平尾順平さん「世界のなかで 広島はすごい可能性をもっている」

151月 - by webmaster - 0 - In インタビュー記事

IMG_4344

平尾順平さんプロフィール
ひろしまジン大学 学長
1976年広島県生まれ。広島市立大学国際学部卒業。学生時代、バックパッカーとしてユーラシア大陸横断などの旅をする。大学卒業後、財団法人日本国際協力センターに入団。JICA(国際協力機構)への出向も含め、東南アジア、中央アジア、中米、アフリカなどの人材育成、教育案件を担当。海外出張に明け暮れる。バックパッカーとして、また海外出張で、県外、国外から改めて広島を見つめ直す経験から、広島の魅力と可能性を強く感じ、これからの広島のために自分にできることからしていきたいとの一身で30歳で帰郷。平和記念資料館を管理する広島平和文化センターに2年間勤務ののち退職。2010年5月、ひろしまジン大学を立ち上げ現在に至る。

 

■まず、子どもの頃のことから教えてください。

広島生まれで、広島市安佐北区可部で一人っ子として育ちました。母親は専業主婦、親父は地元の印刷会社で働きながら、週末は地域のまちづくりの活動に没頭していて全く家にいませんでした。だからなのか、親父と遊んでもらった記憶がほとんどないんです。
母親と一緒にいて、何をしていたかというと、絵本を読むのが好きで、読むだけでは飽きたらず、自分で書いていました。百冊ぐらい作りましたかね。一人遊びのようなものです。
それから、英語に興味があったんですよ。小学校四年生のとき、近所にあった英会話の教室に行かせてほしいと親に頼んで、2年間通ったことがあって、その時から英語が好きになったんです。英語が好きというか、外国人とコミュニケーションを取ることに興味があったんです。それを確実にした出来事は、近所の公民館にたまたま来ていたジンさんっていう日系アメリカ人がいて、彼は英語しかしゃべれないんですけどその人と話しているときに「ジンさんは刺身が好き?」って聞いたら「NO」って言うんですよ。でこんど「刺身は嫌い?」って聞いたら「NO」っていうんですよ、すごい不思議だったんです。これは英語としては正しいコミュニケーションなんですけど、日本語では「好き?」って聞いたら「嫌い」なんですけど、じゃあ「嫌いなの?」って聞いたら「うん」っていうはずなのに、英語だと、「Do you like row fish?」って言ったら「NO」なんですけど、「Don’t you like row fish?」 って言っても「NO」なんですよね、英語では、コミュニケーションの違いはすごいと思ったのを覚えています。
child 子ども時代(ご本人提供)

そして小学校四年の時にソウルオリンピックがありました。そこで体操競技がすごく注目されたんです。いまの大学生は知らないと思いますが清風高校の「池谷・西川コンビ」という高校生の体操選手がいました。彼らに憧れて器械体操をやりたいと思ったのです。まず鉄棒で「蹴上がり」をやってみたら出来た。それで「バク転」もやってみたら出来たんです。バク転が出来るってすごかったんですよ。それで、当時から小学生にも体操を教えていた広陵高校に習いに行くようになりました。中学生時代もそんな流れで、自分の通う中学校の体操部にも属していたんですけど基本的には広陵高校の練習に行ってました。

highschool 高校体操部のころ(ご本人提供)

■そうすると、高校時代も体操ひと筋ですね

はい、だから自宅のある安佐北区から、高校のある安佐南区まで自転車で1時間半かかるのですが。朝は6時台には家を出て、部活が夜10時前まであって、そこから帰宅すると夜12時という3年間でした。本当はそのまま体操で大学に進学しようと思っていたのですが、怪我でそれは叶いませんでした。

■ やむをえず、そこから方向転換ですか。

というわけで、体操の道が閉ざされて、改めて行こうと思った大学は外国語大学でした。特にロシア語専攻に入りたかった。その理由が完全に邪なんですけど、当時、体操競技が一番強かったのがロシア(旧ソ連)なんですけど、そこに美人の体操選手がいて、その人に会うためにはロシア語がいるぞと考えたんです(笑)。体操は出来なくてもこの人には会えると思って、外大を志望したというわけでした。
高校では理数科にいました、理数が得意なわけじゃなく、大学に行こうと思えばそのコースしかないと言われたので。そして理数系にも関わらずセンター試験の数学Ⅰで100点満点の8点っていう点を、とってしまってですね、全然数学ダメだったんです。浪人も考えたんですけど、まぁまぁ浪人してまで美人選手に会いに行くのかなとも考えました。
高校の先生には他の4教科を使って、どっか国公立を受けたらいいじゃないかと。近所の広島市立大学に国際学部というのがあるらしいぞと、前の年に出来たばかりの大学だったんで中身がよくわからなかったんですけど、とりあえずセンター試験受けたとこやから場所はわかっとるし受けてこいやと言われて受けに行ったら、受かってしまいまして。進学することになりました。

■広島市立大学国際学部ではどんな学生でしたか

広島市立大学は94年に開学して、その2期生というわけです。勉強以外で、熱を上げてたものが2つあって、1つは音楽です。僕が好きだったメタリカという、メタルロックのバンドがあるんですけども、その人たちが好きだったという話をしたら、仲間たちとバンドやろうっていう話になったんです。集まったメンバーの中にドラムがいなかったんですよ。体操やってるから手と足がよく動くんじゃないかっていう(笑)。それで急遽ドラムを練習して、それから大学時代はずっとバンドやってましたね。
もうひとつは子供の頃から好きだった全然違う人と話す、コミュニケーションをするということ。いろんな国に行ってみたいとずっと思っていました。大学に入って自由な時間もできて、バイトしてお金もできたので、夏休みにバックパックで海外に一人旅に行くようになったのです。

■ 海外への一人旅のエピソードを聞かせてください

初めて行った海外旅行は大学2年のとき、香港でした。確か香港が中国に返還される前の年でした。飛行機の着陸直前、建物すれすれぐらいのところを飛ぶんで す。飛行機の窓から見たら人が動いてた。これって当たり前なんですけど、日本以外にも人がいるというのは、なぜか驚きでした。そして実際に空港に降りてみると、さっそく客引きの人が「うちに泊まれ、泊まれ」みたいにいっぱい寄ってきました。「人口何万人」ってガイドブック上の数字では確認してた「人」がこ んなに普通に僕らと同じコミュニケーションをとってくるんだって、なんだか不思議だったのを覚えています。香港の北のほうまで行こうと思って、間違って中 国の深圳に間違って入ってしまったり。とにかくそんな驚きばかりで1ヶ月が過ぎてしまったぐらい、衝撃的でした。

trip2 バックパッカーの頃(ご本人提供)
翌年はエジプト、ヨルダン、シリア、トルコ、ギリシャ、そしてイタリアから日本に帰るというルートで行きました。1ヶ月半ぐらいです。この旅では色々トラブルやらかしましたね。まずはエジプトでピラミッド見に行くじゃないですか。ラクダに乗って写真を撮ろうと思って、乗っている姿を撮ってもらおうと思ったんですけど、まぁ旅慣れてなかったでしょうけど、俺が撮ってやるよって言われて現地ガイドにカメラ渡したんです。次になぜかパスポートも見るからって言われて、渡してしまったんですよ。そして戻ってきたら追加で100ドル払わないとパスポートもカメラも返さないよって言われて!。学生の100ドルは大きいですよ。(この後、旅のエピソードの数々。書けない話もあり。略)

■ 4年になるとそろそろ就職のことが気になりますよね

就職説明会とか行き始めても、全然、日本で就職するイメージがわかなかったんです。グリーンアリーナで合同説明会があるからスーツ着て行ったんですけど、行った瞬間、紺のスーツ姿一色のたくさんの人の数に完全に圧倒されちゃって、もう無理やと思って中にさえ入らずに帰ってしまいました。
大学では三年生から哲学のゼミに入ったのですが、そのゼミの先生は大学時代に休学してインドで旅したという経験がある方で、「大学は最長 8年で卒業すればいいんだから、本当に進路に迷うんだったら、どっか行ってきたらいいんじゃないか」って言われて、そのまま四年生にならずに大学を一年間休学したんです。中国から入り東南アジアを巡って、最終的にポーランドまで行くっていう、バックパックで電車とバスで一年間旅をしました。予算30万です。沢木耕太郎の「深夜特急」を読んでこのルートを選びました。ポーランドを最終目的地にしたのはやっぱりアウシュビッツがあるから。広島の人間だから。

■ 広島の人間だからアウシュヴィッツという心境とは?

これは僕も「原爆」ってそんなに意識してなかったんですけど、中学生の時に母親が被爆者手帳をとったんですよ。自分はそれまで母親が被爆してるって知らなかったんですよね。祖父母が被爆してるのは知ってたんですけど。
母方の祖母が原爆投下後二週間以内に広島市内にやってきて親戚を探してたんですね。その時に、もううちの母は祖母のお腹の中にいたと。胎内被爆です。若い頃はこういうのがあると結婚できなかったという話などもされて。
その時、初めて僕は2世になるんだなと思ったんです。
やっぱり旅の途中「ヒロシマから来た」っていうといろんなことを尋ねられるんです。
ちょうどこの1年間で旅している98年はインド、パキスタンで核実験をしてるんですね。みんなが「原爆後のヒロシマの様子」などを僕に聞いてくるんですけど、まぁ答えられないですよね。「ヒロシマにはいまだに木が生えていない」って思っている人も多くいました。

■「ヒロシマ」の世界の中での意味を確かめたいって感じですか?

「被爆都市」としての認知は高いけど、僕らが言っているほど「平和都市」広島ではないんだなとすごく感じた時に、平和都市広島って逆に何?って、思いはじめました。そのあたりから西に行くにつれて最終目的はポーランドのアウシュビッツだということになります。
で、アウシュビッツに行ってみると何か全然過去の感じがしなかったです。結構近い過去なんですよね。私が1976年生まれってことは、原爆が落ちて30年後ぐらいです。今僕は39歳ってことは原爆が落ちてから僕が生まれるまでより僕が生まれてから今までの方が時間が近い。改めて近い過去なんだなと思いました。まだ終わってない感じです。

■で、卒業後はどうしました?

そうやって一年間、世界を回ってきてもいわゆる「就活」っていうのは、できなかったです。この旅行中にイランで政府開発援助(ODA)の仕事をしている日本の方と知り合って、夜な夜なビールを飲みながら話していると「日本に戻って何の仕事をするの」って言われて、「今迷ってるんですけど、いま旅しててやっぱり海外に関わることをしたいと思ってます。」って言ったら、「JETRO(日本貿易振興機構)やJICA(国際協力機構)、JBIC(国際協力銀行)があったり、民間では商社があったり、チャンスはすごく多いよ」と言われました。民間企業か、公的機関にいくかという選択肢があったんですけど、あまり商売には興味が持てなくて、政府系の財団法人日本国際協力センター(JICE)に就職しました。

■JICEではどんな仕事をされたんですか?

一番最初は国内での仕事でした。海外での災害時に、日本から救助隊や、医療チームを派遣するんですが、その方々が現地でちゃんと活動できるように様々な研修を行う部署にいました。
次はJICAに出向し、職業訓練のプロジェクトを担当しました。途上国において、若い人が手に職をつけて、それをその国の産業や工業にいかしましょうねというプロジェクト。どのような訓練を実施していくかなどを、現地の労働省などと一緒になって考えたり、大学や職業訓練校と一緒にカリキュラム作りをしたりっていうのをウガンダやサモア、エクアドルなどの現地と日本を行き来しながら担当してました。
海外にいけるというのは良かったですけど、やっている仕事は現場よりは、事務仕事が大半です。そこには少し違和感があって、もともと現場でやりたいと思っていたのに、結構お役所的な仕事で、現地の政府機関とのやりとりみたいなのが中心。別の生き方もあるのかな、と思い始めたのもこの辺りです。

work_kyrgyz1 キルギスタン政府の方々と(ご本人提供)

その後もともとの所属先であるJICEに戻り、インドネシアとキルギスタン、ウズベキスタンで国家公務員の人たちの育成プログラムなどを担当しますが、2007年に退職して広島に帰ってくることにしました。

■海外で仕事がしたかったのに、どうしてまた広島に?

理由は三つあります。一つは僕は兄弟がいないので、いつか親の面倒を見ないといけないだろうっていうのが漠然とあったんですが、50、60歳で帰ってきても、その時親っているのかな。しかも俺そんな歳になってから帰ってきても、そこからいったい何をするんだろうって思ったんです。
二つ目は、この仕事は面白かったんですけど、僕じゃなくてもできるんじゃないかって思いました。現場は、楽しいんですけどね。
三つめは、日本からの海外援助について考えるようになったことです。そのままで結構幸せな国なのに、高速道路つくって、携帯電話を普及させたりして、日本みたいになって、この国良かったねっていうの、怪しいなって思っていました。こんな悩みを友達に打ち明けたら、「じゃあ、何をやったら自分に一番うそがないの?」って言われた時にものすごく考えて、「広島に戻って広島のこれからに関わることをやりたい」と確信しました。凄い激震が走ったのを覚えています。それでもう退職願を書いて出しました。

■広島を7年間離れて久しぶりに帰ってきて、いかがでしたか?

時間の流れがゆっくりだなと思いました。人のスピードもそうですけど。僕が広島に帰ってきて、広島のこれからに関わることをやりたいって言ったら「おぉ、頑張れ」って皆にすごく言われました。そんなこと思ってるとき地元紙の中国新聞を見てたら、原爆資料館のトップ(広島平和文化センター理事長)がアメリカ人になったっていうのです。スティーブン・ リーパーという人だと。新聞などで調べるてみると、この人の言っていることに僕はすごく共感を覚えました。「国ができるもあるけど、 やっぱり大事なのは個、一人一人が一緒に動いて大きなうねりを作っていくことが、この広島には大事になる」といったことです。これはこの人に会うしかない!と思って思い切って会いに行きました。丁度彼も時間が空いていたのだと思うんですが1時間半くらい話しました。そしたら彼が、僕の手伝いしてくれたらいいと言ってくれて手伝いをすることになったのです。ボランティアとしてです。しかし、その後縁あってスティーブンのもとで2008年4月から2010年3月まで広島平和文化センターの職員として働きました。

■ スティーブン・リーパーさんから学んだことは大きかったですか。

「核廃絶は絶対できる」という強い想いや、彼の平和運動家としての活動は少し横において、彼の「生き方」がすごく僕は好きなんです。来る者は拒まない。だから僕のような、どこの馬の骨とも分からないやつがいきなり理事長室に来てもウェルカム、ウェルカムみたいな感じでうけてくれて、「面白いな、お前」みたいなことをね、立場を超えて話をしてくれる姿勢であったりとか。
僕の父親と同じ年なんですよ。68、9だけど、ほんとに子供のように好奇心のある人で、なんかこうありたいなっていう、なんて言うのかな、彼が目指しているものに共感というよりは「彼のあり方」、「平和的な在り方」に共感しています。

■で、その後「ひろしまジン大学」を立ち上げるんですね。

広島に帰ってきたときに地域の拠点みたいなものを作りたいというのがあったので、その2年間の間にカフェを作ってそこを公民館みたいなものしようと思ってですね、とあるNGOがカフェを運営を君に任してもいいよということを言われたので、そこで、あのー、公民館みたいなのを作ろうと動いていたんです。
一方で、東京では街を使った学び舎という「シブヤ大学」というのがあると、それは大学といいながらキャンパスがない。そんなおもしろいことをやっている人がいると聞いて関係者に会いに行きました。広島でこういうことをしたくてカフェを作りながら、やろうと思って準備しているんですって話をしたら、場所を持たなくてもいいんだと思いました。それで平和文化センターで働きながら現在の「ひろしまジン大学」を創るためのメンバーを募ったりとか、打ち合わせをしたりしていました。2010年3月に平和文化センターを辞め、その年の5月にひろしまジン大学を立ち上げました。任意団体から始めて、途中からNPO法人にしました。

opening_ceremony
ひろしまジン大学開学セレモニー(提供:ひろしまジン大学)

■「ひろしまジン大学」にはたくさんの先生がおられますが、どうやって集めたのですか

ひろしまジン大学(以下、ジン大)はこれまで230人ぐらい方に「先生」を担当いただきました。一コマ一コマの授業ごとに先生を探してきてる感じです。
ジン大のメンバーが面白い!と思う人や活動、お店や地域などを「授業」として切り取り、その場所に行って、その人にお話をしてもらったり、その人がやってることを一緒に体験したりっていう感じなんです。

■「ひろしまジン大学」をやってよかったなと思う瞬間はなんですか?

ジン大って、ボランティアスタッフとしてかかわっている人たちは、社会人がかなり多いんです。その人たちが2年とかジン大に関わって、転勤やどこかに移住したりもするんだけど、ここに関わったことで自分でも活動団体を作ってみましたとか、自分の街でこういうこと始めてみましたっていう人たちが少しずつ出始めているんです。これこそやりたいことだなと思っているというか、いろんな人の中にそういう火が起きていって、ここでトライアルでいろんなことをやってみた結果、あ、自分にもできるじゃんっていうことに気づいて。
ジン大からは離れていったとしても自分でやりたいことをやれるようになったとか。そういう話を聞いたときが、ジン大をやってよかったなっていうか一番うれしい瞬間かな。

■ さて、これからの未来の広島をどうしていきましょうか?

僕、世界に出てみて思ったのが、「ヒロシマ」ってすごい知名度なんですよ。一地方都市の知名度とは思えないくらい知られている。ニューヨークばりに。だけど、その知られている「ヒロシマ」っていうのが原爆の「ヒロシマ」なんですね。今の広島じゃなくて、70年前から時間が止まった広島です。今の広島が伝わっていない。アップデートされていない。でも、それは全く逆に変えれば、すごい可能性を持っているなって思うんです。これから新しいブランドをみんなに買ってもらおうと思って、ブランド名を知ってくださいって言って商品を売るのよりも、もうすでに知られているブランドで新しい改革をしていく方がやりやすいと思うんですよね。
で、多分知られている内容が絶対値マイナス100ぐらいの、暗いインパクトで知られているから、それを絶対値を同じプラスに転じられたら、凄い波及効果が高いというか、広島のポジティブなメッセージをいろんな国に伝えられるなというのが、良い意味では可能性をすごく秘めていると思うんですよ。
ぼくはジン大をやっていて、広島の街をこうしよう!という街のイメージをあまり言いません。それはあくまで僕のイメージでしかないので。
それより、ジン大に関わる人たち、広島の人たち、みんながこの広島をどうすればいいかなって思い、主体的に考え、行動する人たちが増えていったらいいなと思っています。

■長時間、ありがとうございました。

(2015年6月24日、ききて:西村仁志とインタビュープロジェクト学生)