人物 アーカイブ

2012年08月07日

2002年: Warren HardingとGalen Rowell

ちょうど10年前、ヨセミテに深く係わりのあったWarren Harding(6/18/1924~2/27/2002)とGalen Rowell(8/23/1940~8/11/2002)が亡くなりました。 El Capitan NoseやMt. Conness南西壁ルートの初登などで有名なHardingは2月に77歳で天寿を全う、Rowellは8月に、Bishopの空港で小型飛行機の着陸時の事故で妻のBarbaraと共に亡くなりました。写真家としての肩書きで知られるRowellですが、若いときは難しいクライミングをこなし、二人は共にザイルパーティーを組んだ親しい仲でした。写真(2006年4月)は使いまわしになりますが、二人が1968年の11月にHalf Dome南壁登攀時に雪嵐につかまり、Royal Robbinsらに救助されたときのものです。スライドを紹介しているのはRobbins本人(2006年4月の講演)。


Royal RobbinsはヘリでHalf Domeの頂上に到着。


頂上かおろされた800ft.のロープを上りきったHardingと


Rowell。

投稿者 toshi : 13:08

2009年11月27日

シェルトン・ジョンソン氏が「National Freeman Tilden Award」を受賞

National Association for Interpretation(NAI;インタープリテーション協会)が優秀なインタープリターに授与する賞「National Freeman Tilden Award」をヨセミテ国立公園レンジャーのShelton Johnsonが受賞しました。
詳細WEBサイト↓
http://www.nps.gov/yose/parknews/shelton-tilden.htm

ジョンソン氏はNPS(国立公園局)には数少ないアフリカ系のレンジャーです。
未だ、国立公園の管理システムが未整備だった(NPSが未だ存在しない)1903年に、ヨセミテ国立公園の警備、整備に派遣された「Buffalo Soldiers」という、陸軍黒人部隊の歴史に光をあてて、新プログラムを開発しました。いまやヨセミテでは名物プログラム+名物レンジャーになっています。

この秋にアメリカPBSが制作した12時間の長編テレビ番組「THE NATIONAL PARKS America's Best Idea」にも各エピソードにジョンソン氏が登場して、現場で活動するレンジャーとしての発言をしています。
http://www.pbs.org/nationalparks/

なお「Buffalo Soldiers」はこの番組の未放映エピソードとして、WEBからも閲覧することができます。(ジョンソン氏のインタープリテーションの様子が見られます。)
http://www.pbs.org/nationalparks/watch-video/#858

投稿者 nishimura : 10:24

2007年05月05日

YAの新CEO

YOSEMITE ASSOCIATIONのCEOは、昨年交通事故でSteven P. Medley氏が亡くなられて不在となっていましたが、後任には現在Northern California Water AssociationのExecutive DirectorであるDavid J. Guy氏の就任が決まったようです。

追記(2007.5.7)
関連して、San Francisco Chronicle紙では「Yosemite park group replaces beloved leader」という記事が掲載されています。

YOSEMITE ASSOCIATION APPOINTS NEW CHIEF EXECUTIVE OFFICER
David J. Guy to fill leadership post of award winning non-profit supporting Yosemite National Park since 1923

YOSEMITE NATIONAL PARK, May 3, 2007 -- David J. Guy has been named Chief Executive Officer of Yosemite Association (YA), the 84-year old non-profit organization supporting and promoting education, research and environmental programs in Yosemite National Park. The association’s 16-member board of trustees unanimously selected Guy for the position.

An avid parks supporter, David Guy and his family have visited more than 100 units in the national park system over the past decade. That enthusiasm will shape his work as head of Yosemite Association, where his duties include strategic planning, building partnerships, marketing, product development and fundraising. Guy will work to increase the membership base and continue relationship building with Yosemite supporters and park visitors. He will supervise a permanent staff of 16, plus 25-35 summer seasonal employees.

David Guy replaces former Yosemite Association President Steven Medley, who led the organization for 21 years before passing away in an October 2006 solo automobile accident. Yosemite Association Board Chair Christy Holloway says Guy is a “dynamic, entrepreneurial leader” who will honor and build upon Medley’s legacy as he carries out the YA mission.

“David’s skills, experience and vision for Yosemite Association give us confidence that he will lead the organization successfully in this time of great change and opportunity,” says Holloway. “He is an accomplished leader who, in the past, has elevated organizational profiles, grown membership numbers and expanded services and influence in challenging political environments.”

Guy comes to YA from the Northern California Water Association, where he was Executive Director for eight years. In this position, he forged strategic partnerships with federal and state agencies, led and developed an integrated regional water management plan for the Sacramento Valley, oversaw communications and educational outreach, and directed administrative improvements throughout the organization. Governors Schwarzenegger, Davis and Wilson each appointed Guy to water and agricultural task forces, and he is an author and frequent lecturer on issues related to water, resource management and land use. For the previous nine years, Guy was a water and environmental attorney in Sacramento.

Established in 1923, the Yosemite Association was the nation’s first cooperating association in our national parks and serves as a benchmark for similar organizations nationwide. In collaboration with the National Park Service and authorized by Congress, YA supports interpretive, educational, research, scientific and environmental programs in Yosemite National Park through publishing, retail sales, seminars, visitor services, volunteer programs and other outreach. Each year the popular Yosemite Association Outdoor Adventures courses offer a wide variety of in-depth classes and outdoor experiences from Yosemite’s natural and human history to backpacking, photography and writing.

“We are very excited to be working with David Guy in his new capacity as CEO of the Yosemite Association,” stated Yosemite National Park Superintendent Mike Tollefson. “The Yosemite Association provides services and financial support that promote Park stewardship and enrich the visitor experience. We are proud to have them as one of our primary park partners.”

In the past decade, YA has donated over $4 million in programs, services and direct financial support to Yosemite. Examples of YA’s recent contributions to the park include: protecting Yosemite’s bears through the purchase of bearproof food canisters rented to backpackers for only $5 per trip; providing more than 10,000 hours of volunteer labor for visitor information services and habitat restoration; operating the wilderness information center and wilderness permit reservation system; publishing award-winning books such as the Illustrated Flora of Yosemite National Park and Two Bear Cubs; and reintroduction and expansion of the YA student intern program with UC Merced.

David Guy, his wife and three children will be relocating to the Yosemite area. He will formally take office at the Association’s headquarters in El Portal on June 25. (c. Boire - 5/03/07)

投稿者 nishimura : 11:23

2007年04月11日

nanae@sierra

このたび、「ヨセミテ国立公園大好き!」の執筆者グループに参加させていただくことになったnanae@sierra(NANAE)です。
2004年にアメリカ人の夫と結婚し、神奈川県横浜市から、オットの生まれ育ったハイシエラの小さな町Lee Viningへ移住しました。Lee Viningはヨセミテ東側ゲートのあるタイオガ・パスの麓。人口わずか400人の小さな町です。ここからはヨセミテまで車で30分とアクセスもよく、夏はヨセミテへ訪れる沢山の観光客の宿泊地として賑わいます。ちなみに私はリーバイニングで唯一の日本人です。
アメリカへくるキッカケはスノーボードでした。今もその年の最初の雪の一片を待ち構え、山が白く染まればハイシエラのバックカントリーを徘徊しています。まだ冬季通行止めのタイオガパスへ上り、東側からヨセミテを眺めることもしばしば。。。知れば知るほど、この土地の素晴らしさに感動する毎日です。
夏も友達に誘われてクライミングを始め、恥ずかしいくらい初心者丸出しですが、夏はそれでも果敢にトゥオルミへ足を運んだりもしています。暑い夏の午後、テナヤレイクに勢い良く飛び込んでいるひょろながい日本人を見かけたら・・・それは私かもしれません。

ハイシエラでの毎日で見えるさまざまなことを、皆さんにお届けできればと思います。

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投稿者 nanaes : 18:34 | コメント (1)

2007年04月06日

訃報:N. King Huber博士

サンフランシスコ・クロニコル紙が、ヨセミテの地質についてのエキスパートであったN. King Huber博士の訃報、および追悼礼拝についての記事を掲載しています。

http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2007/04/06/BAG98P3VO11.DTL&hw=Yosemite&sn=001&sc=1000

2007年01月21日

自己紹介です

みなさん,はじめまして。
ヤストと申します。
東京在住の34才,小学校の先生をしております。(2007年1月現在)
これまで,
1994. 9.13-15 Yosemite Valley周辺
1999. 8.11-17 Yosemite Valley周辺
2000. 8. 6-16 Yosemite Valley及びTuolumne Meadows周辺
2004. 8. 7-23 John Muir Trail Section Hiking from Yosemite to Reds Meadow
2005. 8. 6-16 John Muir Trail Section Hiking from Reds Meadow to Bishop Pass
2005.12.24-28 Yosemite Valley周辺
2006. 3.25-30 Yosemite Valley周辺
2006. 8.10-25 John Muir Trail Section Hiking from Bishop Pass to Mt.Whitney
と,Yosemite及びJohn Muir Trailに行っています。
詳しくはHP(http://www.geocities.jp/yasuto1972/)をご覧ください。
ちなみにこちらのホームページの管理者西村さんとTuolumne Meadowsで偶然2回(2004夏,2006夏 )ほど会いまして,それをご縁に執筆者の仲間入りをさせていただきました。
YosemiteそしてJohn Muir Trail大好き人間の1人として,これまでの経験が発信できれば幸いです。

投稿者 yasuto : 18:16 | コメント (1)

2006年04月15日

東良三の描いたJohn Muir

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本のタイトルは「自然保護の父ジョンミュア: The Life of John Muir」で、昭和47年に山と渓谷社から出版されました。東は1970年に国立公園協会主催のカナダ・アメリカ国立公園視察団に参加、その道中、理事長の「千家哲鷹」氏にミュア伝の執筆を勧められたのが著作のきっかけになったと書いています。『およそ自然を愛し、山に憧れ、国立公園の秀麗な風光に思いを馳せ、自然保護に心を傾ける人ならば、ジョン・ミュア(John Muir 1838-1914)の名と、その偉業のあらましを知っておかねばなりません。』という出だしで本は書き始められています。内容は年代順に書かれており、青春時代のミュア、未開のカリフォルニアへ、秘境ヨセミテの探査、原始自然の中で、アラスカ氷河探検、未知の大自然を求めて、自然保護の第一人者、世界諸国への旅、大自然人の終焉と9章構成になっています。また巻末にはミュアウッズ国家記念物、氷河湾国家記念物、国立ジョン・ミュア史跡地、ミュアの著書と参考資料、ジョン・ミュア略年譜が付いています。
「自然保護」がタイトルに入っていますが、意外にもMuirの自然保護運動については、あまり書かれていませんでした。東本人は、『本書は、七十六年の全生涯を自然探求に捧げ、極度の清貧簡素の生活をつづけながらも、前世紀のアメリカの未開時代に、早くも次々に前人未到の原始境を踏破し、その崇高な美の世界を私たち後人に伝えた、世にも稀な非凡の自然人、ジョンミュアの数奇な探検一代記である』と本を位置づけています。このタイトルと内容のミスマッチは、原稿のタイトルが『自然界の聖者 ジョンミュアの生涯』であったことから、出版時に変えられたものと思われます。Muirのことのみならず、ヨセミテ、セコイア、キングス・キャニオン国立公園の情報、カリフォルニアの探査歴史、当時の日本政府要人らのカリフォルニア訪問などが面白く取り混ぜられています。さてMuir本人に関する記述ですが、大まかには正しいものの、かなりの誤記、勘違いも見受けられました(例えばヨセミテに関しては:1869年夏の記述、Muirの氷河説が認められたこと、Hetch Hetchy渓谷を高原と記述、Mt. Whitney初登頂、ダム問題に関してのルーズベルト大統領の立場、ヨセミテ国立公園の境界の変遷の経緯、公園へ自動車を乗り入れることへの意見など)。内容と巻末の文献リストから判断して、Badeの”The Life and Letters of John Muir”(1923)、”Letters to a Friend”(1915)、Muirの主要著作に頼って書かれているように見受けられました。Wolfeの本は読んでいないようです。細かいところはさておき、私個人としては、Muir邸を訪ねた唯一の日本人(たぶん)の東が、どうMuirを捉えようとしたかに興味を覚え、楽みながら読むことが出来ました。本書は『どうか、この書が、国土を愛し、その自然に親しみ、わが国立公園と国定公園に包含されているといなとを問わず、あらゆる日本の秀麗な景観の永久保存に心を寄せるすべての人々に、善意にもとづくなんらかの示唆をあたえることができますように…。』と結ばれています。

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原稿最初のページ。『野の聖者』というのは凄い命名です。本では序章に当たりますが、この副題は除外されています。

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原稿では、英文の引用がかなりあります。残念ながら出版の段階で除外されたようです。また原稿と本との間で、年代や名称の違いが見受けられました。活字を組む際に間違いがあったと思われます。

[訂正]
西村さんから間違いの指摘をいただきました。
「(おそらく)Muirに会った唯一の日本人」ではなく「(おそらく)Muir邸を訪ねた唯一の日本人」でした。
Muirは世界旅行の際、日本を訪れています(1904年)。東はときのことを調べ、「Harper's weekly」(1905年)に掲載されたことを突き止めたと書いています(Kimesの本を調べましたが、そのような出版記録はありません)。また、横浜には「スワイン」夫妻という文通相手がいたとのこと。Muirが出した手紙(の訳)が掲載されており、「日本に言ってみたい」とのことが書かれています。Wolfeの本の300ページには、5月に長崎と横浜に立ち寄ったこと、昔Muirの抱いていた日本人移民へのイメージ(娘のHelenの回顧)が書かれています。

投稿者 toshi : 01:13 | コメント (1)

2006年04月12日

東良三の著書

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toshiさんによって、東良三とミューアについての情報収集がされていますが、本日D大学の蔵書から東の著書を借りてきました。いずれも昭和20年代前半の出版物で、紙質、印刷の質も良くないですが、興味深いものです。

「アメリカ国立公園考」、「四十八州アメリカ風土誌」、「アメリカ大陸の探検時代(上・下)」の4冊です。
「四十八州アメリカ風土誌」「アメリカ大陸の探検時代(上・下)」ではミューアについての記述は見つかりませんでした。
「アメリカ国立公園考」にはミューアについての記述がたくさん出てきました。とりあえず列挙しておきます。詳しくはtoshiさんが本書入手のあと、書いてくださるのではと思います。

「アメリカ開拓史と国立公園」p.39- ジョン・ミューアの功績についての記述
「野外教室としての国立公園」p.49- 自然案内人としてのジョン・ミューア
「国家記念物の話」p.113- 「ミューア・ウッズ」命名にまつわる経緯の話
「マウント・レーニア」p.143- レーニア山「キャンプ・ミューア」命名の由来
「ヨセミテ」p.165- ミューアのヨセミテ渓谷氷河形成説、マリポサ巨木について、ミューアとルーズベルト大統領
「キングス・キャニョン」p.188 老樹林の救主ジョン・ミューア、国立公園編入(拡大)キャンペーン、ミューア・トレイル
「セコイア」p.197
「グランド・チートン」p.250 エノス・ミルスとジョン・ミューアの偶然の出会い

2006年04月05日

東良三(あずま りょうぞう)とMuir

西村さんから、「東良三」の書いた”アラスカ:最後のフロンティア”(山と渓谷社)のあとがきの部分を送っていただきました。それによると、1910年(明治43年)、東は、ワシントン州Tacoma付近のミッション系大学Puget Sound Collegeに入学しました。やがて、Mt. Rainierに登るチャンスが来、その途中、キャンプMuirという場所(洞穴)で一夜を過ごすことになりました。東はそのとき初めてMuirの存在を知り、これをきっかけにMuirの著書を買い集め、読み始めます。やがて東はMuirにMartinezを尋ねたい旨を書き送ると、快諾の返信が届きました。

「そして私は、1914年、卒業前の夏期休暇にタコマから遠くサンフランシスコまで一日半の汽車の旅をつづけ、さらに金門湾から75キロも北方のマルティネッという農村まで馬車にゆられて、あたかも最後の著となった『アラスカ氷河探検記』の執筆に余念のなかった老先輩ミュアを、果樹園にかこまれた広大な私邸に訪ねたのでした。私はときに二十五歳のとるにたらぬ一苦学生。五十も年長の偉人との出会いは、とても釣りあいのとれぬ妙なコントラストだったといえましょう。しかし、遠路を訪ねてきた日本人ということで、こころよく迎え入れてくださった老師の純白の長いひげを見たとき、あたかもいにしえの聖人のような気高さを感じました。そしてしっかと私の小さな手を握ってくださった掌の暖かさ。私は思わず師の脚下にひざまづいて、うやうやしく頭をさげました。私のミュア邸逗留は二日一晩にすぎませんでしたが、この高名な大自然人の知遇を得たことは、その後の私の生涯に、直接間接に大きな影響をあたえずにおきませんでした。」(265ページより)

西村さんの資料をEber氏に送ると、こんどは氏の方から、Sierra Club Bulletinの写しが送られてきました。ほんの一部だけですが、それによると:
1973年、Kimes夫妻が、Muir関連の資料を調べていたとき、Mr. IshigakiがMuir家に本の翻訳の許可を申し出ていたことがわかります。その追伸から、1942年に”Travels in Alaska”の翻訳がなされていたことがわかります。その本を探すため、Muirの伝記を書いた東に問い合わせると、”Travels in Alaska”は、東から(間接的に)本を借りた戸伏により翻訳されたことがわかりました。東はやがて米国を訪れ、Kimesらと会います。それ以降の幾度かのインタビューに基づき、このSCBの記事が書かれました。Muirとの出会いについては、SCBの方がやや詳しく書かれています。Oaklandに着いたときに、Sierra Clubのメンバーが馬車で迎えに来て、6時間かけてMartinezに着きました。Muirの脚下にひざまづいたときには、涙したようです。また”Travels in Alaska”を執筆中の2階の勉強部屋へも案内してもらいます。そこにはヨセミテ渓谷の大きな絵[註:多分Keithの絵]と、Emersonのポートレイトが掛かっていたこと、また机の上には大きな聖書が載っていたそうです。また”Cruise of the Corwin”以来のMuirの友人である船長のHooperが夕食時にMuir邸を訪れ、たまたま船員(キャビンボーイ)を探している話になり、Muirが”Take Ryozo! He should see Alaska”と言いました[註:それがアラスカ旅行(1915年−1918年)のきっかけとなりました]。1977年に東は、自然保護やMuirの伝記「自然保護の父ジョン・ミュア」の功績を認められ、Sierra Clubの生涯名誉会員となりました。東は、アメリカ大陸(西部)で140峰以上を登り、アラスカへも9度訪問しました。

Kimesの本より:
東は、”Stickeen”を訳して雑誌に投稿したそうです。しかし、本人ですらその雑誌を、所有していなかったそうです。また”Travels in Alaskaは、東京大学のIto教授に貸され、それから戸伏の手に渡り訳されたそうです。東によると、訳の出来はかなりすばらしかったとのこと(1942年出版、3,000部刷)。

Ronald Eber氏はかなり真剣に資料を探しています。新聞・雑誌記事など(特に日本の国立公園設立に関するあたり)、どのような物でも結構です、見かけられましたらご一報ください。

東の主要著書:
北米大陸の探検時代(上・下)
四十八州アメリカ風土誌
アラスカの背前途人と資源
アメリカ国立公園考
カナダの山岳と国立公園
カナダという国
ローマへの道、聖地巡礼の旅
自然保護の父ジョン・ミュア
その他十数冊

投稿者 toshi : 14:01 | コメント (2)

2005年04月29日

ボランティア・レンジャー

toshiさんがStanislaus National Forest(ヨセミテ国立公園に隣接する国有林)のボランティア・レンジャーになられました。トレーニングの様子をご自身のサイト「加州吉野屋」にアップされておられます。

投稿者 nishimura : 10:30

2004年12月06日

Captain Walker

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Yosemite Valley(の一部)を最初に発見したのは、1833年10月に
シエラネバダ(ヨセミテ)を横断したWalker隊です(原住民を除きます)。
隊長のWalker大尉の墓は、彼が晩年を過ごしたベイエリアの小さな町
(Martinez)にあります。 墓石に書いてあるYosemite Valley発見の日付
「Nov 13 1833」は間違っているというのが通説です。 
以前(June 28, 2004)に書きましたが、その記録は「Narrative of the adventures of
Zenas Leonard」という本にまとめられています。 この本、出版時(1839)は75セントの
価格だったそうですが、今日オークションでは、4万ドル-8万ドルの値段がつくようです。

投稿者 toshi : 08:29

2004年09月27日

アンセル・アダムス

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アンセル・アダムス(1902-1984)
1902年、サンフランシスコに生まれる。1916年、14歳のときに初めてヨセミテを訪問。以後、この「光の山脈」に魅せられて写真家の道を歩むようになる。1920年夏、ヨセミテ渓谷内にある、ジョンミューアが設立した環境保護団体「シエラ・クラブ」のルコンテ・メモリアル・ロッジの管理人になり、毎年夏にヨセミテを訪れるようになる。
1930年代からはプロの写真家としての評価を得て活躍するようになり、ヨセミテをはじめ、アメリカ各地の国立公園を巡って精力的に撮影を行って、雄大な自然、自然の尊厳や奥深さをモノクロームの深い味わいのある写真によって描写し、表現しつづけた。
半世紀以上にわたってシエラクラブの主力メンバーとして活動し、ときの大統領をはじめ、政府関係者、国立公園関係者に数多くの手紙を送って、自然保護政策に影響力をもちつづけた。
ヨセミテ・ヴィレッジにある"Ansel Adams Gallery"は、彼が長年に渡って使用したスタジオである。
また彼の功績をたたえて、ヨセミテ国立公園の東端にある11,760ftのピークはMt.Ansel Adams、そこに隣接した国有林エリアは"Ansel Adams Wilderness"(アンセルアダムス野生保護区)と名付けられている。

代表作(写真集)
「Our National Parks」
「Yosemite」
「California」
「Americas Wilderness」
「Yosemite and the High Sierra」

関連WEB
Ansel Adams Gallery

投稿者 nishimura : 17:00

2004年08月27日

執筆者グループのOFFミーティング

8/21〜26のTuolumne Meadows5泊6日のヨセミテ行きも無事打ち上げた後、8月27日夜シリコンバレーSunnyvaleのブリュワリーでこのサイトの執筆者グループのOFFミーティングが行われました。小林さん、吉野toshiさんご夫妻、ヨシエさん、すやまさん、そして私にしむらの6名でした。初対面の組み合わせも多く、ヨセミテの話あれこれに花が咲きました。

東海岸まで再び北米大陸を往復して京都に帰宅しました。(サンノゼ−ボストン便では、「終電に乗った酔っ払い」状態でRed eyeフライトでした。)ともあれ、たのしいひとときをありがとうございました。セッティングしていただいた小林さんに感謝です。

投稿者 nishimura : 22:10

2004年07月17日

Glacier's Lost Art ふたたび

「ヨセミテの歩き方」の木村さんの写真総合サイト「Glacier's Lost Art」では、新しい写真を50枚追加されています。

http://glacierslostart.com/

投稿者 nishimura : 00:00

2004年07月01日

Glacier's Lost Art

「ヨセミテの歩き方」の木村さんが新しい写真総合サイト「Glacier's Lost Art」をオープンされておられます。

http://glacierslostart.com/

2004年06月13日

YAがオバタ・チウラの木版画販売

Yosemite Associationがオバタ・チウラのヨセミテの木版画の販売を始めました。

2004年04月26日

Who is Yoshie?

1988年以来アメリカ人の夫とサンマテオ在住。トゥオルムニメドウズで最初の犬がレンジャーに見つかるまでの約8年間は夏はメドウズ、それ以外をバレーで毎週末クライミングをして過ごしました。それ以降は夏から秋までビショップ(イースタンシエラ)??、冬はシエラフットヒルでクライミングとボルダリング。2000年頃から度重なる怪我のためハードなクライミングを引退し、ハイシエラを歩き始めました。コロラドロッキーの14000フィート峰を登って青春時代を過ごした夫にあおられながら、少ない機会を利用してピークバギングをしています。シエラで好きな山はハイウェイ395沿いにあるMt. Morrisonと去年登ったMiddle Palisade。好きなクライミングルートはメドウズのバックカントリーにあるMathes CrestとバレーのNabisco Wall。元気のあるうちにBlack KaweahとMt. Russellを登る野望を抱いています。あまりハードコアな性格ではなく、どちらかというとゆっくり森林や湿地帯、メドウズを愛犬と歩きながら花や鳥を観察する方が性に合っているかも。自然と犬、アメフトとバスケット観戦に情熱を燃やしています。

投稿者 yoshie : 02:56

2004年02月03日

Kleiber(クライバー)

Kleiber(クライバー)

親父はクライマーだったので、育ちは日本の山の中。アメリカで言ったら、ロッキー近郊のような所。親父とキャッチボールをした記憶はなく、山で遊んでもらった記憶しかありません。
若い頃はクライマーでした。そして、医者の強い勧めがあり、2年前からヨセミテをジム代わりに歩き回っています。したがって、今はクライミングはやらないというのが原則ですが、もちろん森林地帯よりも岩が大好きです。
痩せたいと思っている方、ヨセミテを歩く事です。徹底して歩けば、5Kg10Kg簡単に落とせます。ただし、冬のリバウンドに要注意。

にしむらさんが『ヨセミテ国立公園大好き!』人間とすれば、私は『グランド・サークル大好き!』人間。こちらのペンネームはGould。アメリカを離れる時が来たら、『ヨセミテ国立公園大好き!』をコピーして、『グランド・サークル大好き!』を立ち上げようかと思ってます。今の最大の関心は、万難を排して、12月に『TheWave』に行く事。

アメリカで最も行きたいところは、もちろんマッキンレーの頂上。そして、夢はエベレスト最年長記録を塗り替える事。全盛期を超えるべく、少しずつ体調を回復させつつありますが、まだまだ長い道のり。日本の山しか知らなかった私には、世界は物凄く高いというのが、正直な実感。

すやまさん・吉野屋さんは、北カルフォルニアのサンノゼ地区にお住まいのようですが、私は南カルフォルニアのロサンゼルスに住んでおり、いくらドライブ好きでも、ヨセミテはとても遠い。したがって、ヨセミテ天然ジム通いは基本的に2週間に一度が限界です。

三人とも、データを管理するのが得意のようですが、直感だけで生きている私はデータ管理が苦手。したがって、皆様のお役にたてる機会も少なく、とても申し訳なく思っております。

さて、私にはもう一つ全く違った趣味があります。車も好きですが、車ではありません。ここまで読んでピンときた、南カルフォルニア在住の同好の方、連絡お待ちしております。

投稿者 Kleiber : 02:03

2004年01月17日

レンジャープログラムに参加しよう!




レンジャープログラム・ヨセミテ博物館前にて


このレンジャー、シェルトン・ジョンソンはヨセミテの名物レンジャーの一人。
クラリネットの演奏を交えてのリズミカルなトークに参加者はどんどん引き込まれていく。

 ぜひ一度はレンジャープログラムに参加しよう。ヨセミテに限らず、ほとんどのアメリカの国立公園ではパークレンジャーによる無料の解説(インタープリテーション)プログラムが行われている。無料とはいっても、??らは国家公務員/プロの解説者(インタープリター)であるから、その内容は興味深く、たいへん質の高いものである。
 インタープリテーション/インタープリターとは直訳すると「通訳」なのだが、この場合は英語から日本語への通訳という言語間の通訳ではなく、自然のなかのさまざまな営みの意味を人間が解釈できるように解説すること。つまり自然は人間の言葉を喋れないので、自然と人間をつなぐ「通訳」というわけだ。
 レンジャープログラムに参加するには申し込みも、予備知識もなにも必要なく、情報紙"Yosemite Guide"に掲載されているスケジュール通りに集合場所にいくだけでいい。(一部には有料のもの、事前申し込みが必要なものもある。また「弁当持参」「暖かい服装で」と明記されているプログラムもあるので、ビジターセンターや"Yosemite Guide"で必ず確認必要。)1〜2時間程度のウォーク&トーク、日帰りハイキング、スライド&トーク、キャンプファイヤー&トーク、歌など形態もさまざま。またテーマも、動物、植物、地学、天体、歴史、先住民の文化、詩や音楽などさまざまである。これらはすべて英語なのだが、「英語は苦手でさっぱりわからない」という方も億劫がらずに一種のエンターテイメントと思って参加してみるといいだろう。



マーガレット・アイズラーも私の敬愛するレンジャーの一人。
彼女は以前オーケストラに在籍していたが、ヨセミテの大自然に惹かれてレンジャーとして働いている。
彼女の名物プログラムは夏にTuolumne Meadowsで日没時に行われる「Music Walk」で、
ランバートドームに登り、落ちる夕陽を眺めながらフルートの演奏と詩の朗読を行うものだ。

投稿者 nishimura : 01:36

2004年01月02日

ジョン・ミューアの生涯

Sierra Club/Fact Sheet "John Muir"より

 ジョン・ミューアは、1838年4月2l日、スコットランドのダンバーで生まれた。農夫、発明家、牧夫、ナチュラリスト、探検家、作家、そして環境保全主義者と多彩な顔を持つ。11歳まで海岸沿いの小さな町で暮らしていたが、1849年、ミューア一家は合衆国に移民することを決意。まず、ウィスコンシン州のファウンテンレイクに、そして後に、ポートエイジ近くのヒッコリーヒルファームに移り住んだ。
 厳しい修業が人格を形成すると信じた父親のもとで、ミューア一家は明け方から日没まで働いた。農作業のあいまに、つかの間働く手を休められたときには、ミューアは弟を連れて、自然に恵まれたウィスコンシン州の森や野原を散策した。成長するにつれて、ミューアはいっそう深い愛情をこめて自然を見つめるようになっていった。
 彼はまた、発明や木工にも才能を発揮し、風変わりだが実用的な仕掛けをいくつも作りだしている。正確に時を刻む時計や、夜明け前に彼をベッドから転げ落とす愉快な目覚まし装置などである。1860年、ミューアは、彼の発明した品々を、マディソン郡で行われた州の品評会に出品し賞賛を受けた。同年、ウィスコンシン大学に入学。成績は優秀であったが、3年後、マディソン郡を去り、さまざまな仕事で日々の糧を得ながら、まだ自然が損なわれていない合衆国北部やカナダを旅した。
 1867年、ミューアはインディアナポリスにある馬車の部品を扱う店で仕事中に目を負傷し、一時的に失明した。1ヶ月後に視力は回復したが、このできごとはミューアのその後の人生を大きく変えることになった。この時ミューアは、彼が本当に見たいものは自然界そのものなのだと認識したのである。それは、ミューアの放浪の日々の始まりでもあった。インディアナポリスからメキシコ湾まで、1600キロもの道のりを歩き、キューバまで航海し、パナマ地峡を渡り西海岸に到達、1868年3月にはサンフランシスコに上陸した。その後も彼は世界中を旅することになるが、その時以来、カリフォルニアは彼の第二の故郷となった。
 そして、ミューアを心底から魅了したのが、シエラネバダ山脈とヨセミテだったのである。1868年に彼は初めてサンホワキンバレーを徒歩で横断し、腰まで届くワイルドフラワーの群落を抜けて初めて山間部に到達した。彼はその時の感動をこう記している。「私には、『シエラ」は、ネバダ山脈ではなく、雪の山脈でもなく、光の山脈と呼ばれるべきもののように思われた。それは私がかつて目にしたなかで、最高、神聖なまでに美しい山々の連なりであった。」その夏、ミューアは羊を率いてヨセミテに移ったのである。
 1871年までにミューアは、シエラ山脈に今も息づく氷河を発見し、後に議論の的となるヨセミテの氷河作用についての学説を生みだした。彼の名は国中に広まり、当時の著名人…ヨセフ・ルコンテや、アサ・グレイ、そしてラルフ・ワルド・エマーソンなどがヨセミテの彼のキャビンを訪れている.
 1874年の初めには、「シエラ研究」と題した一連の記事によって、ミューアは文筆家として成功の端緒につく。ヨセミテを去り、しばらくの間カリファルニア州オークランドを拠点として旅を続けたが、1879年には初めてアラスカの土を踏み、そこでグレイシャー湾を発見する。
 1880年にはルイ・ワンダ・ストレンツェルと結婚し、マーティネスに新居を構え、2人の女児、ワンダ、ヘレンに恵まれた。それから10年の間、家族との生活にほぼ落ち着きながら、ミューアは義父とともに果樹園を経営し、大きな成功を収めた。
 しかし、ミューアの放浪癖はそれではおさまらず、彼はアラスカの地に幾度も舞い戻り、オーストラリア、南アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ、中国、日本へと旅を続けた。もちろん、彼の愛したシエラネバダ山脈にも数えきれないほど…。
 後年、彼は執筆にさらに力を入れ、300にのぼる記事と、10冊に及ぶ主要な著書を出版し、幾多の旅について詳述し、彼のナチュラリストとしての哲学を説いた。また、万人に「山に登ってその福音を聴きなさい」と奨励した。ミューアの山に対する愛情は、彼の著作に一種の崇高さをもたらしてる。それを読む者は、大統領であろうと、代議士であろうと、平凡な市民であろうと、彼の自然に対する限りない愛情と情熱に鼓舞され、しばしば行動へと駆り立てられるのである。
 ミューアは、『センチュリー』誌に一連の記事を掲載して、放牧によって荒廃した山間部草原地帯の危機を訴え、これが世間の注目を浴びた。彼は、同誌の編集者であるロバート・アンダーウッド・ジョンソンの助力を得てその救済に取りかかった。そして1890年には、ミューアとジョンソンの多大な努力によって、ヨセミテ国立公園の制定が国会で決議されたのである。またミューアは、セコイヤ、マウントレイニヤ、ペトリファイドフォーリスト、グランドキャニオン等の国立公園の制定にも携わった。彼がよく、「国立公園の父」と尊敬をこめて呼ばれる所以である。
 ジョンソンをはじめとする人々は、たえず境界線をおびやかす牧畜業者などから、生まれたばかりのヨセミテ国立公園を保護する組織の成立をミューアに提案した。ミューアは1892年、彼の言葉によれば、「自然のために何事か為し、山々に喜んでもらうため」にシエラクラブを設立し、1914年にその生涯を終えるまで会長を務めることになる。
 1901年にミューアは、『私たちの国立公園』を出版した。これがルーズベルト大統領の関心を呼び、1903年に大統領がヨセミテを訪問。ルーズベルトはミューアと共に、ヨセミテの木々のもとで、彼の革新的で、注目に値する自然保護政策の原案を形づくったのである。
 ミューアとシエラクラブは、ヨセミテや、シエラネバダ山脈を守るために幾多の闘いをくり広げたが、その最も劇的なものは、公園内でのヘッチヘッチィバレーのダム化反対運動であった。しかし、1913年、何年にもわたる努力も空しく、ミューアがヨセミテそのものになぞらえたヘッチヘッチィバレーは、急成長するサンフランシスコに水を供給する貯水池となる運命を辿った。ミューアが、ロスアンジェルスの娘の家で、短い病の後に生涯を終えたのは、その翌年のことである。
 ミューアの生涯は、世界中の環境保護を支持する人々を鼓舞し続けてきた。高名な登山家である東良三(あずまりょうぞう)は、その青春期にミューアに深い感銘を受け、後の日本の国立公園創設者の一人になった。彼は日本においてミューアの偉業を紹介した第一人者でもあり、ミューア自身についてはもちろん、南北アメリカの自然について20冊を超える著書を出版し、戸伏太兵(とぶせたへい)による訳書『アラスカの旅 ジョン・ミューア』(1942年、聖紀書房)の出版にも尽力した。
 ミューアは、おそらくアメリカにおいて最も著名で、影響を及ぼしたナチュラリストであり、環境保護者である。彼は、私たちが継承した自然に触れ、それを保護することの重要性を説き続け、その言葉は、私たちの自然に対する認識を高めた。自然保護は、今日的課題であるが、ミューアの揺るぎない貢献は、時代を超えて、世界中の環境保護活動に携わる人々を励まし続けている。

投稿者 nishimura : 00:01

2004年01月01日

小圃千浦とヨセミテ

Chiura Obata and Yosemite




小圃千浦「ヨセミテ、宵の月」1930



 チウラ・オバタ(小圃千浦/1885-1975 カリフォルニア大学バークレー校名誉教授)は戦前からヨセミテを日本画で描きつづけた画家である。ヨセミテへのスケッチ旅行をきっかけに認められ、カリフォルニア大学バークレー校の美術部教授を務めるが、第二次大戦中は不幸にも日系人強制収容所へ拘留されてしまう。しかし生きる希望を失わず、収容所内で美術学校を開き、ここからその後多くの日系人アーティストを輩出することになる。

 チウラは岡山に生まれ、仙台で美術教師をしていた兄六一の養子となり仙台で育つ。14歳で家出し東京で邨田丹陵(むらた・たんりょう)の弟子となり、3年後若干17歳で日本美術院正会員になるが、1903年18歳で単身渡米する。サンフランシスコで舞台美術や邦字紙のイラストなどで生計を立て、1912年には妻ハルコと結婚する。1927年カリフォルニア大学バークレー校の美術部教授ワース・ライダーにヨセミテ渓谷へのスケッチ旅行に誘われたことが、チウラの大きな転機となった。(この仲間の中には写真家アンセル・アダムスもおり、ふたりは親友となる。)
 チウラはシエラネバダ山中にキャンプし、2ヶ月間魔物にとりつかれたように制作に打ち込み、150枚ものスケッチを描いた。バークレーに戻り、ライダー教授により大学で日本画デモンストレーションの機会を与えられるが、多くの学生が押し寄せたため、チウラは大学の講義をもつようになる。
 同年個展「ヨセミテ・シリーズ」を開催し、大きな評価を得るようになる。その後日本でも浮世絵版で有名な高見澤商店による木版画で「ヨセミテ・シリーズ」を出版している。
 1941年日米は開戦。西海岸では日系人11万人が適性外国人と見なされ、強制収容所へ送られた。チウラもタンフォラン収容所に送られるが、「いかなる状況下にあっても、教育は食糧同様に重要だ。なかでも芸術は、もっとも建設的な教育だと信じる。」との信念のもとにミネ大久保、日比松三郎・久子夫妻などとともに「タンフォラン美術学校」を収容所内に創立した。同美術学校には6歳から70歳以上、600人もの人たちが受講したという。その後トパズ収容所に移り、そこでも美術学校を開校する。
 終戦後チウラは大学に復職、バークレー校で名誉教授となる。その後の人生は日本の自然と文化をアメリカ人に紹介することに捧げ、また毎年ヨセミテでのキャンプとスケッチは欠かさなかった。
 ヨセミテの大いなる自然はチウラのアーティストとしての感性をさらに磨き、また生きる希望を与えたといってもいいだろう。
 チウラの孫娘Kimi Kodani Hillはバークレー市内に住み、チウラの作品を散逸から守り管理している。画集「Obata's Yosemite」(1995,Yosemite Association発行)の発刊にも尽力し、現在は同会の理事として活躍中である。このファミリーは4世代にわたってヨセミテに通いつづけ、キャンプ&ハイキングを愛する素晴らしいひとたちだ。
 またいま、カリフォルニア大学バークレー校植物園にはチウラとハルコ・オバタ夫妻を記念した日本庭園とゲートがある。(写真は1942年タンフォラン美術学校で教えるチウラ)

(参考:下嶋哲朗「アメリカに生きた日系人画家たち〜希望と苦悩の半世紀1896-1945」日本テレビ放送網1995)
参考WEBサイト
The Great Nature of Chiura Obata

にしむら@ヨセミテ大好き!






西村仁志(にしむらひとし)
京都生まれ京都育ち。20代から環境教育や自然体験に興味をもち、何かしたい思いがふつふつと湧いて、周囲の心配をよそに1993年勤め人をやめる。アメリカへの一人旅のあと、無職で家族とたのしく暮らしていたら「環境共育」と"Colors of Nature"のキーワードに出会い、個人事務所「環境共育事務所カラーズ」を開業。環境共育と市民参加のコーディネートがお仕事。2006年からは同志社大学大学院総合政策科学研究科准教授を兼業。
1995年からヨセミテに通いはじめて、その奥深さと楽しさにすっかりハマってしまっている。妻と1女1男あり。
(写真はマウント・ホフマンにて)
1995 妻同行。4マイルトレイルを歩く。ミラーレイクへの乗馬ツアー。
    マリポサグローブ。ツォロミーメドウズ、モノレイク行き。
1996 ハーフドーム登頂
1997 家族同行。ヨセミテ滝、イーグルピーク登頂。
1998 ツォロミーメドウズで1週間キャンプ。
    ランバートドーム、マウントホフマン、クラウズレスト、マウントデナ登頂
    グラニットレイク周辺クロスカントリーハイク
1999 ツォロミーメドウズで1週間キャンプ。
    グラニットレイク周辺クロスカントリーハイク、マウントホフマン登頂
    ライエル渓谷(ジョンミューアトレイル)ハイキング。
2000 6月 アッパーパインキャンプ場で4泊5日キャンプ。
    ラフティングなど、お気楽に過ごす。
2000 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。長男同行。
    Budd Creek、Budd lake、カシドラルピークをめぐるハイキング。
    グラニットレイク周辺クロスカントリーハイク
2001 6月 アッパーパインキャンプ場で4泊5日キャンプ。家族同行。
2001 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。モノパスへのハイキング。マウントホフマン登頂。
2002 6月 アッパーパインキャンプ場で4泊5日キャンプ。特筆すべき行動はないがタイオガパスを越えマンモスレイクス+ホットクリークへ。
2002 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。20 Lakes Basinへのハイキング。マウントホフマン登頂。
2003 6月 アッパーパインキャンプ場で5泊6日キャンプ。公園内のほぼすべての車道を走破した。
2003 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。テナヤピーク周辺ハイキング。マウントホフマン登頂。
2004 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。コネスベイスン、カシドラルレイクをめぐるハイキング。
2005 6月 アッパーパインキャンプ場で5泊6日キャンプ。
2005 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。グラニットレイク周辺クロスカントリーハイク。ジョンソンピーク登頂。
2006 8月 ツォロミーメドウズで4泊5日キャンプ。乗馬したり、周辺ブラブラでお気楽キャンプ。
2007 3月 マリポサ3泊でヴァレーの散策とスノーシューハイク。
2008 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。ドッグレイク周辺ハイク〜ランバートドーム登頂。Mt.ホフマン登頂。

詳細な経歴書はここにあります。
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投稿者 nishimura : 00:00