Alice Waters自伝『Coming to My Senses: The Making of a Counterculture Cook』を読む①

BerkeleyのレストランChez Panisseのオーナー、世界的なSlow Food Movementの中心人物のひとり、そしてEdible Schoolyard Projectの創始者でもあるAlice Watersの自伝「Coming to My Senses: The Making of a Counterculture Cook」です。

「人々はなぜ私がレストランを27歳で開店したのかを知りたがります。私は料理学校に行ったこともなければ、それまで料理のプロとして働いた経験もありませんでした。
なぜレストランなの?、なぜこんなレストランなの?どうしてお店をやりたくなったの? 実際のところ、いままで自分では深く考えたことはありませんでした。私は本質的に深く考える人ではないのです。
私の答えは、政治への失望と、お金を稼ぐ方法としてでした。料理は大好きだったし、当時街頭で繰り広げられている荒れ狂った状況から逃れるため、友達に食事を楽しんでもらえるほんの小さな場所をつくろうと考えていただけなのです。それは部分的には正しいですが、すべてではありません。」

「ふりかえってみると私の子ども時代と、青年期は私自身のエディブル・エデュケーションの種となるものでした。」

「私は(当時の)政治に失望して、1971年にChez Panisseをオープンしました。社会からドロップアウトして、政治から離れ、自分のことだけ、そして自分の小さなお店のことだけを考えようと。
しかし、そのことは政治的になっていきました。結局のところ、食べものは私たちの人生のなかで最も政治的なことだからです。食べることは毎日体験すること、そして私たちが日々何を食べるかという選択です。日々の選択によって、世界を変えることができるのです。」

Aliceは第二次世界大戦が終わりに近づいた1944年、ニューヨークに近いニュージャージー州チャタムで父Charles、母MargaretのWaters夫妻のもとに次女として生まれ育ちます。4歳年上の姉Ellenがおり、そしてAliceが4歳のときに妹のLauraが生まれ、さらにその2歳下に末妹のSusanが生まれます。
子ども時代は両親にNYの自然史博物館に連れて行ってもらい、帰りに「Automat」というレストランにいくのが楽しみでした。セルフサービスでコインを入れ、棚に並んだ料理を取る方式です。実物をみて自分で選ぶことができるのが嬉しかったそうです。(でも後に、シェ・パニーズでは毎晩、コースメニューが一つだけ。お客様は選ぶことができないというのは皮肉なことだと自分で言っています)

彼女の子ども時代(1950’s)の話のなかに、アイスクリームの行商「Good Humor Man」のことが出てきました。夏の午後、ベルの音が聞こえると母親の財布から5セント硬貨をこっそり盗んで通りに出て買いに行ったのだと。

northjersey.com「’Good Humor Man’ to appear in Belleville, Nutley」

彼女は高校生のときの話(飲酒と男女入り乱れてのパーティ三昧生活)を赤裸々に書いています。そして高校3年生のときに父親の転勤でミシガンからロスアンゼルスに転居し、大学はUC SantaBerbaraに進学しますが、ここでもビーチ遊びとパーティ三昧で女子クラブ寮を追放されてしまいます。
それが一因となってUC Berkeleyに転学しますが、時代はケネディ大統領の暗殺、公民権運動の高まり、泥沼化するベトナム戦争などなど、ここでは大学の門と教室を行き来するだけで数多の学生のテーブルから政治主張を聴き、配布ビラをもらうという状況で、のどかなサンタバーバラからは対照的でした。
UC Berkeleyではじまった「Free Speech Movement」の中心人物のMario Savioという人物が出てくるので、横道にそれてちょっとしらべてみたりしています。


Youtube「Mario Savio: Sproul Hall Steps, December 2, 1964」

NPR「Berkeley’s Fight For Free Speech Fired Up Student Protest Movement」

すでに故人であるMarioの夫人で、Free Speech Movementでともに活動したLynn Hollanderは上記の記事中でこう言っています。
「私たちはアメリカの若者に、政治的および社会的行動はあなたが関与することができ、そして関与すべきものであり、あなたには力があるという感覚を与えたのです」

Mario Savioの演説に感化されて、Aliceはこう書いています。
「私たちの国の産業化と消費主義への猛進によって、アメリカが人類愛を失っていくように感じ始めました。」

彼女はUC Berkeleyの在学中の1965年に友人のサラとともにフランスに渡ります。滞在したパリでは美味しいグリーンサラダ、チーズ、ワイン、焼きたてのフランスパンなど、アメリカでは出会ったことのない美味しいものたちとの出会いがありました。
滞在中、サラとヒッチハイクでフランスのあちこちに出かけますが、Pont-Avenという小さな街で入ったレストランで食べた生ハムとメロン、鱒のアーモンドバター焼き、ラズベリーのタルトという内容の「今日のランチコース」(他に選択肢なし)に二人は魅了されます。Aliceはこれが後にBerkeleyでシェパニーズを開店するときの青写真になったと書いています。

6章の後半で、彼女が「カウンターカルチャー料理人」になるという核心の話になってきました。彼女は大学でフランス市民革命をテーマにしていたのですが、フランスで実際にベルサイユ宮殿の豪華さ、贅沢さを目の当たりにして、「こりゃ民衆は怒るわな」という思いと、バークレーで経験したラディカリズムとフリースピーチムーブメントに直結したのだと言います。