チェーン規制のサイン

Chain Control Signs
冬期にチェーン規制が出た際のサインについて解説がありましたので、掲載します。
R-1からR-3まで、3段階あります。
チェーン規制が出ているエリアでは最高速度は25マイル/時に規制されます。
「R-1」レベル
チェーンが必要。ただしスノータイヤもOK。(溝の深さ規定あり)
ロードサインは “AUTOS & PICKUPS SNOW TIRES OK”と出ます。
「R-2」レベル
チェーンが必要。スノータイヤを4輪に装着した4WD車はOK。(車両重量規定あり)
ロードサインは“4W DRIVE WITH SNOW TIRES OK”と出ます。
「R-3」レベル
4WD車も含め、例外なしにチェーンが必要。
ロードサインは“NO EXCEPTIONS”と出ます。

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第七章 ミューア年表

1838年
4月21日:スコットランド、Dunbarで生まれる。
Muir家の家族構成は父Daniel Muir、母Anne、長女Margaret、次女Sarah、長男John Muir、次男David、三男Daniel,、三女(双子)Annie、Mary、五女(米国生まれ)Joanna。
1849年
内務省(Dept. of Interior)設立。
Muir家、アメリカに移住。グラスゴーを出航しニューヨークに到着。アルバニー、ミルウォーキーを経由してウイスコンシンのPortage付近に到る。
農場そばには湖があり、父DanielはFountain Lakeと命名。日曜の教会の帰りなどに、よく立ち寄って遊んだ。
15歳のころまでには、シェィクスピアやミルトンの本などを読んでいた。
父Danielは熱心なクリスチャンではあるものの、近所の家畜を食べた飼い犬を殺したり、思ったように働かない馬を殺そうとする事があった。またMuirに鞭を振るうことがあった(Muirの興味に対してはあまり理解を示していなかった)。
1857年
近くのHickory Hillへ移る。
新しい農場では、井戸掘りをしているときに、ガス中毒で一命を落としかける。
ある冬、父に夜に本を読むなといわれ。朝早起き(1時)して、読書をするようになる。そのころから時計仕掛けの早起きベッドや、温度計などといった発明をする。
1860年
隣人(William Duncan)に薦められ、Madisonで行われたState Fairに発明品を出展し受賞する(父Danielは旅行費用の援助を拒んだ)。Fairでは委員会メンバーのJeanne Carr(Ezra S. Carr教授夫人)と出会う。受賞をきっかけに、Prairie du Chienの町(ウィスコンシン川とミシシッピー川の交わる付近)での職を得る。宿泊先のホテル主の姪Emily Pelton(後にカリフォルニアに移住)と知り合う。
1861年
リンカーン、大統領に就任。
南北戦争始まる。
秋にはWisconsin大学に正式入学、2年半在籍。
1862年
農務省(Dept. of Agriculture)設立。
Homestead Act法。移住者が160エーカーの公有地を私有化できるようになる。
6月、友人のGriswoldに影響を受け、植物学を学びはじめる。
夏、Fountain Lake Farmですごす。
1863年
夏、学期が終わってからPrairie du Chien方面に、植物採集の旅行に出かける。
新学期(秋)には大学に戻らず、Fountain Lakeの義兄David Gallowayのもとで働き始める。
1864年
ヨセミテ州立公園案がリンカーンによってサインされる。
James M. Hutchingsヨセミテ渓谷に移る。
George Perkins Marshの「Man and Nature」が出版される。ヨーロッパを例に挙げ、森林の破壊が生態系にもたらす影響を指摘。
春、召集から逃れるため、カナダに向かう。結果として、Muir本人に召集令状は来なかった。
10月にはMeafordの町(ヒューロン湖の東Georgian Bay南端)に落ち着き、Troutの工場で働き始める。
1865年
南北戦争終結。
秋、カナダのMeafordでJeanne Carrから手紙を受け取り、以後文通が始まる。
1866年
3月1日(2月21日説もある)、Troutの工場が火事で焼け、作ったRake(熊手)をすべて失う。すぐカナダよりアメリカに戻り、インディアナポリスに移る(5月)。
Osgood & Smithという馬車の車輪やハブ等を製作する工場に職を得る。この工場でも発明の才覚を見せる。
Butler教授の手紙で、Merrill家(Miss. Catharine Merrill、Mrs. Moore、Merrill Moore)に紹介される。
晩秋:Carrに、”The Calypso Borealis”というエッセイを送る。Butler教授(1869年ヨセミテ渓谷で再会)によりBoston Recoderに投稿される。
この年、初めてヨセミテについての記事を読む。
1867年
3月:Osgood工場での事故で、一時的に右目の視力を失う。一月後には、回復。
8月:ウィスコンシンの実家やCarrを訪ねた後、インディアナポリスに戻る。
9月:ケンタッキー、テネシー、ジョージアそしてフロリダへの徒歩旅行に出る(後に”A Thousand-Mile Walk to the Gulf”として出版)。
10月後半、フロリダ西海岸にあるCedar Keyに到着。マラリアにかかる。
1868年
E. Carr教授ウイスコンシン大学をやめる。
1月:キューバに向かう。南米行きの船が見つからず、ニューヨークに向かい、そこからパナマ運河経由でサンフランシスコを目指す。
3月28日(もしくは4月上旬):サンフランシスコに船(Nebraska号)で到着。
4月:Chilwellと共にサンタクララバレー、Pacheco Pass、セントラルバレー、Coultervilleを越えて、ヨセミテ渓谷旅行に出かける。
5月:ヨセミテからの帰り、Snellingで仕事を見つけ働く。
晩秋:John Connelから羊飼いの仕事をもらい、HopetonとLa Grangeの間の丘陵地帯(Twenty Hill Hollow)で69年5月末まで働く。
1869年
E. Carr、夏にはUniv. of Californiaで、教授のポジションを得る。
6−9月:Delaneyに依頼され、ハイシエラで羊飼いの仕事を手伝う(1911年に”My First Summer in the Sierra”で出版)。
J. Carrがヨセミテを訪れ、Hutchingsのホテルに滞在するが、Muirには遭えなかった。MuirはButler教授に遭う。
9−11月:ハイシエラから戻った後、Delaneyの牧場でしばらく働く。
11月:ヨセミテ渓谷に行く。
12月:Hutchingsのホテルで雑役の仕事をする(以降73年末まで、ヨセミテ渓谷に住む)。
1870年
J. Carrのつてで、学識者などがヨセミテ渓谷にいるMuirを訪ね始まる。Yelverton女史(J. Carrと知り合い)がヨセミテに滞在、後にMuirらを題材とした”Zanita”を出版。
8月:LeConteらとハイシエラ(Tenaya Lake、Toulumne Meadows、Mt. Dana、Bloody Canyon、Mono Lake)に10日の旅に出る。氷河に関して話し合う。
10月:Hutchingsに住んでいたキャビンを取り上げられる。ヨセミテ渓谷を離れ、71年の早春までLa GrangeのDelaneyの牧場で働く。
1871年
早春:Hutchingsに再雇用され、ヨセミテ渓谷に戻る。製材小屋の壁から張り出した、自分の部屋を作る。
5月:Emerson、J. Carrに薦められ、ヨセミテ渓谷を訪問時にMuirと会う。
8月:Hutchingsとの雇用関係が終わる。
8−9月:Cascade Creek, Yosemite Creek沿いを歩き回り、氷河の痕跡を探し回る。
9月: MITの学長Rankleをヨセミテ案内。
同月単独で、Ten Lakes Pass付近からTuolumne渓谷へ下降し探査する(1873年に”Explorations of the Great Tuolumne Canyon”で投稿)。
10月: Merced山群で氷河を発見、また、Mt. Lyell方面に向かい、雪の斜面を見て氷河の現存を信じる。
11月:Hetch Hetch Valleyに下降、谷の探索をする。
12月:”Yosemite Glaciers”が掲載される。
1872年
Yellowstone National Park(ワイオミング州)設立。
1月:”Yosemite Winter”が掲載される。
3月:ヨセミテ渓谷で地震を経験。
5月:”Yosemite Spring”掲載される。
8月:Galen ClarkとともにMcClureとMt. Hoffmannの氷河に棒を立てる。
9月:同二人はHetch Hetchyから入り、Tolumne渓谷のゴルジ地帯(Muir Gorgeと後に命名)を遡行する。
9月-10月:Mt. Hoffmannを越え、Tuolumne渓谷に下降し、上流の探査をしHoffmannに戻る。すぐさまMt. McClureへ移動し、棒の動きを観察に行く。再びHoffmannを経由し、ヨセミテ渓谷に戻る。
10月:Keith(画家)らを連れてLyell渓谷の奥に行く。単独Donohue Passを越えてMt. Ritterへの初登頂をする。次にLe Conte、Merrill Mooreをつれ、Clouds Restを登山、Mono Lakeに抜ける。
12月:オークランドへの短い旅行の後、Tenaya渓谷を遡行(”A Geologist’s Winter Walk”)、その後すぐClouds Restに登る。”Living Glaciers”が掲載される。
1873年
Timber Culture Act.成立。名目とは異なり、家畜業者による土地取得を促してしまう。
American Association for the Advancement of Scienceが水系保護の必要性を訴えはじめる。
3月:”The Hetch Hetchy Valley”掲載。
4月:”A Geologist’s Winter Walk”掲載。
6月:Mt. Lyellにガイドとして登山。
7月:”Hetch Hetch Valley”掲載。Keith、Kellogg、J. Carrらと共にTuolumne渓谷の核心部を遡行する。
8月:5週間にわたりヨセミテの南・東側の単独探査を行う(Minarettを東に越える、Ritter氷河の観察、Rodger Peak登山)。
”Exploration of The Great Tuolumne Canyon”掲載される
9月: Clarkらとシエラ中南部への長期旅行に出る。Kings Canyonに入り、東に越え、Owens Valleyを南下、Mt. Whitneyを南から目指すが失敗。数日後、東壁から初登頂をはたす。Mono Lakeを経由してヨセミテ渓谷に戻る。
10月23日:J. CarrはLouie Strentzelに手紙を書き、Muirのことについて書く。
晩秋: ヨセミテを去ってOaklandに移り、以降10ヶ月近い執筆活動が始まる、記事は1874年の春から次の年にかけて、”Studies in the Sierra”として連載される。
父Danielは、家族のもとを去る。
1874年
E. Carr、Univ. of Californiaでの教職を辞す。
夏:Carr宅で、Muir(36)とLouie Strentzel(27)初めて会う。二度目に遭うのは3年後。
秋:Hutchingsー家、ヨセミテでのホテル業をやめ、サンフランシスコに移る。後にElvira HutchingsはJames Hutchingsと離婚する。
秋:オークランドでの執筆活動を終えた後、TurlockからLa Grangeを経由、ヨセミテ渓谷を再訪する。Shadow Lakeでキャンプの後、Mono側にぬけ、Lake tahoeを経由、Mt. Shasta方面へと向かう。登頂に成功の後、さらに北のModoc地方を訪ねる。12月にはKnoxvilleのEmily Peltonを訪ねる。
1875年
2月:オークランドに戻る。
4月:Shastaに2回登頂。2度目の下山時に遭難しかかる。
6月:Keith、Swett、McChesneyらと共にMonoトレイルを使い、Tenaya Lake、Tuolumne Meadowsを経由してMono Lake方面へ行く。
7月:Charles Washburn、George Baylay、そしてロバの面倒見役の”Buckskin Bill”と連れ立って、Kings Canyon方面への二度目の旅行に出かける。Whitneyの再登頂。
8−10月:南シエラへの単独探査旅行をし、セコイアの群生を探し求める。
Half Domeに登る。
1876年
農務省にForestry Agent(森林官)のポジションができる。Franklin Houghが就任。
1月25日:サクラメントのThe Congregational Churchで、初めての講演をする。
2月5日:Sacramento Record-Unionに”God’s First Temple”が掲載。
1877年
Utah(Great Basin)、 San Gabriel方面を探査。サンフランシスコに戻った後、Asa Grayらを連れて Shasta、 Lassen方面に旅行。
Middle Fork of the Kings Canyonを探査。
Merced、San Joaqin Riverを船で下る。途中MartinezのStrentzel家に初めて立ち寄る。
1878年
冬−春:Strentzel家を幾度か訪ねる。
夏:US Coast and Geodetic Serveyの測量に同行Utah、Nevada方面に出かける。
秋サンフランシスコに戻る。
1879年
USGS設立、Clarence King(1864-1865年のWhitney Surveyメンバー)が初代局長となる。
4月:初めてLouie Strentzelに手紙を出す。
6月:ヨセミテ渓谷で、自論の氷河による形成説を講演。Louie Strentzelと婚約。
夏:オレゴン、ワシントンを経由してS. Hall Youngらとアラスカ旅行(1回目)に出かける(後に”Travels in Alaska: part-I ”として出版)。12月にカリフォルニアに戻る。
1880年
4月:Louie Strentzelと結婚
7月30日:二度目のアラスカ旅行に出かける(後に”Travels of Alaska: part-II”、”Stickeen”として出版)、晩秋にMaritinezへ戻る。
1881年
農務省内に、Division of Forestryが設立。Houghが就任。ただ、管理する土地はなく、木に関するアドバイスなどが主要な仕事。
John F. Miller、Sequoia・Kings国立公園の設立を試みるが、廃案となる。
3月:長女Wandaが生まれる。
5月:三度目のアラスカ旅行に出かける(後に”The Cruise of the Corwin”として出版)。
10月:アラスカから帰り、果樹農園の経営に没頭し始める。
1884年
7月:妻Louieと共に、ヨセミテ旅行に出かける。総費用$500。
1885年
8月:故郷Portageへ向かう。途中Yellowstone国立公園に立ち寄る。
10月:Kansas Cityで父Daniel Muir没する。
1886年
Fernow、Division of Forestryの三代目部長として就任。
1月:次女Helenが生まれる。
1887年
春:”Picturesque California”のへ投稿及び編集を引き受ける。
1888年
Theodore Rooseveltを中心に、「The Boone and Crokett Club」が成立。アウトドアーの好きな上流階級者のクラブ:Harrsion大統領、Cleavland大統領、内務省長官Norble、Schurz、森林官Fernow、Pinchotなどもメンバーに含まれていた。
7月:KeithとともにMt. Shasta付近を経由して、Cascade山群方面へと行く。Mt. Rainierを登る。
8月:LouieはMuirに手紙を書き、著作に戻ることを薦める。
1889年
6月:Century誌のR, U. Johnsonが仕事を依頼するためMuirを訪ねる。その後二人はヨセミテに行き、
Tuolumne Meadowsで、ヨセミテ国立公園設立運動の話をする。MuirはCentury誌に、2本記事を書く約束をする。
1890年
セコイア国立公園、ヨセミテ国立公園、General Grant国立公園(カリフォルニア州)設立。
3月:Vandever、ヨセミテ国立公園法案を提出。
6月14日:4度目のアラスカ旅行(”Travels in Alaska: part-II”)に出かけ9月に戻る。
8月、9月:Muirの書いた記事がCentury誌に掲載される。
9月:Johnson(Muir)の提案するVandever修正案は廃案になりかかっていたが、Southern Pacific RailwayのZumwaltのロビー活動によって、新修正案が議会を通過、Harrison大統領によりサインされる(10月1日)。これによりヨセミテ渓谷とマリポサグローブを除く、ヨセミテ国立公園が成立することになる。同じころ、セコイア国立公園も成立。1916年にNational Park Serviceができるまで、騎兵隊が保護管理を行う。Vandeverは法案に関してJohnsonらとの関係があったことをを否定。
1891年
3月:Forest Reserve Act(Enabling Act)成立。大統領がその権限で森林保留区(Forest Reserve)を設定できるようになる。区はすべて内務省の管轄下におかれる。
春:Muir兄弟の長女Maggieが夫John Reidと共にMartinezに移ってくる。以後Muirの代わりに農園経営の面倒をみる。
6月:Kings Canyonへの調査旅行に出かける。
11月:Century誌に、Kings Canyonについて書いた”The Rival of the Yosemite”が掲載される。
1892年
Casa Grande National Monument(Arizona州)設立。
5月:シエラクラブの設立に参加、初代会長に選ばれる。1914年に没するまで、会長を務める。
1893年
Cleavland政権誕生。すでに前政権によって13Mエーカーの保護区が設立されていた。その後Cleavlendは明確な保護手段が規定されなければ必要ないとして、5Mエーカーの保安区を指定するにとどめる。
このころシエラクラブは、ヨセミテ国立公園の境界を縮小しようとするCaminetti法案を阻止する。
5月:東海岸へ行き、Johnson、Charles S. Sargent(植物学、Harvard大学)、John Burroughs(作家、ナチュラリスト)などと会う。また、Emerson、Thoreauゆかりの地を訪ねる。
6月:ヨーロッパ旅行に出かける。
1894年
過去に出版した雑誌記事を加筆修正して、”The Mountains of California”を出版する。Muir最初の本となる。
1895年
Century誌2月号の特集(”A Plan to save the Forests”)に投稿。他の投稿者はSargent、Roosevelt(後の大統領)、Pinchot、Fernow、Olmstedなど。Muirは羊の害や、軍による管理を訴えている。
Tuolumne渓谷を単独で下る。途中Lukensに出会い、Hetch Hetchy渓谷で再び過ごした後、Tuolumne Meadowsに行き、周辺の山を登る。その後ヨセミテ渓谷に行き、住んでいた小屋を訪ねる。9月12日Johnsonに手紙を送り、公園の状況を報告。
11月23日:シエラクラブの会合で”The National Parks and Forest Reservations”を講演。1890年ヨセミテ国立公園設立の時のこと、軍によるヨセミテの管理が羊による被害を緩和してきたこと、最初ヨセミテに行ったときのことなどについて述べる。

1896年
National Academy of Scienceの推薦で、National Forest Commissionが設立。森林の調査と管理方針を作成することが主目的。当初Fernowは反対した。メンバーはSargentを委員長とし、他はW. Brewer(元Whitney Surveyメンバー)、H. Abbot、A. Hague、A. AgassizそしてG. Pinchot。

6月:Annie G. Muir(母)が没する。Harvard大学、Muirに名誉学位を授与する。
7月:シカゴでNational Forest Commissionメンバーに非公式で加わり、森林(サウスダコタ、オレゴン、カリフォルニア、アリゾナ等)の視察旅行に出かける。途中7月に、アラスカへの短い旅行(5度目)をする。

1897年
3月:クリーブランド大統領は任期終了直前に大統領令を出して、21Mエーカーの森林を保安区とした。これを廃案にする動きがあったが、大統領は拒否権を発動し、ホワイトハウスを去る。
5月:Pinchotが反対してもめたものの、最終的にNational Forest Commissionの報告書がまとまる。
6月:McKinley新政権の下、Forest Management Act(Organic Act)が成立。Foreset Reserve設立の目的、管理、水系の保護、必要に応じて伐採された木の販売などを規定する。またカリフォルニアなどを除く保留区の指定を1898年まで延期する。

7月:”Forest Reservations ans National Parks”をHarper’s Weekly誌に掲載。
8月:”American Forest”をAtlantic Monthly誌に掲載する。Sargent、Canbyとともに、6度目のアラスカ旅行に出かける。
9月:アラスカの帰り、シアトルでPinchotと会う。

1898年
Pinchot、農務省のDiv. of Forestryの4代目部長に就任。

1月:”Wild Parks and Forest Reservations of the West”が掲載。
9月:Sargent、Canbyと共にノースカロライナとテネシーに行く
10−11月:東海岸に滞在。フロリダ、ルイジアナ、テキサス経由で戻る。

1899年
Mt. Rainier National Park(ワシントン州)設立。

5月:E. H. Harriman(Union Pacific鉄道会社を掌握していた)が主催するアラスカ遠征に参加(7度目のアラスカ)。U. S. Biological SurveyのC. Hart Merriamと知り合う。8月に戻る。

1900年
夏:MerriamらとLake TahoeからTruckee、Carson、Mokelumne、Stanislaus、Calaveras、Walkerを越えヨセミテに行く。森林や動物の調査をした。
10月:友人に手紙を書いて、日本の山や森林、日本や満州の花を見てみたいと書く。

1901年
Harriman、Southern Pacific Railwayも掌握する。
The Right of Way Act(H.R. 11973)が通り、内務省長官の権限で、国立公園内にダムなどを建設できるようになる。
9月:Mckinley大統領が暗殺され、Theodore Roosevelt(TR)が急遽大統領となる。

Atlantic Monthly誌の投稿をもとに、”Our National Parks”を出版。
7月:Tuolumne Meadowsで行われたシエラクラブ最初のアウティングに参加。

1902年
Crater Lake National Park(オレゴン州)設立。

1月:出版社に1−2年後にだす本の構想について書き送る(実際に次の本が出たのは1909年)。
夏:Kings Canyonでのシエラクラブアウティングに参加。その後Kern River方面の探査。

1903年
5月:TRと共に、ヨセミテでキャンプをする。その後すぐ、一年近くに及ぶ世界旅行に出かける。出発直前にHarrimanが、旅行のサポートを引き受ける。
12月:J. Carr没する。

1904年
Sullys Hill国立公園設立(North Dakota州)。後にNational Game Preserve。
選挙運動をめぐり、TRとHarrimanの関係にひびが入る。
議会は内務省長官のHitchcockに対して、ヨセミテの境界を見直すようにと指示、年末には報告書が提出される。
5月:世界旅行から戻る。

1905年
農務省にForest Serviceが設立。初代局長としてG. Pinchotが就任。内務省管轄であった森林保安区(Forest Reserve)はNational Forestと改名、以降Forest Serviceの管轄になる。

1月:Colbyに指示し、ヨセミテ渓谷返還法案の作成に取り掛かる。
2月:ヨセミテの境界を変更・縮小する法案(H.R. 17345)が通る。また、ほぼ時を同じくして、カリフォル二アではシエラクラブ原案によるヨセミテ渓谷返還の案が通過(Muirの要請でHarrimanが州議会に影響をあたえた)、直ちに連邦での法案通過へと動き始める。しかし会期末日だったので、合同案(S.J.R. 115)の形で予算だけを通す。それに応じ、騎兵隊は本部をWawonaからヨセミテ渓谷に移そうとしたが、州の運営委員会の抵抗で延期となる。

3月:娘Helenとアリゾナ旅行
8月:妻Louie Strentzel没する。
年末:ヨセミテ渓谷正式返還のための法案(H.J.R. 14)が下院に提出される。 

1906年
The Antiquities Act成立。

若干の土地境界の修正をした法案(H.J.R. 77)が下院に提出される。Muirは更にHarrimanに援助を求め、最終的には法案(H.R. 118)となり上下院を通過し、6月11日の大統領TRのサインにこぎつけた。
4月:サンフランシスコ大地震がおきる。水不足が被害を拡大。
5月:Pinchotはダム建設をサポートする旨を表明する。

1907年
10月:Keithと共にHetch Hetchyで一週間ほど過ごす。

1908年
4月:TRにHetch Hetchyを救う嘆願の手紙を出す。
5月:TRからの再考をうながす手紙をうけとったものの、内務省長官Garfieldは5月11日に条件付でHetch Hetchyへのダム建設を許可した。
5月:PinchotはConservation ConferrenceをWhite Houseで開催、州知事が呼ばれる。しかしSargent、前内務省長官Norble、Fernow、Muirらは招待されなかった。Johnsonはプレスとして参加できた。これにより、森林資源の有効利用を全州に広めようとした。
7月:南シエラ、Kern RiverへのSierra Club Outingに参加。
8月:オレゴンのHarriman邸を訪ねる。このとき、自伝”The Story of My Boyhood”を書く話が持ち上がる。

1909年
2月:アリゾナへ旅行。
3月:Taft政権が誕生。新内務省長官にR. Ballingerが選ばれる。
4月:ヨセミテ渓谷へ旅行。
秋:Harriman没する。
7月:Sierra Club outingでヨセミテに行く。
10月:Taft大統領のヨセミテ旅行に同行。一緒に4マイルトレイルを下る。同月、Taft大統領は内務省長官ともめていたPinchotを解雇。
”Stickeen”を出版。

1910年
数日ほど、H. F. Osborn一家と共にヨセミテに行く(Sargentによると:三月末)。
10月:Taft大統領はHetch Hetchy計画を見直すための調査を指示。

1911年
親友のKeith没する。

3月:内務省長官Ballingerは健康上の理由で辞任し、Fisherが後を継ぐ。
”Let Everyone Help to Save the Famous Hetch Hetchy Valley…”と言うタイトルのパンフレットを書く。
”My First Summer in The Sierra”出版。
8月:南アメリカとアフリカ旅行に出かける。

1912年
”The Yosemite”出版。

3月:旅行からニューヨークに戻る。
7月:Los Angelesよりヨセミテに来る。
10月:最後のヨセミテ。National Park Conferenceに参加。公園へ車を入れるべきかについて話し合う。

1913年
3月:Fisherは以降、Hetch Hetchy問題に関しては連邦議会の許可が必要であると表明。
同月、Wilson政権が誕生。内務省長官としてLaneが就任。
5月:Univ. of Californiaより名誉博士号を賞与される。
9月:183対43で、Hetch Hetchyダム化案(Raker法案)が下院を通過。
12月:上院では43対25でRaker法案が通過、大統領のサインを経て、Hetch Hetchyへのダム建設が許可される。
”The Story of My Boyhood and Youth”出版。

1914年
12月:Los Angelsの病院で没する。

1915年:
The National Park Act成立。これにより内務省にNational Park Serviceが設立。初代局長はMather。
”Travels in Alaska”がMrs. Marson Randall Parson(Muirの秘書)により出版される。
1916年:
”A Thousand Mile Walk to the Gulf”がBadeにより編纂・出版される。
1917年:
”The Cruise of the Corwin”がBadeにより編纂・出版。
1918年:
”Steep Trails”がBadeにより編纂・出版。

Muirに直接関係のないと思われる歴史的事項に関しては、イタリックを使用しました。