います。

[3] ”Discovery of the Yosemite”[1]より
「When asked, Chief Tenaya, tried to explain the meaning of “Ahwahnee:” by using sign language. Tenaya “by the motion of his hands, indicated depth, while trying to illustrate the name, at the same time plucking grass which he held up before me.” Major Savage mistakingly interpreted Ahwahnee to mean “deep grassy valley,” when Tenaya was trying to sign “gaping mouth.” 」 Savageは”deep grassy valley”と訳した。

[4] 同じく”Discovery of the Yosemite”[1]より
「At the time I proposed this name, the signification of it (a grizzly bear) was not generally known to our battalion, although "the grizzlies" was frequently used to designate this tribe. Neither was it pronounced with uniformity. For a correct pronunciation, Major Savage was our best authority. He could speak the dialects of most of the mountain tribes in this part of California, but he confessed that he could not readily understand Ten-ie-ya, or the Indian guide, as they appeared to speak a Pai-ute jargon.」 明らかにBunnellはSavegeの通訳により、ヨセミテを「Grizzly」意味と解釈している。

[5]Beelerの文献([2]の記事の最後に掲載)より。
…The name of Yosemite has been connected with the Sierra Miwok word for ‘(grizzly-)bear’ and with a collective noun meaning ‘the killers’ or ‘a band of killers.’ In Mrs.[Lucy Shepard] Freeland’s “Language of the Sierra Miwok” ‘bear’ appears as i¨?i¨'・mati (p. 3) and yo?e´-・met^i is defined as ‘the Killers’ (p. 159).…

投稿者 toshi : 04:19

2005年01月21日

Half Dome初登頂:1875年

”The Yosemite Book”(1869年版)でWhitneyに登頂不可能("rising to the height of 4,737 feet above the Valley, perfectly inaccessible, being probably the only one of all the prominent points about the Yosemite which never has been, and never will be trodden by human foot.”)と言わしめたハーフドームでしたが、その初登は意外にも早くやってきました。以下はMuirの文[1,2]にもとづく初登の記録です。 
 バレーの住人John Conwayは、岩登りの得意な自分の子供たちをHalf Domeに向かわせます。鉄釘を岩の割れ目に打ち込み、それにロープを固定しつつ最後の斜面(現在のケーブルルート、斜度46度)を登らせるつもりでした。子供たちは300フィートの高さまで達しましたがそこから先は岩にドリルで穴を開けない限り突破できないことがわかります。そこでConwayは、子供たちに撤退を命じます。その数年後(1875年)、同じバレーの住人George C. Andersonは、彼らが残したロープを辿り、最高到達地点まで達します。そこからは、5〜6フィート間隔で岩にドリルで穴を穿ち、ボルトを打ち込んでいきました。ボルトはロープの固定と足がかりとして使われます。そして数日後(10月12日)、ついに頂上に達しました。Mt. Shasta[3]の旅から帰ってきたばかりのMuirは、11月10日に第9登[4]を果たしました。面白い事に、切れおちている崖による視覚への影響のせいか、ドームの上から見る渓谷の眺めは、そこより低い場所に比べて劣ると書いています。また彼らしく、頂上にある植物の事が書かれています。
 Muir本人としてはHalf Domeが手付かずの状態であってほしかったようですが(”For my part I should prefer leaving it in pure wilderness…”)、1919年にシエラクラブによって600フィートのジグザグの階段状トレイルが前衛のドームに、最後の部分には800フィートの長さの2本のケーブルが恒久的に建設されることになります[5]。

参考:

[1] John Muir,"The Yosemite"(1912年出版)
"The South Dome"の章にHalf Domeに登ったときのことが書いてある。South Dome はHalf Domeの別名。

[2] Francis P. Farquhar,"History of the Sierra Nevada", University of California Press
Farquharは、Muirが”San Francisco Evening Bulletin”に投稿した記事(1875年11月18日)を引用して、Half Dome登頂にまつわる話を書いている。Muirの投稿記事はオンラインでは見つからず。Farquharの本はAmazonより購入可。

[3] MuirはMt. Shastaから戻ってきた後の11月10日(Andersonの登頂から1〜2ヶ月後)に登ったと書いている。しかしBade[6]の5月4日付の手紙によれば、Shastaに行ったのは4月、また1875年11月2日には、妹にYosemite Valleyから手紙を出しており、”前夜、2ヶ月半のSierra Nevada Forestの旅から帰ってきた”と書いている。Wolfe[7]の本には10月20日付の日記があり、Tule(南シエラ)のMiddle Forkにてと書かれている。 

[4] Shirley Sargent,"John Muir in Yosemite",Flying Spur Press
Muirは9人目、Galen Clarkは6人目の登頂者と書いている。出展は不明。また1919年のケーブル設営の裏話も書いている。それによると、Muirの友人だったM. Hall McAllisterが5,000ドルを寄付し、シエラクラブが工事をしたとのこと。

[5] Linda Wedel Greene,"Historic Resource Study: Yosemite", U.S Dept. of the Interior

[6]William Frederic Bade,"The Life and Letters of John Muir"(1924)

[7] Linnie Marsh Wolfe,”John of the Mountains : Unpublished Journals of John Muir”(1938)
Badeの本はMuirの手紙を集めた本だが、これはMuirの日記を集めた本。解説等はほとんどない。Amazonより購入可。註:Wolfeによる別の本に”Son of the Wilderness”がある。これはMuirの手紙などがかなり切り刻まれ、その間をWolfeの文が繋いでいくという形で書かれており、読み物としては楽しいが、資料として取り扱うときにはかなり使いづらい。Pulitzer賞受賞の本。

投稿者 toshi : 14:48

2004年01月06日

アメリカの国立公園事情

text by 西村仁志

■アメリカの国立公園
 アメリカは世界で最初に国立公園制度をつくった国である。1872年のイエローストーン国立公園創設から8年前にさかのぼる1864にはリンカーン大統領の署名によりヨセミテがカリフォルニアの州立公園に指定されている。日本はまだ幕末の頃であり、またアメリカもまだ南北戦争の最中であった。そんな時代にすでにこの国の政府関係者が自然の保護について真剣に考えていたというのは驚くべきことだ。現在では海外領を含む全米に54の国立公園があり、アメリカ国民だけではなく世界中から多くの訪問客を迎えている。

■アメリカの国立公園の姿勢
 19世紀から20世紀初頭にかけ、カリフォルニアやアラスカの山野を歩き、生活し、大自然から多くのことを学びとった「アメリカ自然保護の父」ジョン・ミューアは、活動の基本的姿勢として、「自然の美しさ、すばらしさを多くの人々に知ってもらうこと。」を旨としていた。「知らない人に自然保護を訴えてもわかってもらえない。」と。ミューアは当時放置されていた森林の伐採、家畜の無制限な放牧などの危機的状況を新聞を通じて世に訴える一方で、多くの人たちを大自然の中へと誘い、自らが自然ガイドとなって自然の大切さを、「体験を通じて」知らしめたのである。アメリカの国立公園の運営方針の原点はこの「体験を通じて」にある。「立ち入り禁止」として遠ざけるのではなく、むしろ積極的にふれあって実体験してもらい、その大切さを実感し、自然保護と国立公園局(ナショナル・パーク・サービス)の良き理解者を育てることが国立公園における普及、啓発活動の役割である。つまり利用者の「自然とのふれあい活動」に政府として積極的に関与していく方針がみられるのである。
 日米の国立公園の違い日米の国立公園で大きく異なるのは、アメリカの国立公園はすべて連邦政府の所有する国有財産であるということである。「えっ、では日本はそうではないのか?」と思われる方も多いだろう。日本の国立公園・国定公園は法律に基づいた地域指定であり、この中には国有林や公有地、民有地などが多くの面積を占めている。つまり土地利用の規制をかけているだけにすぎないのである。アメリカでは連邦政府直轄地であるから、国立公園内では州政府の権限も及ばない。国立公園局が自然、動植物、文化財等の保護と利用のほか、警察・消防などの公共サービス、園内施設の経営管理などさまざまな責任を担っている。
 またほとんどの国立公園が有料であるという点も日本とは異なっており、ゲートでレンジャーに入園料を支払うしくみになっている。これらの収入は国立公園の維持管理に充てられるのだ。さらに、両国の国立公園にかける国家予算(日:36億円、米:1900億円)公園管理を担当する公務員の数(日:110人、米:9,500人)などを比べてみても、アメリカの国立公園の充実ぶりには脱帽せざるを得ない。(いずれも平成3年資料)

■日本からアメリカの国立公園への行き方
 全米54の国立公園のほとんどは都会からほど遠い大自然のなかにあるため、日本からのアプローチ事情は良くない。一般的な観光ルートからも外れるので、個人自由旅行として行くことになる。そして空港から公園までのアクセスはもちろん、広大な国立公園内をめぐる足としても「レンタカー」が必須となるだろう。例外はハワイにあるハワイ火山国立公園(ハワイ島)とハレアカラ国立公園(マウイ島)、そして西海岸からのアクセスの良いヨセミテ国立公園(カリフォルニア州)とグランドキャニオン国立公園(アリゾナ州)であろう。これらは多くのパッケージツアーや現地オプショナルツアーのコースに含まれており、日本からも手軽に行くことができる。

■アメリカの国立公園の楽しみ方〜ヨセミテ国立公園を例に
 ヨセミテ国立公園は、アメリカ・カリフォルニア州シェラネバダ山脈内にある。サンフランシスコから自動車で約4〜5時間と比較的足の便がよく、日本からも多くの観光客が訪れている。3,029平方キロ(東京都の約1.5倍)もの広大な面積のなかに「エルキャピタン」、「ハーフドーム」などの有名な巨岩群、落差700mを超える「ヨセミテ滝」など壮大な風景のヨセミテ渓谷、世界一の大きさと寿命をもつジャイアントセコイアの森、そして高原地帯、山岳地帯など多様な環境がある。

 ヨセミテ国立公園には国内外から年間400万人ものビジターが訪れている。興味や体力や日程、予算に応じて多様な楽しみ方ができるのもヨセミテの魅力だ。

1.ホテル滞在型
公園内には4つのホテル、ロッジが通年営業している。ここにはレストランもあり、ホテルタイプの部屋でゆっくりと滞在しながら自然を満喫することができる。多くのVIPも泊まったという「アワニーホテル」ではジャケットやドレス姿で豪華なディナーを楽しむことさえ可能だ。これらホテルは366日前からの予約となっているが夏のいい時期にホテルの予約をとるのはなかなか困難である。

2.キャンプ型
家族や仲間たちと安価に長く滞在したいのならキャンプだろう。公園内にはクルマでアプローチできるところに多くのキャンプ場がある。各サイトごとにテーブル、クマ除けの食料ボックス、焚き火用の炉があり、トイレや水場も完備している。また公園内には食料やアウトドアグッズのショップもあるため、ヨセミテに「手ぶら」で来てもキャンプ用品一式をすべて買いそろえることが可能だ。これらキャンプ場も4ヶ月前からの受付だが、夏場に人気のあるキャンプ場は予約がすぐに埋まってしまう。

3.バックパッキング型
バックパックを担いで、公園内の広大なウィルダネスエリア(原生自然エリア)を楽しむのもヨセミテの醍醐味のひとつだ。ヨセミテでは各ルートあたりの1日の入山者数が決められていて、あらかじめ許可を申請して入山する。山中でのキャンプのルールも細かく定められていて、とくに野生のクマには慎重な対策が必要だ。
 またヨセミテ国立公園では、ガイド付きのバスツアー、乗馬によるツアー、レンタサイクル、ラフティング、クライミング教室(ヨセミテはフリークライミングのメッカでもある)など充実した活動メニューがある。しかしいちばんのおすすめはデイパックを背負って、まる1日かけて自分の足で国立公園を歩いてみることだ。スケッチブックに色鉛筆などを持っていけば「にわかアーティスト」に変身することもできる。時間をかけて自分の足でじっくりと歩き、感性を開いて自然と触れ合うことが、お金をかけない最高の贅沢なのだ。旅慣れている欧米の人たちがどのように過ごしているか、よく見てみればいい。彼らはお金を使わずに旅先で楽しむ方法をよく知っている。

■レンジャープログラムに参加しよう
 もうひとつのおすすめはレンジャープログラムに参加することだ。ヨセミテに限らず、ほとんどのアメリカの国立公園ではパークレンジャーによる無料の解説プログラムが行われている。無料とはいっても、彼らは国家公務員/プロの解説者であるから、その内容は興味深く、たいへん質の高いものである。

 レンジャープログラムに参加するには申し込みも、予備知識もなにも必要なく、スケジュール通りに集合場所にいくだけでいい。(一部には有料のもの、事前申し込みが必要なものもある。また「弁当持参」「暖かい服装で」と明記されているプログラムもあるので、ビジターセンターや情報紙で必ず確認必要。)1〜2時間程度のウォーク&トーク、日帰りハイキング、スライド&トーク、キャンプファイヤー&トーク、歌など形態もさまざま。またテーマも、動物、植物、地学、天体、歴史、先住民の文化、詩や音楽などさまざまである。これらはすべて英語なのだが、「英語は苦手でさっぱりわからない」という方も億劫がらずに一種のエンターテイメントと思って参加してみるといいだろう。

■インターネットでの情報収集
最近ではインターネットの発達で、日本に居ながらにしてアメリカの国立公園に関する情報を入手することができる。さらには国立公園を訪れるための旅の情報ページも数多くある。参考までに入口となるURLを示しておく。

国立公園局「Park Net」全米の国立公園についての公式ホームページ http://www.nps.gov
「ヨセミテ国立公園大好き!」筆者が開設しているホームページ。リンク集も参考になる。http://www.yosemite.jp



この文章は三栄書房「ナショナル・パーク・ホリデー〜野遊び山遊び大作戦」2000.11.21発行に掲載されたものです。

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投稿者 nishimura : 13:18