第一章 ジョン・ミューアの生涯:概略

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[1] John Muirの生涯:概略
[1.1] Scotland, Dunbar時代(1838〜1849)
John Muirは1838年4月21日、スコットランドのEdinburgh(エジンバラ)近くの町、Dunbar(ダンバー)にMuir家の第三子、長男として生まれました。生まれた当時の家族構成は父Daniel(1804-1885)、母Anne(1813-1896)、長女Margaret(1834-1910)、次女Sarah(1836-1932)で、やがて次男David(1840-1916)、三男Danniel(1843-?)、双子の三女Annie(1846-1903)、Mary(1846-1928)、末娘のJoanna(1850-?)が生まれることになります。没する一年前に書き上げた自伝『The Story of My Boyhood and Youth』(1913年)によると、3歳の頃には古城での壁のぼりや家の三階の窓枠にぶら下がったこと、飼い猫に石を投げたり、高いところから落としたことなどが書かれています。7〜8歳の頃にはグラマースクールに進み、鞭を振るわれながら、ラテン語、フランス語、算数、地理などを学びます。家では父親からも、鞭を振るわれながら聖書の暗記を強いられ、11歳頃には旧約の4分の3と、新約のすべてを憶えこんだようです。戦争ごっこもさることながら、もっともエキサイティングな遊びは火薬遊びだったようで、パイプに火薬をつめ、簡単な鉄砲のようなものを作り、一度も成功したことは無かったものの、鳥を撃ち落とそうとしたと書いています。 Muir11歳の1849年のある日、父のDanielはアメリカへの移住を家族に告げ、次の日Sarah、David、そしてMuirのをつれGlasgow(グラスゴー)からアメリカ行きの船に乗りこむことになります。
[1.2] Wisconsin, Fountain Lake(1849〜1855)
ニューヨークに到着した一行は、ハドソン川をさかのぼりアルバニーにぬけ、エリー湖、ヒューロン湖、ミシガン湖を経由してミルウォーキーに到着しました。そこからは馬車で、北西百マイルほどにある町Prortage付近に移動し、そこに落ち着くことになります(註:この移民時のルートはWolfeによるもので、Muir本人は、ミルウォーキーについてしか述べていません)。そこには湖があり、DanielはそれをFountain Lakeと命名しました。やがて家を建て終わった11月、スコットランドに残っていた家族が合流します。Fountain Lakeでの思い出は、野原で遊んだりした楽しいこともあるものの、どちらかというと、父の怒りを買って撃ち殺されかかり、最後には手放された飼い馬のJackや、近所の鶏を食べてしまったため、同じく父に殺されてしまった飼い犬の”Watch”の悲しい話や、日々のつらい農作業のことが主に書かれています。Danielはかなり厳しくMuirを働かせ、おたふく風邪をわずらったときでも休めず、ただ一度農作業から開放されたのは肺炎を患ったときでした。ある年の7月4日、Danielには珍しく子供たちに休みを取らせ、MuirはそのときFountain Lakeで一度はおぼれかかったものの、翌日には再び湖に戻り、その恐怖を克服して泳ぎを覚えます。1854年には、友人からの勧めで、Miltonの詩などを覚えたり本を読み始めたりしましたが、父DanielはそんなMuirに全く理解を示しませんでした。
[1.3] Wisconsin, Hickory Hill(1855〜1860)
Muirが17歳のとき(1855年)に、Daniel(父)は近くにFountain Lake農場の倍近い広さの土地を入手します。このことはMuirに、再び始まる過酷な開墾作業を髣髴とさせ、かなり落胆させたようです。1857年には、その新しい農場、Hickory Farmへと移ることになりました。そこで井戸掘りをしていたときに、Muirはガスで中毒し、危うく命を落としかけました。過酷な開墾作業の間にも、Muirは時間を見つけ、数学などを独学で学び始めます。食後の礼拝の後、本を読むMuirに、Danielは朝早く起きて読むように命じます。次の日からは普段よりも5時間早い真夜中に起きだし、読書や発明に時間をあてるようになりました。こうしてMuirは、やがて温度計や、時計などといった発明品を作り上げていきます。1860年のある日、知人のWilliam Duncanに、Madisonで行われるState Fair(Wisconsin State Agricultural Fair)への出品をすすめられました。Muirは三つの発明品と、母や1849年に祖父からもらった金貨、そして貯金しておいた10ドルほどを持って、David(弟)の馬車にゆられ近くの駅へと向かうことになります。
[1.4] Wisconsin, Madison :在学時代(1861〜1863)
State Fairに展示したMuirの時計、温度計、目覚ましベッドなどは新聞も含めて人々の賞賛を浴び、審査員の一人Jeanne Carr(Wisconsin大学教授Ezra Carrの妻)の推薦で特別賞を受賞することになります。そこでMuirの才能に目をつけたNorman Wiardという発明家に誘われ、Madisonから100マイルほど西にあるミシシッピ川沿いの町Prairie du Chienで、蒸気機関の氷上ボートのメカニックとして数ヶ月間働くことになります。またPelton家の経営するMondell Houseというホテルでの仕事も引き受け、Pelton家の姪Emily (後にカリフォルニアへ移住)とも知り合います。結局Wiardの処での仕事は思ったほど本人の役にはたたず、翌年(1861年)の始めにMadisonへ戻ることにしました。雑多な仕事をして生活費を稼いでいるうちに機会を見つけ、夏前にはWisconsin大学へ(仮)入学することになりました。J. Carrが、忘れていたMuirのことを思い出したのは、夫のCarr教授が自分の授業でMuirを見かけた話をしたときでした。State FairでMuirが目覚ましベッドのデモをするのを手伝っていたCarrとJames Butler教授の二人の息子たちは、やがてMuirが学校に入学したことを知り、J. Carrを説得し、一緒にMuirの部屋を訪れます。そこには、すでに有名になっていた目覚ましベッドのほかに、時計仕掛けの勉強机や、植物成長の記録装置などがあり、J. Carrを感嘆させました。1862年の始めごろには大学から10マイルほど離れた町で、化学や自然哲学を子供たちに教えて生活費を稼いでいます。その頃寮のルームメイトとなったCharles E. Vromanは当時を振り返り、Muirが聖書、学校の教科書、Robert Burnsの詩だけを読んでいたことを述べています。夏前には学生のMilton S. Griswoldに紹介され、植物学への興味を抱きはじめます。秋に姉夫妻に出した手紙では、近づきつつある戦争への不安とともに、新たな自分の進路(医学校へ進む)を示唆しています。現在ウィスコンシン大学には当時の記録は残されておらず、Muirがどのようなコースを取ったのかは確かめるすべはありませんが、自伝には化学、数学、物理、ギリシャ語、ラテン語、植物学、地学を取ったと記されています。1863年、夏休みに入るとMuirは、友人と共にウィスコンシン川沿いにPrairie du Chien方面へと植物採集の旅行に出かけました。その後は姉夫妻のいるFountain Lakeへ行き、半年近くを農作業を手伝って過ごすことになります。この夏を最後に、Muirが学生生活へ戻ることはありませんでした。Muirは後に学校へ戻らなかった色々な理由を述べていたそうですが、徴兵から逃れることが最大の理由であったと考えられています。そして1864年3月1日、Emily Peltonに手紙を出してそのままCanadaへ旅立って行きました。Muirは自伝の中で、この新たな旅立ちを”But I was only leaving one University for another, the Wisconsin University for the Univerisity of the Wilderness.”と表現しています。
この2年半の在学中、Muirは将来に大きく影響を与えることになった3人と出会っています。古典・ギリシャ語の教授James Butler(Emersonの傾倒者)からは日々の記録を書き留めることの大事さを教わり、Griswoldには植物学の基本を教わり、そしてJeanne Carrとの親交を結べたことです。Muirがヨセミテ渓谷での生活時代に、多くの著名人や社会的地位のある人々にめぐり会えることが出来たのは、ひとえにCarr夫妻(1868年にカリフォルニア大学のあるオークランドへ移住)のおかげといえます。
[1.5] カナダでの生活(1864〜1866)
Muirは1864年5月にはカナダのトロント付近へ到り、周辺でナイアガラ滝などを訪ねたり、植物採集の旅をした後、10月にはGeorgian Bay南岸の小さな町、Meafordの町に落ち着くことになりました。5〜6月ごろに湿地帯を歩いていたMuirは、Calypso borealisという蘭の花を見つけて深い感動を覚えます。
Meafordでは弟のDanielが以前働いていたWilliam Trout家に雇われ、農機具を作る仕事に携わることになりました。Daniel(弟)は南北戦争が終わるとすぐにWisconsinへ戻っていきます。
1865年の秋、J. Carrから手紙が届きました(この手紙は現存していません)。9月13日付けのMuirからJ. Carrへの最初の手紙はかなり長いもので、Wisconsin大学のSterling教授がMuirに送った、学費免除の手紙を受け取れなかったこと、大学には戻りたいが、人の役に立つ機械を発明する仕事もしたいこと、探険家Alexander Von Humboldtのようになりたいこと、在学時にCarr教授から自然科学を教わったりCarr家の蔵書を読ませてもらったことへの感謝などが書かれています。明らかにJ. CarrはMuirとの文通を望んでいたようで、Muirはややためらいつつも、喜んでそれに応じることにしました。こうして二人の30年近くに渡る文通が始まります。1866年1月の手紙からは、J. Carrのアドバイスをうけ、仕事に忙しい合間を縫って、Muirが羊歯、苔、地衣類といった植物の採集をし、その報告をしています。すでにMuirは農機具の工作機の生産効率を上げる発明・改良をしており、これによって費用が下がり、農民がより低コストで農作物の生産が出来るようになると自分の仕事を誇らしげにJ. Carrへ伝えています。しかしながら数ヵ月後の3月初め、Troutの工場は火事で焼けてしまい、Muirは自分が作った3万ほどの農機具を、利益を回収することなく失ってしまいました。これをきっかけに、Troutとの宗教上の意見の食い違いもあり、Muirはアメリカへと戻ることになります。
[1.6] インディアナポリスでの生活(1866〜1867)
カナダを去ったMuirはインディアナポリスへ向かい、馬車の部品を作る会社Osgood, Smith, & Co.に職を見つけます。ここでもMuirは発明の才覚を生かし、生産効率を上げる機械を作り上げ、評判を高めます。1866年10月12日のJ.Carrからの手紙は、孤独であるともらしてしていたMuirを慰めるものでしたが、わずかですが二つの重要な話題に触れています。ひとつはカナダでCalypso蘭を見つけた時の事を尋ねたことで、Muirはそれに応じ、すぐ花との出会いの時の短いエッセイをJ. Carrへ送っています。これはButler教授の手に入り、年末には二人には知らされずに無断で新聞(「Boston Recorder」,1866年12月21日)に投稿され、Muir初めての著作となりました。生存中に出版されなかったものの、Muirは自伝の続きで、花との出会いがヨセミテでEmersonに出会ったのと同じ位自分の人生で印象深いことであったと書き残しています。もうひとつは「The Stone-Mason of Saint-Point」(1851年:フランスの詩人Alphonse de Lamartine著)という本について聞いたことです。まだ入手できていないことを知ったJ. Carrは、12月に自分の持っている本を送り、Muirはかなりの興味を覚えて読むことになります。登場人物の石工職人Claudeとナレーターとの神学的論議は、以後のJ. CarrとMuirの関係に大きな影響を与えたと指摘されています。春前にはButler教授の紹介により、Merrill・Moores両家の人々との親交が始まります。1867年3月上旬、工場での作業中に、先のとがった爪やすりが右目に刺さり、視力を一時的に失うという事故に遭います。話を聞いたJ. Carrは、Muirを元気づけるために植物やWisconsin大学での話題を中心とした幾通もの手紙を書き送ります。4月15日には、「Yosemite Valley」に関する記述を友達に読んでもらうよう勧めています。Muirは1年前にはすでにその記事を読んでおり、そして毎日のようにヨセミテのことを考えていると答えています。一時は失明への恐れでかなり落ち込んだMuirでしたが、次第に視力も回復し、6月9日にはJ. Carrに宛て、これからMerrill Moores(Moores家の子供で当時11歳、後に弁護士・連邦議員となる)と共にイリノイで植物採集をしながらWisconsinへと向かい、そして夏の終わりには南に向けて旅立つ計画を告げています。二人は夏をMuirの故郷で過ごし、またCarr一家と共に植物採集の旅に出かけた後、8月中旬にはインディアナポリスへ戻ってきました。
[1.7] 1000マイルウオーク(1867〜1868)
インディアナポリスに戻ったMuirは、8月30日のJ.Carrへの手紙で「I wish I knew where I was going. Doomed to be”carried by the spirit into the wilderness,” I suppose.」とウィルダネスへ引き込まれていく心境を告げ、行き先も決めないまま旅立っていくことになります。9月1日には汽車でJeffersonvilleへと向かい、そこからケンタッキー、テネシー、ジョージアへと向かい徒歩旅行を始めます。10月上旬にはジョージアのSavannahに達し、そこで送金を受け取る間、ひもじい思いをしながら墓地で寝泊りします。お金の工面がつくや、蒸気船に乗って10月15日にはフロリダのFernandia(大西洋側)に向かい、そこからはフロリダ半島の付け根を南西に横断、10月23日にはメキシコ湾に面したCedar Keyにたどり着きました。しかしキューバに渡る船を待っている間にマラリアに倒れてしまいます。この間Muirは、ケンタッキー、ジョージア、フロリダからJ. Carr宛に手紙を数通出し、途中で見た植物のこと、今後のルート、さらにはキューバ経由で南米へ向かう決心をしたこと、手紙の受け取り先、墓地で思ったこと、熱(マラリア)で倒れたことなどを伝えています。J. Carrは幾通も返信を出しましたが、Muirの手元に届いたのはわずか一通でした。南米旅行はMuirが以前からあこがれていた探検家Humboldtの南米探査行が影響を与えています。マラリアは完治していないないものの、1月には帆船でキューバへ出発します。1月12日にはハバナ港へと入港し、そこを中心に一月あまり周辺の探索をしてすごしました。そこから南米行きの船を捜したものの便は見つからず、また、依然健康もすぐれないことから、とりあえずはカリフォルニアへ行き、森や山を見て回ってから、一年後に南米(アマゾン)行きを目指すことにしました。こうしてMuirはオレンジを満載した船に乗りNew Yorkへと渡り、そこからSantiago de Cuba号とNebraska号を乗り継ぎ、パナマ地峡を越えてサンフランシスコへと向かいました。このインディアナポリスからキューバまでの旅行の話は、Muirの没後、「A Thousand-Mile Walk to The Gulf」(1〜9章)としてBadeにより編纂・出版されることになります。
[1.8] ヨセミテ・シエラネバダ(1868〜1875)
1868年3月28日、サンフランシスコに着いたMuirは、船で知り合ったChilwellと共にすぐヨセミテ渓谷・Mariposa Groveへの短い旅行に出かけました。ヨセミテから戻ってきたMuirは、シエラ山麓の小さな町Hopetonで農場の仕事を見つけます。7月26日にはJ. Carr宛に手紙を出し、キューバからカリフォルニアに到った経緯や、ヨセミテ旅行のことなどを含め近況を書き送ります。すでに夫のE.Carr教授はWisconsin大学を辞し、二人はVermontに移っていました。8月31日、転送されてきた手紙を受け取ったJ. Carrは、Muirの無事を喜び、自分たちがカリフォルニアもしくはアルゼンチンに行く予定である旨を書いています。Muirは一年近くLa Grange・Snelling付近で羊飼いなどの仕事をした後、1969年6月〜9月の間、Pat Delaneyからヨセミテの山で羊飼いの監督をする仕事を引き受け、ヨセミテ渓谷の北側やTuolumne Meadowsでキャンプをして過ごすことになります。この夏のことは、『My First Summer in the Sierra』というエッセイとして、1911年に出版されることになります。本では8月にヨセミテ渓谷を訪れてきた、ウィスコンシン大学のButler教授と再会したことが書かれていますが、すでにサンフランシスコ湾の町San Mateo(サンマテオ)に移っていたJ. Carrも、Muirに会いに7月下旬ヨセミテ渓谷を訪ね、James M. Hutchingsのホテルに滞在しています。しかし、うまく連絡がつかず、その時は二人は会うことが出来ませんでした。E. Carrはこの夏、Univ. of Californiaでの教職のポジションを得て、一家はオークランドに居を構えることになります。山からLa Grangeに戻ってきたMuirは、しばらくDelanyの農場で働いていましたが、同年11月にはHarry Randallと共にヨセミテ渓谷に行き、Hutchingsのホテルでの雑用の仕事を得ます。1870年4月5日付けのJ. Carrへの手紙には、Josiah D. Whitneyの唱えていたヨセミテ渓谷の形成説の疑問を抱いていることが書かれています。8月には、J.Carrの紹介を受けたUniv. of Californiaの地学教授LeConteとその学生らがMuirを訪ねてきて、共にハイシエラ(Tenaya Lake、Toulumne Meadows、Mt. Dana、Bloody Canyon、Mono Lake)方面に10日間の旅に出ました。ヨセミテ渓谷を見下ろすEagle Peakの上では、ヨセミテ渓谷の氷河形成説に関して意見を交換します。この夏、伯爵夫人でもあり作家のTheresa Yelvertonが、Hutchingsのホテルに滞在しており、MuirやHutchings家の娘らを題材にした、『Zanita:A Tale of theYo-semite』というロマンス小説を1872年に書き上げることになります。Muirは、秋になるとHutchingsから住んでいるキャビンを開け渡すよう要求され、やむなく渓谷を去り、10月から数ヶ月間、再びDelaneyの牧場で働くことになります。しかし1871年初春には再雇用され、渓谷に戻ってきます。このときMuirは、製材所の壁から張り出した小部屋を作り、そこに住むことになります。5月には、Ralph Waldo Emersonがヨセミテ渓谷を訪れます。その際J. Carrから紹介もあり、EmersonはMuirを何度か訪ねます。帰り際MuirはMariposaまで同行し、共にセコイアの木の元でキャンプすることを薦めましたが、Emersonの健康を気遣った付き人らの反対でそれは実現できませんでした。夏にはCascade CreekやYosemite Creek付近を歩き回り、氷河の痕跡を調べます。この頃Hutchingsとの契約が切れ、翌年夏にRoyal Archの麓に自分のキャビンを建てるまで、MuirはA. G. Blackの経営するホテルに住むことになります。9月上旬にはヨセミテ渓谷を訪れたMITの学長John Daniel Runkleを、5日間に渡って案内し、自説の氷河論を延々と展開します。RunkleはMuirに論文を書くことを勧め、それに応じてMuirは、原稿を送るので何か有用なものがあれば、使ってくれと答えます。翌年、同大学のSamual Kneeland教授は、MuirがRunkleに送った手紙の内容を勝手に引用し、学会で発表してしまいます。これを知ったMuirはかなり気分を害することになります。
9月中旬にはTen Lakes付近からTuolumne渓谷へ初めての下降を行います。この記録は2年後、Overland Monthly誌に”Exploration in the Great Tuolumne Canyon”と題して発表されます。冒頭にはWhitneyのヨセミテ渓谷形成説への反論も書かれています。10月になると、ヨセミテ渓谷の南にあるMerced山群で、現存する氷河を発見します。11月にはHetch Hetchy Valleyを初めて探索し、翌月には過去にヨセミテ渓谷に氷河が入りこんでいたことを主張する”Yosemite Glaciers ”を、New YorkのTribune誌に投稿しました(これには氷河の発見は書かれていません)。
1872年3月のある夜、Muirは渓谷で地震を経験し、その様子をすぐ”Yosemite in Winter”に書いています。7月にはHarvard大学の植物学者Asa Grayが訪ねてきて1週間のキャンプ旅行をし、Grayとの交友が始まります。同じ頃、インディアナポリス時代の友達Merrill Mooresが訪ねてきて、Muirとヨセミテで過すことになります。夏から秋にかけては、Galen Clarkと共にHetch Hetchyから入り、Tuolumne渓谷のゴルジ地帯(Muir Gorgeと後に命名)を遡行し、そのすぐあと氷河の実在を証明するために、McClure(Lyell渓谷)やHoffmannの氷河上に棒を立て、移動量を計測しました。このときTen Lakes付近から再びTuolumne渓谷中央部へと下降しています。一連の測定のための山行を終え、ヨセミテ渓谷に戻ってきた10月上旬、J. Carrの紹介状をもってヨセミテ渓谷に来ていた画家のWilliam Keithらを案内し、Lyell渓谷に再び出かけます。その際、一人Donohue Passを越えてSan Joaquin水系側に入り、Mt. Ritterに初登頂します。晩秋には一時ヨセミテ渓谷を離れ、2週間ほどオークランドを訪ね、戻るとすぐに12月のTenaya渓谷を遡行しました。そしてこの月”Living Glaciers of California”をOverland誌に投稿し、ヨセミテに氷河が存在することを、移動量の測定結果を添えて発表しました。
1873年の夏には、J. Carr、Keith、植物学者のAlbert KellogらとTuolumne渓谷を遡行したり、5週間にわたる、ヨセミテの南・東側に当たるSan Joaquin水系の単独探査を行いました。ヨセミテ渓谷に戻ってきたMuirは9月3日、姉のSarahに手紙を書き、この探査行がこれまでで一番長く辛いものであったこと、そして次のシエラ南部(及びLake Tahoe)への旅が待っている事と、執筆の為に冬にはOaklandへ行く事を伝えています。9月末、MuirはKellog、画家のBilly Simms、そしてヨセミテガーディアンのGalen Clark(途中まで同行)とシエラ南部への長期旅行に出ました。South Fork San Joaquin、North Fork Kings River沿いに南下した一行はKings渓谷に至り、そこからKearsarge Passを越えOwens渓谷側に抜けます。このときMuirはIndependenceの町から東側の新ルートをとりMt. Whitneyの登頂に成功しました。これがMuirにとって初めてのヨセミテ以外のシエラネバダ探査行でした。その後Muirは、Mono Lakeで一行と別れTahoe Cityに行きますが、J. Carrを待つ間、Carr家の息子が事故死した連絡を受け取りました。このため冬に4年住んだヨセミテを去ってOaklandに来たMuirは、当初計画していたCarr家に間借りする計画を取りやめ、同市内に住むJ. B. McChesney家に身を寄せ、以後10ヶ月近くをかけ自説の氷河説をまとめることになります。それらは1874年の春から次の年にかけて、Overland誌に”Studies in the Sierra”として連載されました。執筆を終えたMuirは、1874年の秋にヨセミテでの短い滞在の後、北カリフォルニアのMt. Shasta・Modoc方面に向かい、San Francisco Bulletin誌に登山を含む旅行体験談等を投稿していきます。12月にはYuba CountyのBrownsville(Knoxville)に移り住んでいる、ウィスコンシン時代からの友人Emily Peltonを訪ねています。1875年2月末にOaklandに戻ってきたMuirは、4月には再びMt. Shastaへと行き、4月28日には山頂にマーカーを設置しようとする測量隊(Coast and Geodetic Survey)のガイド役として登頂、さらにその二日後にはJerome Fayと気圧の調査のため再び山頂に向かいます。しかし、二人は山頂付近で突然の雪嵐に襲われ、ビバークを余儀なくされます。雪が降り積もる中、頂上そばの噴気孔(泉)に体を伏せ、暖をとることができ、次の日には命からがら下ってくる事ができました。6月にはヨセミテ渓谷を訪れ、Keith、Swett、McChesneyらと共にMonoトレイルを使い、Tenaya Lake、Tuolumne Meadowsを経由してMono Lakeへ向かう旅に出ます。7月上旬にヨセミテ渓谷に戻ってきたMuirは、Charles Washburn、George Baylay、そしてロバの面倒見役の”Buckskin Bill”と連れ立って、Kings Canyon方面へ二度目の旅行に出かけます。再びKearsarge Passを越えOwens Valleyに入り、一行は東側からMt. Whitneyに上り、Mono Lakeを経由してヨセミテへと戻ってきます。8月下旬、Muirはセコイアの植生について調べるために、ミュールのBrownieを連れて再度シエラネバダの南へ向け、ヨセミテ渓谷を出発しました。このセコイア調査の旅で彼が見たものは、放羊や伐採などによって進む森林破壊でした。旅の帰りにはヨセミテ渓谷に立ち寄り、10月12日にGeorge Andersonによって初登されたばかりのHalf Domeを登っています。
[1.9] サンフランシスコ生活:ユタ・ネバダ探訪(1875〜1879)
Muirは、1875年の2月にはOaklandからSan FranciscoのSwett家へと住まいを移しました。John Swettは教育者で、J. Carrを介して1874年の冬に初めて出会っています。1875年夏にはMuirの案内で、ヨセミテ、Mono Lake方面への旅行をしています。Swettの回顧録によると、Bulletinに投稿をし始めた頃のMuirは、自分の自然描写の価値についてかなり懐疑的で、また読者は、自然の景観などを見たいなら直接現地に行くべきで、自分があえて代わりに行って書く必要はないだろうとも考えていました。Swettは、そんなMuirに文を書かせようと、かなり後押しをしたようです。
1876年1月25日、Muirはサクラメントで初めての講演を行いました。タイトルは”The Glaciers of California.”で、黒板の絵も使った90分にわたる話は、聴衆を楽しませました。2月5日にはSacramento Record誌に、”God’s First Temples:How Shall We Preserve Our Forests?”という初めて自然保護を訴える記事を書き、森林の環境に与える重要性を説き、見てきたばかりのセコイアをはじめとするシエラの森林の伐採や羊などによる被害を述べ、政府が何らかの対策を取ることの必要性を訴えました。この内容は、George P. Marshが著書”Man and Nature”で1864年に唱えた説にほぼ沿ったものですが、カリフォルニアでのMuirの主張は時期尚早であったのか、注目を浴びることはありませんでした。そして夏になると前年のようにBulletin誌のライターとして、Calaveras、Murphys、Yosemite方面を訪ねています。1877年は、Muirにとって目が回るほど忙しい年となります。5月には、Muirがセコイアに関して書き上げた論文がAsa Grayが委員を務める学会誌(Proc. of the Association of the Advancement of Science)に発表されました。これはMuirが自分で調べたセコイアの植生や、自論の氷河説と絡めた群生の分布などを論じたものです。本人はその頃ユタ州へと向かい、Wasatch MountainやSalt Lake Basin付近の探訪記をBulletinへ書き送ります。7月にユタから戻ると、Carr夫妻が移ったばかりのPasadena(南カリフォルニア)近くのSan Gabriel Mountainへと向かいます。その後は北カリフォルニアのShasta、Lassen方面へ、Asa Gray夫妻と英国の植物学者Sir. Joseph Hookerらを伴って植物採集の旅に出ました。Chicoからはボートでサクラメントまで下り、鉄道を乗り継ぎVisaliaへ行き、Kings Canyonへ向かいます。そこからは北へ峠を越えて、カリフォルニア地質調査隊(Whitney隊)のW. H. BrewerやC. KingがあきらめていたMiddle Fork Kings Riverの下降と探査を行いました。このあと、初めてカリフォルニアに来た年に住んでいたHopetonの町に立ち寄り、自分で船を作ってMerced・San Joaquin川を下り、Martinezにたどり着き、初めてStrentzel家を訪ね(11月27日)、数日間のもてなしを受けることになりました。John Sterentzelは、ポーランドから亡命した後ハンガリーで医学を修め、1840年にアメリカに渡ってきました。テキサスでLouisiana Erwinと出会い結婚、苦しい生活の後、1850年にカリフォルニアに移住し、1851年にはMartinezに落ち着きました。そこで土地を買い、果樹の品種改良などに励み、1870年代後半までには、果樹園業でかなりの成功を収めただけでなく、街づくりや経済発展にも尽力し、土地の名士となっていました。当時Strentzel家は、夫妻と娘Louie Wanda Strentzelとの3人暮らしで(Louieの兄弟二人はすでに他界)、Swett家やCarr家とは既知の仲であり、Muirは3年前にオークランドで会った際に、Strentzel家へ招待されていました。
1878年の夏から秋にかけては、US Coast SurveyのA. F. Rodgersの招待を受け、ネバダ方面の測量に同行します。このときのBulletinの記事のいくつかは、Muirの没後出版された『Steep Trails』で紹介されています。この頃からMuirは、東部の雑誌社Scribner’s(後のCentury誌)やHarper’sへ投稿するようになります。これらは1894年に『Mountains of California』として出版されます。この年からJ. Carrの強い薦めもあり、頻繁にStrentzel家を訪ねたり、文通を始めることにもなります。しかしながら、始めの頃はStrentzel氏に宛てたものばかりで、Louie宛に初めて手紙を書いたのは、1879年4月になってからでした。1879年5月、Muirはヨセミテ渓谷やGlacier Pointで自分の氷河論やセコイアの分布に関する講演を3度行い、多くの聴衆の喝采を得ることが出来ました。そしてその一ヶ月後の6月17日に、Strentzel家でLouieにプロポーズしました。これは夫妻が待ち望んでいたことで、母Louisiana の日記によると、その晩Louieはとても幸せだったと書かれています。しかしその二日後、MuirはJ. Carrに婚約のことを知らせずに、”Good-bye. I am going home, going to my summer in the snow and ice and forests of north coast”と言う書き出しで始まる手紙を送り、最初のアラスカ旅行へ旅立って行きました。
[1.10] アラスカ旅行・結婚(1879〜1881)
サンフランシスコから船でワシントン州に着いたMuirは、数週間ほどかけてPuget Sound(シアトル付近の入り江)付近の旅行をした後、オレゴン州のポートランドへ引き返し、そこから郵便船Californiaに乗り、アラスカ南東端へと向かいました。Baranof島のSitkaへの一週間ほどの航海の後、7月20日にはFort Wrangellに到着し、Muirはそこをベースにいくつかの冒険に出かけます。まず初めに宣教師らとStikine川を船で遡ったときに、Glenora Peakへの登山を試みました。Wrangellで知り合った宣教師のYoungが同行しましたが、途中で足を踏み外し、崖から落ちかけ、両肩を脱臼するという事故にあい、Muirに助けられながら一晩かけて船まで戻ってきました。そのすぐ後には、宣教師たちがチャーターした蒸気船Cassiar号に同乗し、Chilcat方面に向かいましたが、70マイルほど行ったところで船が故障し、引き返すことになってしまいます。8月には再度Stikine川を訪ね、前回登り損ねたGlenora Peakの登頂とStikine氷河の探査をし、10月にカヌーでFort Wrangellへと戻ってきました。そして10月14日には、今回の旅行のピークともいえるカヌー旅行に出かけました。メンバーはYoungとガイド役のインディアン4人で、目指すは”Sidaka”(”不思議な氷の地帯”の意)と呼ばれる地帯です。この旅行で一行は氷河が後退したGlacier Bayを発見することになります。Muirは『Travels in Alaska』の10章で、100年前に探検家George Vancouverによって作られた地図と比べ、Glacier Bayの氷河の淵が18-25マイルほど後退していることを指摘しています。湾内の探査の後、一行はChilcatを訪ねます。帰りにはSun Dum湾内の探査も試みようとしましたが、インディアンの反対にあって取りやめ、11月21日にはFort Wrangellへと戻り、12月末の船を待ち帰路に着きました。この半年の間妻Louieは、なかなか連絡の付かないMuirを心配したり、早い帰還を願う手紙を何度も書いています。しかし当のMuirは、ポートランドでの講演やサンフランシスコでの用事などに追われ、Strentzel家を訪れたのは翌年2月に入ってからでした。MuirとLouie Strentzelの結婚は4月14日にとり行われました。Strentzel夫妻は、結婚祝いとして二人に家を贈ります(Strentzel夫妻は一時的に住まいを移し、1882年に3階建てのビクトリア調の家を建ててそこに移りました。これが現在NPSが管理するMuir邸)。この結婚のニュースは一生独身で過ごすだろうと思っていた友人をかなりびっくりさせます。そして結婚後2月ばかりでMuirは再びアラスカに出かけることになりました。
1880年8月8日、Fort Wrangellに着いたMuirは、再びYoung、インディアンらと共にカヌーでの探検に出かけます。まず前回調査し損ねたSun Dum湾を調査し、そこで見つけた氷河のひとつをYoung Glacierと命名しました。そしてTaku湾の探査の後、Glacier Bayの西側にあるTayler湾へと向かいます。Youngはこの旅行に、飼い犬のStickeenを連れてきており、やがてMuirの後をいつもついて歩くようになりました。8月30日にTayler湾のBrady氷河を探査したときにも、StickeenはMuirについて行き、長い一日を共にします。そして何度もためらいながら、Muirに励まされ危険なクレバスを渡ったときからMuirとStickeenは心を通わせることなりました。このStickeenとの話はやがて”An adventure with a Dog and a Glacier”として1897年9月にCentury誌から発表され、後に”Stickeen”と改題され1909年に出版、犬に関する物語として大好評を博することになります。帰りの船にMuirが乗り遅れるのを恐れた一行は、二日間休みなくカヌーを漕ぎ続け、船の到着する前にBaranof島のSitkaに到着することが出来ました。そこでは軍艦”Jamestown”の船長Beardsleeの歓待をうけ、地図作成にも協力しました。この地図は1882年海軍の報告書に添付され、Glacier Bayの氷河のひとつはMuir氷河の名を冠することになりました。
1880年の秋、2度目のアラスカ旅行から戻ったMuirは果樹園の運営に乗り出します。1881年3月25日には長女Annie Wanda Muirが生まれ、一家は幸せでした。そんな時、連邦の密輸監視艇Thomas Corwin号の船長Calvin Hooperが訪ねてきて、北方洋で行方不明になった探査船Jannettと二隻の捕鯨船の捜索への同行を依頼してきます。Sterentzel夫妻は反対しましたが、この頃健康を害し始めたMuirを気遣ったLouieの勧めで、5月4日Muirは、Corwin号に乗船し、アリューシャン列島のUnalaskaへと旅立ちました。船はベーリング海峡を抜けWangel島を目指しましたが、流氷に妨げられとりあえず引き返し、ベーリング海峡付近のPlovar湾、St. Lawrence島、St. Michaelsに補給・密輸監視のために立ちよります。そして夏、海の状況がよくなったときを見計らい、海峡を越えHerald島とWrangel島への上陸を果たしましたが、Jannett号が立ち寄った形跡は見つけられませんでした。再び流氷が近づいてきたため、船長は予定を早め帰還を決定、10月に戻ってきました。このときMuirはかなりの数の植物を採集してAsa Grayへ贈り、その中で新発見された種は、Erigeron MuiriiというMuirの名前を含む学術名が付けられました。さてJannett号の運命ですが、Corwin号が捜索している頃の6月、2年近く閉じ込められれいた氷から開放されましたが、船は破損のため沈没してしまいます。34人の乗組員はボートで脱出しましたが、9月にレナ川の近くの集落に生還できたのは13人だけでした。
この三度にわたるアラスカ探検の間、Muirはその様子をBulletin誌に書き送り、かなりの数の記事が投稿されました。これらはMuirの没後、『Travels in Alaska』と『The Cruise of the Corwin』として編纂され出版されることになります。
[1.11] 果樹園経営(1882〜1887)
三度に渡るアラスカ旅行のあと家庭生活に落ち着いたMuirは、以後6年にわたって義父から買い取ったり借り受けた2,600エーカーにも及ぶ果樹園の経営に集中することになります。これまで品種改良の実験に使っていた土地の割合を減らし、より収益性の高い葡萄や桃の栽培を行うようにしました。Muirの価格交渉のうまさも手伝い、経営はうまく行き、かなりの財を成すことになります。しかしその一方では仕事に追われ、この時期の執筆は、再版を除きほとんど途絶えてしまいました。1883年4月、ヨセミテ生活時代に頻繁に投稿していたサンフランシスコの雑誌社Overlandからの執筆依頼が来たときには、農作業が忙しいと断りの手紙を返しています。同じ頃、一緒にアラスカ旅行をしたYoungが訪ねてきたときには、仕事は順調ではあるものの、心はいつもかなたの丘や木々のもとにあり、生活に満足していないと心境をもらしています。
1884年夏、妻Louieの提案で、二人はヨセミテ旅行に出かけました。旅行中Louieは両親に手紙を書き、Muirの健康はあまりよくなく、回復するまで山にいるべきだと報告しています。妻が旅慣れしていないこともあり、Muirはこの旅行に$500ドルもの費用をかけています。これ以降二人が一緒に山へ旅行をすることはありませんでした。10月には、Century誌(1881年にScribner’s誌が改名)の編集員R. U. Johnsonから、執筆を止めてしまうのではないかと心配しており、また読者にとっても痛手だという手紙を受け取っています。
1884年12月、Muirは弟Davidに手紙を出し、1885年の農閑期(夏)には故郷を訪ねるつもりであることを伝えています。未刊の原稿となった”Mysterious Things”によると、1885年にKansas CityのJoanna(末娘)の家で暮らしている父の様子が思わしくないという連絡が入ります。それから数ヶ月経った8月末のある朝、突然の感覚に襲われたMuirは、妻に今行かないと父に会えないかもしれないと告げて旅立つことになりました。しかしこのときLouieの間でやり取りされた手紙では、実際には切迫したものではなく、途中Mt. Shasta付近やYellowstone国立公園に立ち寄る健康回復・気分転換も兼ねた旅であったことが伺えます。Louieは自分の両親がやっとMuirにとって山が大事であることがわかったこと、Muirの母や姉も理解してくれるであろうと述べ、果樹園のことは気にしないようにと気遣いの手紙を書いています。故郷Portageで兄弟一同を集めるなどの寄り道をした後Muirは、出発から一月後に病床の父を訪ねています。Louieへの手紙では、Yellowstoneですごした時間が少なくて不満だったこと、Portageで久々にあった人々、まだしっかりしていた数年前には、父DanielはJoannaに、Muirを始め子供たちにつらく当たったことを反省していると話していたこと、再会したときにはかなり衰弱し、Muirをほとんど認識できなくなっていたこと、そして10月6日の深夜に息を引き取ったときの様子が淡々と書かれています。そしてあと数ヶ月早く訪ねていればよかったと後悔しています。さて、このときのYellowstoneの訪問記は、10月末にSan Francisco Bulletinに投稿されました。後に加筆され1898年4月にAtlantic Monthly誌より発表され、1901年に出版される『Our Natinal Parks』の第二章に使われることになります。
翌1887年1月、次女Helenが生まれました。生まれつき病弱気味であったためその世話もあり、Muirはますます農園から離れられなくなりました。
[1.12] 著作活動の再開: Picturesque California(1887-1889)
1887年春、J. Dewing社から、『Picturesque California and the Region West of the Rocky Mountains』という連載ものの編集、及び投稿依頼の話が舞い込んできました。この仕事は3年間(1887〜1889)にわたり、26の読み物が書かれることになります。Muirはそのうち7本の投稿を担当しますが、最初の5本は以前に書いた記事を手直ししたもので、残りの2部は1888年のオレゴン、ワシントン方面への旅行を題材に書かれることになります(日本向けにも100部が印刷されています)。
1888年初夏、アラスカでの宣教の活動を終えたYoungが、南カリフォルニアに向かう途中、Muirを突然訪ねてきました。Youngの回顧録からは、当時のMuirは日々の生活に疲れきっており、ウィルダネスへ戻ることを強く望んでいたことが伺えます。その日YoungはMuir邸に泊まり、二人はアラスカの話に花を咲かせました。このYoungの訪問が影響を与えたのか、6月末には植物学者のCharles C. Parryと共に、Lake Tahoeへキャンプ旅行に出かけます。そして7月中旬からは親友のKeithと共に、オレゴン・ワシントン方面への旅行に出かけました。途中立ち寄ったMt. Shasta山麓の町Sisson’sでは、斧や鋸の伐採の音が以前より聞こえるようになり、Shastaのすばらしい森林が失われつつあると日記に書きとめています。オレゴンでのMt. Hoodの登山は、Keithが病に倒れてしまいあきらめましたが、シアトル付近ではSnoqualmie滝の探訪、そして地元の登山家らと共にMt Rainierの登山に成功しました。このとき登山のガイドを勤めたPeter Van Trumpは、1870年のMt. Rainer初登時のメンバーでした。Trumpは、1891年から、他の有志と共にMt. Rainierを国立公園にするための運動(すでに1883年初期の活動があった)を開始します。1893年2月Harrison大統領は、一帯をPacific Forest Reserveと指定し、同年12月には「Sierra Club」、「National Geographic Society」、「the American Association for the Advancement of Science」、「the Geological Society of America」、そして「the Aparachian Mountain Club」が連携し合い、法案提出の支援をすることになります。これにより運動に弾みがつき、Mt. Rainier一帯は、1897年のMt. Rainier Forest Reserve指定を経て、1899年に国立公園に指定されることになります。
さて無事下山したMuirに一通の手紙がLouieから届いていました。それは果樹園の仕事を放り出してでも執筆活動に戻ることを強く勧めるものでした:”A ranch that needs and takes the sacrifice of a noble life,ought to be flung away beyond all reach and power for farm…The Alaska book and the Yosemite book, dear John, must be written, and you need to be your own self, well and strong, to make them worthy for you.”
こうしてMuirは、1888年を境にその生活の重きを、徐々に果樹園経営から執筆活動や旅行へと移していくことになります。
[1.13] ヨセミテ国立公園の成立(1890)
1889年5月MuirはサンフランシスコのPalace Hotelを訪れ、”Gold-Hunter”という連載を企画するためにカリフォルニアにやってきた、Century誌のJohnsonと初めて会います。数週間で仕事を終えたJohnsonは、Muirと連れ立って6月上旬にヨセミテ旅行へと出かけました。二人はワオナ・ヨセミテ渓谷の観光の後、Tuolumne Meadowsに向かい、Soda Springsでキャンプをすることになります。このとき焚き火の回りで出た話題のひとつが、ヨセミテの自然に関するもので、それが後のMuirの運命を大きく変えることになります。Johnsonが、昔Muirが記事に書いた、花の咲き乱れる美しいメドウが全く見られなかったことに触れると、Muirは、羊によって荒らされてしまったと答えます。そして、羊たちは見える草だけでなく、根まで掘り出して食べてしまうために、後には荒地しか残らず、このことが土地の保水効果をなくし、春に水が一気に流れ出てしまい、夏は山に、ほとんど水がなくなってしまうと説明しました。Johnsonはそれに応じ、ヨセミテ国立公園を作り、自然を守る提案をしました。Johnsonの考えたシナリオは、まずMuirがCentry誌に、ヨセミテに関する二つの記事を書くこと。最初の記事(”The Treasures of the Yosemite”)でまず大衆の興味をひきつけ、次の記事(”The Proposed Yosemite National Park”)で、公園の境界などを提案する。そして自分は、(著作権関連の運動で勝手を知った)連邦議会に行き、その公地委員会で、写真とMuirの記事を持って、案をアピールするというものでした。さらに委員会には知り合いの議員がおり、助けてもらえるので、問題はないだろうと説明すると、最初は乗り気ではなかったMuirもさすがに同意しました。ヨセミテ旅行から帰ったMuirは、すぐさま3本の記事をSan Francisco Daily Bulletinに投稿し、ヨセミテ渓谷にはフェンスが張られていること、牧草や野菜が植えられていること、また馬などが放牧されたままになって荒れていることを述べ、州によるヨセミテ渓谷の管理のずさんさを糾弾しています。そして伐採により森林が失われていること、そしてそれ以上に問題があるのは羊による害であると述べています。 
この夏Muirが書いたLouieやウィスコンシン時代の恩師Butler教授宛の手紙からは、サンフランシスコのホテルにこもって、「Picturesque California」の執筆に追われていること、そして執筆の合間に果樹園経営に携わる忙しい毎日の様子が伺えます。
1890年1月号でCentury誌はヨセミテの問題を取り上げ、運動の口火を切りました。初夏にかけてJohnsonとMuirの間では、かなりの手紙がやり取りされ運動に絡む情報の交換がなされています。3月になると二人とは別に、カリフォル二ア出身の連邦議員Vandeverがヨセミテ国立公園を作る法案を提出しました。Johnsonは6月の連邦議会の土地委員会で、Muirの提案する境界を画いた地図に基づき、Vandeverの公園境界を拡大する陳述をしました。6月中旬にはMuirは約束していた二部の記事「The Treasures of The Yosemite」と「Features of The Proposed Yosemite National Park」を書き上げ、4度目のアラスカ旅行へと立つことになります(『Travels in Alaska』の第三部)。
ワシントンのPort Townsendでは、前年のMt. Rainier登山のメンバーであったHenry Loomisが加わりました。観光客を乗せた蒸気船Queen号は6月23日にはGlacier Bayに到着し、MuirとLoomisは上陸し、キャンプを設営しました。Muirは10年前に比べ、氷河がさらに1マイルほど後退していたことを確認します。7月中旬には橇を使って荷物を運び、1週間にわたるMuir氷河の単独探検に出かけます。雪盲になったり、水の詰まったクレバスに落ちるなどのアクシデントがあったものの、無事帰ってくることが出来ました。
9月上旬、アラスカから帰ってきたMuirを待ち構えていたのは、ヨセミテ渓谷委員会のJohn P. Irishによる新聞記事でした。それは、昔Muirがヨセミテに住んでいた時、木を切り倒したと中傷するものでした。Muirはすぐさまそれに反論する新聞記事を投稿します。Muirの書いたCentury誌の記事は8・9月号に掲載されましたが、9月の時点で、Vandeverのヨセミテ国立公園の法案は消えかかっていました。一方7月に、同じくVandever議員によって提出されたSouth Fork Kaweah Riverのセコイア群生区一帯を国立公園に指定する法案(George W. Stewartが運動の中心人物)は、Southern Pacific鉄道のZumuwaltのロビー活動により、9月25日にセコイア国立公園として成立します。そして議会会期末日の9月30日、Vandeverのヨセミテ法案は、修正法案H.R. 12187として突然浮上し、全く議論も無いままに両院を通過してしまいます。そして翌10月1日にはHarrison大統領はサインをし、これによりヨセミテ渓谷を取り囲む(渓谷は州の管轄)一帯が国立公園となりました。驚くことに、それにはVandeverが当初提案していた公園境界を大きくひろげ、ほぼMuir案に近いものなっており、かつ1週間ほど前に制定されたばかりのセコイア国立公園を、Giant Forest一帯を含め3倍ほどに拡大する項も盛り込まれていました。さらにはGeneral Grant Grove周辺も、国立公園に指定していました。
[1.14] Kings渓谷・シエラクラブ・ヨーロッパ旅行(1891〜1894)
ヨセミテ国立公園が成立してまもない10月末、義父のStrentzelが亡くなり、Muir一家は老いた義母の世話の必要もあり、Victoria風の家へ引越すことになりました。この弔事により、計画していたKings渓谷への旅行は翌年へと持ち越されることになります。1891年5月13日、MuirはJohnsonのために、Kings渓谷の地図を入手しにサンフランシスコへと向かいます、そして月末には、画家のCharles D. Robinsonと共にKings渓谷への取材旅行に出かけました。これはMuirにとって1873年10月、1875年7月、そして1877年10月に続く、4度目の南シエラ訪問となります。そのころMuirからの地図を受け取ったJohnsonは、個人的な知り合いになっていた内務省長官Nobleに、シエラネバダの中央部一帯を保留林と指定することを提案しています。夏にNobleから返ってきた手紙は、機会があれば努力すること、そして大統領も一考するであろうというものでした。11月にはMuirの旅行は、Century誌に”A Rival of the Yosemite”として掲載されます。これはKings渓谷の概略、アプローチ、渓谷景観の詳細な記述、過去4回の探査行などをRobinsonとMuirの描いたスケッチと共にまとめたものです。そして控えめながらも、Kings渓谷国立公園の設立を一案としての境界を描いた地図を添えて提案しています。しかし提案したものの進展は全くなく、Kings渓谷が国立公園となるには、さらに50年近くの歳月を経なければなりませんでした。
このころMuirの兄弟にはちょっとした災難が続きました。1891年春にKansas・Nebraskaで農業をあきらめたJohn Reid(妻はMuirの姉Maggie)一家が、そして1892年春には、友人と経営する卸業が行き詰った弟Davidが仕事をあきらめ、夫婦ともどももMartinezへと移ってきて、Muirの果樹園の仕事を手伝うようになります。結果的には、Muirは10年以上に渡った果樹園経営から開放され、いよいよ執筆・旅行に専念することができるようになりました。
1892年5月になると、以前から進んでいたシエラクラブ設立の話が最終段階に入り始めます。Muirは入会への招待を受け、快諾します。5月28日には、設立の中心的役割を果たしてきた、サンフランシスコの弁護士Olneyの事務所で、会が正式に結成され、Muirは会長として選ばれました。すでにワシントンでは、ヨセミテ国立公園の境界を小さくしようというCaminttei議員による法案成立の動きが出ており、設立間もないクラブは反対運動を開始することになります。2年後には、Caminetti議員の選挙での落選にも助けられ、この法案は廃案にいたりました。
1893年5月、Muirは先行するKeith夫妻の後を追うようにヨーロッパ旅行に出かけます。まずはシカゴ経由でニューヨークに行き、Century誌のR. U. Johnsonを訪ね、編集長のGilderを始めとして、John Burrough、Mark Twain、古生物学者のHenry Fairfield Osbornらに紹介されました。またJames Pinchot家も訪れ接待を受けています。ヨーロッパから帰って間もない、駆け出しの森林学者のGifford Pinchot(息子)と初めて会ったのもこのときです。その後二人はボストン方面に行き、Harvard大の植物学者Charles S. Sargentと会い、さらにはEmersonやThoreauゆかりの地Concordまで足を伸ばし、二人の墓、Walden Pond、Emersonの住んでいた家なども訪ねています。機会がある事に、人々にアラスカでの犬のStikeenとの話をしたことがLouieへの手紙には書かれてています。東海岸での滞在は長引き、ヨーロッパに向けてアメリカを出発できたのは6月末になってからでした。Liverpoolに到着したMuirは、そこからEdinburghへ向かい、Johnsonの紹介状を持って出版業者のDavid Douglasと会います(後にMuirの本をロンドンで出版することになります)。翌日には生まれ故郷のDunbarへ行き、そこで10日ほどを過しました。次に海を渡りノルウェイへと向かい7月末までを過し、再びイギリスに戻り、Wordsworthの故郷Lake Districtで一週間ほどを過した後、今度は大陸に渡り、スイスのGrindelwald(グリンデルワルド)、Interlaken(インターラーケン)、Chamounix(シャモニ)、Geneva(ジュネーブ)などの周遊をしました。9月上旬にはロンドンに戻り、イギリスの植物学者Joseph Hooker卿を訪ねてから、スコットランド、アイルランドを周り、月末にはアメリカ(ニューヨーク)へと戻ってきました。結局3ヶ月に渡る旅の間、MuirがKeith夫妻と落ち合えることは一度もありませんでした。
旅行から戻ってきたMuirは、本格的に『Mountains of California』の執筆に取り掛かります。1894年4月3日にはJohnsonに原稿を送り、添えられた手紙には、全16章のうち6っは新しく書いたもので、他は昔の記事(1875年と1882年に書かれたもの)を、かなり一生懸命書き直してものであることを伝えています。相当の自信を持ってこの本を書き上げたことが伺えます。この本は秋に出版されるやすぐさま売り切れ、Muirの生存中に10刷を重ねることになります。SargentはMuirに、”I have never read descriptions of trees that so picure them to the mind as yours do”と書き送り、その木に関する記述のすばらしさを褒め称えています。
[1.15] Forest Reserve・連邦森林委員会(1895〜1898)
話は遡り、ヨセミテ渓谷を取り囲む一帯が国立公園となった半年後の1891年3月、Forest Reserve法が制定されます。これは大統領に、独自の裁断でForest Reserve(保留林)を定める権限が与えられるものでした。これを用い、Harrison及びCleaveland大統領は、いくつもの保留林をアメリカ西部に指定し始めました。しかしこの法は、保留林が何の目的のためにあり、どう保護・管理されるべきかは全く定めておらず、違法な伐採や放牧などは放置されたままでした。1894年1月、Century誌は”The Army and the Forest Reserve”という論説を載せ、森林関連の権威であったハーバード大学のSargentが提案していた、保留林の管理案を紹介・支持しました。さらに1895年2月になると、”A Plan to Save the Forests”をいう特集を組み、Muir、Bernard E. Fernow(農務省森林部3代目部長)、Frederick L. Olmsted(Landscape Architect、ヨセミテ渓谷州立公園の立役者の一人)、Theodore Roosevelt(当時はCleaveland政権下で人事関連の仕事を担当。後にNY州知事、副大統領を経て大統領となる)、Gifford Pinchotをはじめとする識者らの意見が紹介されました。このときのMuirの主張は、[1] 森林が環境に与える影響を指摘し、[2]森林破壊の最大の敵が伐採と牧羊であることをあげ、[3]それらから保留林を守るためには,利益に惑わされない政府の軍が最適であること、[4] そして保留林はそのまま保存するだけではなく、資源として管理され使われるものでもあること、[5]ただ、一部は手付かずのまま残しておくというもので、おおむねSargentの案を支持していました。1895年8月になるとMuirは、Tuolumne渓谷やHetch Hetchyでのキャンプを含むヨセミテ旅行をし、ヨセミテ国立公園の設立翌年から始まった軍のパトロールのおかげで、ヨセミテの荒れた自然が回復しつつあることを確認し、旅行後すぐCenturey誌のJohnsonに状況を知らせています。11月はシエラクラブの会合で講演をし、最初にヨセミテに来た時、ヨセミテ国立公園の設立時、故郷ウィスコンシンにあるFountain Lake周りの土地の一部を買い取り、自然の保存(Preservation)を試みた話と交え、保留林の軍によるパトロール、そして持続性のある森林資源として使うための管理の必要性を述べました。
1896年2月15日、内務省長官Hoke SmithはNational Academy of Science(米国科学院)のWolcott Gibbsに、アメリカの森林の状況に関する質問状を送りました。これにより連邦森林委員会(National Forest Commission)が結成され、調査が開始されることになります。6月、故郷で病床にあった母を見舞ったMuirは、Harvard大学から名誉修士号を受けるためボストンに向かいますが、途中母の死を知ります。授与後ウィスコンシンに戻り、葬儀を済ませたあと7月にシカゴへ向かいます。そこで、Sargent(委員長、Harvard大教授)、W. H. Brewer(元Whitney隊メンバー、Yale大教授)、Arnold Hauge(USGS局長)、Henry L. Abbot(陸軍技術部隊・退役将軍)らからなる森林委員会に外部メンバーとして加わり、サウス・ダコタ、ワイオミング、モンタナ、ワシントン、オレゴン、カリフォルニア、アリゾナ州の山岳森林地帯の状況視察をしました。8月一行がワシントン州に立ち寄ったとき、MuirはHenry Fairfield Osbornと共に、5度目のアラスカ旅行に出かけます。モンタナから委員会に合流したPinchotもMuirから同行の誘いを受けましたが、都合のためどうしても参加出来ませんでした。予定ではSt. EliasとPrince William湾をめざしていましたが、Sitkaから先の船が見つからず、アラスカ南東部だけを訪ねて引き返すことになります。戻ってきたMuirは、オレゴンで委員会に再合流し、カリフォルニア、アリゾナでの視察に同行します。MuirとPinchotはCrater Lake(オレゴン)やGrand Canyonのアウトドアで共に過したすばらしい時の事を、お互いの日記や手紙の中に書きとめています。
10月に調査活動を終えた委員会は、報告書作成に取り掛かります。しかし作業は手間取り、当初の期限であった11月1日になっても提出できませんでした。結局1897年1月29日になって、新たな13の保留林(総計21Mエーカー)と2つの国立公園(Mt. RainierとGrand Canyon)の推薦だけがGibbs経由で内務省長官David R. Francisに提出されました。2月22日、任期終了直前のCleaveland大統領は、突然その13の森林地帯を保留林に指定する大統領令を発動しました。これは連邦議会に大混乱を巻き起こすことになります。議会は、大統領令を無効とするための文言を、通過しかかっていた別の法案に付け足そうとしましたが、大統領はその法案全体に拒否権を行使しました。こうして問題は次のMcKinley政権に持ち越されることになります。この頃Muirは、”The New Forest Reservation”(Mining and Scientific Press)と”The National Parks and Forest Reservations”(Harper’s Weekly)を投稿し、森林の政府による管理の必要性、そして一部手付かずの自然を守ることを訴えます。そして”The American Forest”(Atlantic Monthly誌)では、森林に関する法律制定の流れや、各国での森林管理の動きを述べ、最後に連邦政府のこれからの管理に大きな期待を寄せて書き終えています。新政権のもと、連邦議会は、USGSのWalcottや上院議員のPettigrewらが中心となって保留林管理のための法案をまとめ、6月4日、McKinley大統領のサインを得てForest Management Actが成立しました。これは以後63年近くに渡るアメリカの保留林(1907年よりは国有林と呼ばれる)管理のベースとなるもので、USGSの保留林の測量を許可し、内務省長官が管理のルールを決め、倒木や成長した木を販売、伐採の前には木にマーキングをするといった項目が盛り込まれていました。こうして保留林は、Muirが当初期待したような、一部を手付かずの状態で保存するようなことはなく、持続可能な天然資源の供給源としての位置づけがなされました。
Forest Management Actが成立してすぐの1897年8月、MuirはSargentとWilliam M. Cambyの二人の植物学者と共に、6度目のアラスカ旅行に出かけ、前年と同じ南東部を巡ることになります。おりしも一年前の8月にアラスカのユーコンで金が見つかり、そのニュースがたった1月前に、シアトルに届いたばかりでした。これによりアメリカではゴールドラッシュが起き、多くの人がアラスカを目指し、シアトルに集まってきました。San Francisco Examiner誌からの依頼を受けたMuirは、そこを目指すルートの解説記事を書くことになりました。記事は8月と10月に掲載され、Muirは金堀りは時間の浪費であるとかなり批判的なコメントを書いています。アラスカから戻る途中の9月5日、シアトルのホテル(The Rainier Grand Hotel)のロビーで農林省の生物局のC. Hart Merriam(父はスミソニアン学術協会のClinton Hart Merriamで、1871年にヨセミテに住んでいたMuirの案内で、Clouds Restに登っている)と共にワシントン州の森林を調査していたG. Pinchotと出会い、その日の午後と夕食を共にしました。WolfeはMuirの伝記『Son of the Wilderness』(1945年)の中で、このときの二人に起きた出来事をセンセーショナルに書いています。それは、Pinchotが保留林での羊の放牧はほとんど悪影響はないというコメントをし、それを朝刊で読み怒ったMuirが、ロビーでPinchotに詰め寄ったというというものです。現在の研究ではこれは根拠の無いものとなっており、当時の二人の関係は再評価されています。月末には義母のLouisianaが76年の生涯を閉じることになります。
1898年6月7日、Sargentに出した手紙からは、MuirがSargentの植物採集に協力していることや、アパラチア山系南部の森林地帯の調査旅行への招待に、とても乗り気であることが伺えます。この旅行は9月に実現し、Sargent、Canbyらと共に、ノースカロライナ、テネシーの森林を廻りはじめました。しかし1月ほどでSargentは健康を損ね、一行はボストンに戻ることになります。そこではHoughton Mifflin、Atlantic Monthly、Centuryといった出版社の関係者、故Asa Grayの夫人、Osbornといった面々と会ったり、カナダ(モントリオール)、バーモント、メイン州への旅行などをして11月上旬まで過し、その後は健康を取り戻したSargentと共にフロリダに向かい、最先端のKey Westまで訪れます。11月20日にはCedar Keysに立ち寄り32年前にマラリアで倒れたときに世話になったHodgson家を訪ね、ルイジアナ、テキサスを経て11月末にはカリフォルニアへと戻ってきました。
[1.16] Harrimanアラスカ学術遠征隊(1899)
1899年4月、MuirはC. Hart Merriamより、Union Pacific鉄道の社長Edward H. Harrimanが休暇をかねた、私費を投じて組織するアラスカへの学術的遠征旅行への招待を受けます。5月末には鳥類学者でCalifornia Academy of Scienceの博物館長であるCharles A. Keelerと共に鉄道でシアトルへと向かいます。ポートランド(オレゴン)では、汽車で到着するHarriman一行を待つ間、Crater Lakeを国立公園にするための運動をしているWilliam Gladstone SteelやLester Leander Hawkins(1871年のLeConteのヨセミテ旅行のメンバー)と会い、Forest Reserveでの羊の放し飼いの問題について話をしています。5月31日、Harriman一家をはじめ、科学者らを乗せたGoerge W. Elder号(Peter A. Dolan船長)はシアトルを出港しました。海岸沿いに北上し、Wrangell島を経由して最初の主目的地Glacier湾に到着します。そこでの探査の際、Muirは、氷河のひとつをHarriman氷河と命名することを提案し、Harrimanから感謝されます。6月14日に湾を出た船はSitkaへ向かい、そこからYukutat、Prince William湾、Kodiak島、Unalaskaを経由して、ベーリング海峡まで進み、7月中旬には、アラスカ側のPort ClarenceやシベリアのPlover湾に立ち寄りました。こうして遠征隊は、氷河の地図の作成や鳥類の採集をはじめ多くの科学的調査を終え、月末にはポートランドへと戻ってきました。この旅行時のMuirの日記は、『John of the Mountains』(1938)に収められています。数多くの科学者と知りあい、Prince William湾を探査できたMuirですが、一番の成果は、Harrimanとの個人的な親交を結べたこといえます。2年後Harrimanは、Southern Pacific鉄道をも掌握し、カリフォルニアでの政治的影響力を強めることになります。Harrimanの率いるSouthern Pacific鉄道は、Muirとシエラクラブが、ヨセミテ渓谷を国立公園にするための運動をした時に、ロビー活動の助力をすることになります。
アラスカから戻って間もない8月8日、Pinchotがサンフランシスコを訪ねてきます。目的は材木業界から、カリフォルニアの海岸沿いに群生するRedwoodの森林管理についての援助資金を獲得するためでした。このときPinchotは、引退したFerrnowの後を継ぎ、1897年7月1日より、農務省森林部の部長になっていました。仕事の前にPinchotは、Muir、C. Hart Merriamと共にSonora方面へ出かけ、羊の放牧の影響や、Calaveras Groveにあるセコイアの調査をしています。サンフランシスコに戻ると、シエラクラブのOlneyやJ. M. Hutchings(昔Muirがヨセミテ渓谷で働いていたホテルの経営者)とも出会っています。三人はサンフランシスコ湾北側のMill Valleyへも足を伸ばしRedwoodの見学もしました。このときPinchotは、MuirとMerriamの二人を”Two wonderful men to travel with”と日記に書きとめています。
[1.17] シエラクラブアウティング・Our National Parks(1900〜1902)
1900年、設立8年を迎えたシエラクラブは、メンバー数がほぼ2倍の400人近くとなっていました。1894年に入会し、この年からクラブの事務担当に就任したWilliam B. Colby(カリフォルニア大学卒業で法律を学んだ)は、森林や山のすばらしさを多くの人々に紹介できれば、自然保護活動も広まるだろうと考え、1901年の夏にクラブ主催のキャンプを企画しました。Muirの強い後押しを受けたクラブ最初のアウティングは、7月にヨセミテのTuolumne MeadowsのSoda Springsで行われ、96人が参加しました。キャンプ道具などはワゴンで運ばれ、初心者にも参加しやすいものとなっていました。このときMuirは娘のWandaとHelenと共に参加しています。半分近くのメンバーはMt. Lyellへの日帰り登山も行っています。単純なキャンプ登山に終わることなく、MuirやC. Hart Merriamなどによる講演も行なわれました。メンバーには参加前にMuirの『The Mountains of California』やLeConteの『Ramblings Through the High Sierras』などをあらかじめ読んでおくことが推奨されていました。アウティングは大成功に終わり、以後50年近くに渡りクラブの伝統的行事となりました。
9月McKinley大統領が暗殺され、副大統領のTheodore Rooseveltが、急遽後を継ぐことになりました。Rooseveltは、1888年に社会に影響力のある上流階級のメンバーを中心に作ったBoone and Crockett Clubという狩猟家のための団体を作り、狩猟のための動物保護、1891年のForest Reserve Act、1894年のYellowstone Park Protection Actなど森林保護法案の支持をしてました。G. PinchotはRooseveltの推薦によりメンバーとなり、またRooseveltがNY州の知事(任期:1898−1900年)であったときに州の森林に関する仕事で既知の間柄でした。すでに7月には179人の職員を抱えた森林部はBureau(局)へ格上げされていました。12月2日Rooseveltは、Pinchotが作成した森林政策方針の草稿をほぼそのまま用いて議会演説をします。これ以降”The fundamental idea of forestry is the perpetuation of forest by use.”というフレーズに代表される、持続可能な森林資源の利用のための政策をPinchotと共に推し進めていくことになります。同じ頃、PinchotとMuir共通の友人でもある農務省生物局長のC. Hart Marriamは、10月末にMuirに手紙を送り、Rooseveltが森林保護や羊の放牧を禁じることに関して、自分たちの側についていること、そして政府関係者ではない方面からの意見も知りたがっていると伝えています。
11月、Muirの二冊目の本『Our National Parks』が出版されました。これは1897年から1901年にかけてAtlantic Monthly誌に投稿した、10本の国立公園関連の記事をまとめたものです。この本は幾度か再版を重ね、1911年までには8,000冊近くが売れることになります。そのいくつかの記事の中で、Muirの自然(森林)保護への新たなアプローチが読み取れます。例えば”Wild Parks and Forest Reservations of the West”(1898年2月)では、Mount RainierとGrand Canyon Forest Reserveを国立公園に指定することを呼びかけていまます。また”Hunting Big Redwoods”(1901年9月)では、Sierra Forest Reserveにあるセコイアの林が、ほとんど守られていないことを指摘すると共に、セコイア国立公園の拡大や、公園内部に残された私有地の政府による買い上げなどを唱えています。Muirは、軍が監視する国立公園のみが、遊び場としての自然を守るための唯一の方法と考えはじめたようです。1902年1月、MuirはC. Hart Merriamに手紙を書き、保留林内で羊の放牧を規制するルールは、現時点では厳守させることが出来ないので有名無実であること、また政治家は、羊の放牧業者寄りなので、この問題に目をつぶるような保留林の監督官を選ぶだろうとし、政治とは無関係な軍によるパトロールの必要性を述べています。この頃連邦政府では、保留林を所有する内務省にも森林部が設立され、その職員が森林のパトロールや書類手続きをする傍ら、農務省の森林部職員が森林そのもののチェックなどをするという、二重の管理が行われていました。
同じ頃、MuirはAtlantic Monthlyの編集長Walter Hines Pageに出版に関する礼状を出し、 ヨセミテ、カリフォルニアの木々、登山・キャンプ、アラスカ、地学・動植物、自伝といった6つのトピックに関する著作を開始していることを伝えています。1902年夏の2度目のシエラクラブアウティングは、200人ほどの参加者を集めてKings渓谷で行われました。Muirは再び二人の娘とともに参加し、その後友人のKeithらと共にGiant Forest、Kern渓谷に行き8月11日にはMt. Whitneyへも登ります。Fresnoに戻ってくる途中、円周153フィートの世界最大のセコイアが見つかったという噂話を聞きます。それまで幾度もそんな話を聞いていて気にも留めていなかったMuirですが、Fresnoで実際にそれを測って確認したという測量者に会うにいたり、思わず自分で確認するべくConverse Basinへとでかけます。しかしながらそれは最大のところでも円周が108フィートに過ぎないものでした。
[1.18] ルーズベルト大統領とのヨセミテキャンプ(1903)
Roosevelt大統領がヨセミテ渓谷に行くという情報を得たJohnsonは、大統領に手紙を書きMuirをガイドとして同行させることを薦めます。1903年3月、カリフォルニアの上院議員Chester RowellはMuirに手紙を送り、ワシントンから届いた個人的な情報として、大統領がカリフォルニア訪問の際、Muirとハイシエラに行きたいと思っていることを伝えます。3月14日には、カリフォルニア大学の学長Benjamin I. Wheeler気付で大統領本人から同行を依頼する手紙を受け取ります”I do not want anyone with me but you, and I want to drop politics absolutely for four days, and just be out in the open with you.”。すでにSargentと世界旅行の旅を計画していたMuirは予定を変更し、同行することになりました。5月15日、Roosevelt、Muir、Wheeler、カリフォルニア州知事のPardee、Rooselvelt秘書のLoebら8人の乗った馬車は、騎兵隊に護衛されてMariposa Groveに到着します。この後、Muir、Roosevelt、レンジャーのLeidigとLeonard、パッカーのAlderはセコイアの木の下でキャンプをし、翌日はGlacier Pointへと山越えをします。その夜、MuirとRooselveltはGlacier Point傍で焚き火をかこみ、Muirの氷河によるヨセミテ渓谷形成説、森林保護、国立公園を新たに設定することなどについて話をしたとLeidegは書いています。3日目はGlacier Pointで記念写真を撮ってから、Little Yosemite経由でヨセミテ渓谷へ下り、Bridalveil Fallそばで最後のキャンプをしました。翌日別れ際に、MuirがRoosevelt大統領にうっかり手渡したCharles Sargentからの手紙には、Muirと共に出かけるロシアと清の皇帝に便宜を図ってもらうことや、G. Pinchotの影響を受けたRooseveltの森林政策の批判などが書いてあり、Rooseveltの失笑を買うことになりました。MuirはLouieに”I had a perfectly glorious time with the President and the mountains. I never before had a more interesting, hearty, and manly companion.”、またC. Hart Merrianには”Camping with the President was a memorable experience. I fairly fell in love with him.”とRoosevelt大統領に抱いた好印象を伝えています。
[1.19] 世界旅行(1903〜1904)
Roosevelt大統領とのヨセミテ旅行の後、すぐに東海岸に向かったMuirは、5月29日Sargent親子(長男のRobesonが同行)と共にヨーロッパへ向かいます。ベルリンを経由してロシアに行き、首都St. Petersburgに入ります。7月4日にはフィンランド(ロシア領)のLindulaの森を視察、その後は南に向かい、クリミア半島(黒海北岸)のSebastopolやコーカサス地方を訪れます。3週間後にはモスクワへ戻り、8月上旬にはシベリア鉄道を使い、ウラジオストックへと大陸を横断しました。満州(ロシア領)を訪れた後は船に乗り、上海へと向かいます。ここからはSargent親子と別れ、単独で旅行を続けます。次の目的地はインドで、カルカッタへ船で向かい、そこから内陸へ入りダージリンへ行きヒマラヤの山々を望み、内陸を西に横断し、Simla移動インドの杉の森林を視察します。南下してボンベイ(現ムンバイ)から再び船でスエズ運河を越え、エジプトに行きピラミッド、スフィンクス、そしてナイル川を遡り南のアスワン神殿を訪れました。次にインド洋を渡り、オーストラリアへ向かい、12月16日には西岸の町Freemantle(パースのそば)に寄航しました。一日ばかり滞在した後、アデレードを経由し、メルボルンに到着、そこの植物園を訪れ、噂に聞いた高さ300ft.のユーカリプスの木について質問をしています。29日にはシドニーへ着き、Jenolan洞穴を訪れたり、植物園では再び300ft.のユーカリについて訪ねています。その後はニュージーランドを廻り、オーストラリア東岸沿いに北上し、ダーウイン、チモール、マニラ、香港、そして長崎・横浜、ハワイを経由して5月27日、サンフランシスコへと戻ってきたのは、出発から一年ぶりのことでした。
[1.20] ヨセミテ国立公園の境界縮小(1905)・ヨセミテ渓谷連邦に返還(1906)
世界旅行から帰ってきたばかりのMuirは、すぐヨセミテに関する二つの課題に係ることになります。ひとつはヨセミテ国立公園の境界変更です。1904年4月28日、連邦議会は内務省長官Ethan Allen Hitchcockに、ヨセミテの境界に関して、どの部分を公園として残すべきか調査するように命令を出していました。6月14日にはH. M. Chittenden、Bob Marshall、Frank Bondをメンバーとする、境界に関する委員会(Federal Boundary Commission)が設立され、7月9日にはヨセミテでのフィールド調査を終了、その後サンフランシスコで関係者らの意見を聞きます。シエラクラブとしては不満だったものの、現状をかんがみ、新しい境界には反対しない立場をとることにしました。こうして12月5日のHitchcockによる議会への最終報告に基づく法案は可決し、1905年2月7日にRoosevelt大統領は”An Act to Exclude from the Yosemite National Park, California, certain lands therein described, and to attach and include the said lands in the Sierra Forest Reserve”(H.R. 17345)法案のサインをしました。これにより1890年に定められたヨセミテ公園の境界が大きく変わり、Tuolumne、Mercedの二つの水系からなる現在の公園境界とほぼ同じになりました。
もうひとつはこれまで州立公園であったヨセミテ渓谷を連邦に返還する問題です。話は遡り1893年、JohnsonはMuirに対して、シエラクラブとしてヨセミテ渓谷を国立公園に編入するためのアクションを取ることを促していました。しかしMuirによれば、当時のシエラクラブの理事の多くは、消極的な態度を示していました。実際1890年代中盤ごろには、ヨセミテ渓谷委員会とシエラクラブの間は、協力関係にあり、キャンパーや旅行客のためのルール作成、シエラクラブのキャビン建設(現在のLeConteロッジの前身)などが行われています。1897年1月18日、MuirがOlney(シエラクラブの理事の一人)に手紙を書き、シエラクラブとしてヨセミテ渓谷返還を論議すべきであることを訴えます。同年2月には州知事に返還権限を与える法案を提出をしたものの、タイミングを逸し廃案になってしまいました。
1904年7月MuirとColbyは、連邦と州が同じヨセミテ一帯で管理することの無駄、州によるヨセミテ渓谷管理の予算不足からくる道路・宿泊施設不備、連邦に渓谷が返還されても、そのまま観光地として維持されることなどを指摘するクラブとしての意見書をまとめ、クラブ理事会の全面承認を得ます。これはパンフレットとして1905年の州議会が始まる前に議員らに配布されました。年末になると、ヨセミテ渓谷を連邦に返還することに関する論議がカリフォルニアで熱を帯びてきました。州議員のJohn Curtinや新聞社のSan Francisco Examinerは反対キャンペーンを開始、そのライバルSan Francisco Chronicleは賛成に回ります。このころMuirの要請を受けたColbyは、Southern Pacific鉄道のWilliam H. Millsの助力で、州議会に提案する法案の原案を書きあげます。1905年1月からMuirとColbyは、公聴会に出席するため、議会のあるSacramentoに幾度も足を運ぶことになります。ColbyはMuirに、1899年のアラスカ遠征でMuirと親交を結んだSouthern Pacific鉄道社長のHarrimanに、ロビー活動に協力してもらうよう勧めます。こうして返還法案は、2月2日には州の下院に於いて45:20で可決、2月23日には上院で21:13で通過しました。翌日MuirがJohnsonに出した手紙には、その嬉しさが満ち溢れています。1903年のRooseveltとのヨセミテキャンプで、Rooseveltと州知事Padreeが協力のスタンスを示していたこと、Mr.H(Southern Pacific鉄道のHarrimanのこと)が自分の手紙に応じて協力してくれたことなども書かれています。そして”I am now an experienced lobbyist; my political education is complete…”とロビー活動に自信を持った様子が伺えます。議会を通過した法案は、3月3日にはカリフォル二ア知事Pardeeがサインし、州がヨセミテ渓谷とマリポサグローブを連邦に返還することを決定しました。このことは、すぐ電報でカリフォルニア出身の連邦上院議員George C. Perkinsに送られ、それを受け取るための法案が同日中に両院を通過し、Roosevelt大統領のサインを得る事になりました。これにより騎兵隊は本部をWawonaからヨセミテ渓谷に移そうとしましたが、法的不備を指摘する州の運営委員会によって阻止され、1年ほど延期されることになります。
このころMuirの次女Helenは健康を損ねます。医者の勧めは空気の乾燥したところで一年ほど療養生活を送るというものでした。こうしてMuir、Helen、Wanda、そして看護婦の4人は、妻Louieを家に残しアリゾナへと出かけました。7月上旬になると、Louieが病にかかったという電報が入り、三人は急遽Martinezへと戻ります。しかしHelenはすぐに健康を崩し、MuirとWandaを残してArizonaへと戻ります。8月7日にLouieは、肺癌のため58歳の生涯を閉じることになりました。埋葬を終えたMuirとWandaは、アリゾナのAdamazaにいるHelenの元へ戻り、Adobe作りの家とテントという質素な施設で、一年近く過すことになります。冬の間MuirとWandaは周辺を探索し、新たに見つけた石化した木々を見つけ”Blue Forest”と名づけました。一帯は翌年に成立するAntiquities法の適用を受け、1906年12月にNationa Monumentに指定されることになります。
1905年12月19日、連邦上院議員のPerkinsは法案Joint Resolution S.R. 14を提出します。これは連邦が、カリフォルニアからヨセミテ渓谷を正式返還されることを承認するものでしたが、公園の一部をさらに23,000エーカーほど縮小する項が盛り込まれていました。これにはヨセミテ国立公園長のBensonやシエラクラブが反対し、下院議員のJ. N. Gilletが修正案HR.118を作り上げます。このころ再びMuirから依頼を受けたHarrimanは、議会に働きかけHR.118が議会で円滑に通過するよう協力します。1906年4月16日、HarrimanがMuirへ送った手紙には”I will certainly do anything I can to help your Yosemite Recession Bill”と書かれていました。HR.118は6月9日議会を通過し、6月11日のRoosevelt大統領によってサインされました。こうしてヨセミテ渓谷とマリポサグローブは、JohnsonとMuirがTuolumneのキャンプで話をしてから17年を経て、国立公園となりました。7月16日、MuirはアリゾナのAdamanaからJohnsonに、”Yes, my dear Johnson, sound the loud timbrel and let Yosemite tree and stream rejoice!”と喜びの手紙を書き送っています。
[1.21] Hetch Hetchy渓谷ダム化問題:前半(1905〜1910)
1900年、サンフランシスコ市長のJames D. Phelanは、市への水の供給問題を解決するために、技師のC. E. Grunskyに命じ、新たな水源の候補地としてTuolumne川沿いの調査を開始させました。同年5月、カリフォルニア出身の議員Marson DeVriesが、連邦議会に”The Rights of Way”(H.R. 11973)法案を提出し、1901年2月15日に成立します。これは内務省長官の裁量で国立公園内にダムなどを作る許可が出せるようにするものでした。同年10月15日Phelanは、Hetch Hetchy渓谷とLake Eleanorにダムを建設する許可を内務省長官Hitchcockに申請しますが、1903年1月に脚下されてしまいます。市の弁護士Franklin K. Lane(後にWilson政権で内務省長官となる)は再審査の嘆願書を出しましたが、1903年12月に再度脚下されてしまいます。さらに3度目の許可を申請しますが、1905年2月に却下されてしまいました。
1905年2月、Transfer Actが成立し、63Mエーカーにのぼる保留林は正式に内務省から農務省の管轄下へと移され、7月1日に森林局は、Bureau of ForestryからForest Serviceへと格上げされました。ちょうどそのころ1905年2月17日、シエラクラブのColbyは、森林局長のPinchotから手紙を受け取ります。それは、一週間ほど前、Roosevelt大統領に、サンフランシスコ市のLake Eleanorにダムをつくり、後にHetch HetchyとTuolumne Meadowsにダムを建設する計画を推薦したこと、またHetch Hetchyの景観を保護したい気持ちはわかるが、市への水の供給は大事であるといった内容のものでした。この手紙でシエラクラブは、初めて市の計画を知りますが、内務省長官の基本姿勢から、取り立てて危機感を抱くには到りませんでした。
1906年4月18日、サンフランシスコ大地震が起きます。街は火災に見舞われ、震災後の対策委員会で水不足の問題が指摘されます。このときMuirは次女Helenと共にアリゾナにおり、Wandaからの連絡を受けMartinezに戻ってきます。Muir邸にも被害があり、5本の煙突すべてが倒れてしまいました。翌月28日、 Pinchotは、市の技師で、シエラクラブメンバーでもあるMarsden Masonに、地震の見舞いとダム建設をサポートするという旨の手紙を送っています。そして11月15日には、Hitchcockに代り、新内務省長官に内定したJames R. Garfieldが、ダム建設に好意的であると連絡しています。
1907年3月5日Garfieldは内務省長官に就任し、早速7月にサンフランシスコで、ダム建設の件について市の代表と話し合いました。この夏(1908年夏の説もあり)をMuirは、Southern Pacific鉄道のHarrimanの別荘に招待されて、オレゴンのKlamath LakeのPelican Bayで過しています。このときHarrimanは、Muirの自伝を書く手伝いをさせるため自分の速記者をつけました。これはやがて『The Story of My Boyhood and Youth』(1913年)として出版されることになります。
8月30日、Muir、Colby、Joseph N. LeConte(1870年Muirと共にヨセミテ旅行をしたLeConteの息子)、William F. Bade、Edward Parsonsらシエラクラブの理事が集まり、ダム建設に関し、クラブとして初めて反対意見を正式に表明します。それはHetch Hetchyの美しさを述べた上で、道路がひとたび建設されれば立派な観光地となる可能性があること、ダム建設が当初の国立公園設立の本来の目的から逸脱しており、別の場所にダムが建設すべきであることを訴えるものでした。9月2日、MuirはJohnsonに手紙を書き、内務省長官が突然ダム建設に賛成する決定をしないよう働きかけるよう促しています。そして9月9日にはRoosevelt大統領に、Hetch Hetchy渓谷を開発から守るべきで、水は他からも得られること、状況がはっきりすればサンフランシスコの市民の90%が反対するであろうと言った旨の手紙を出します。しかし大統領からの返信は、現状ではほとんどがダム建設に賛成しており、自分としては反対しかねるといった内容のものでした。Pinchotは10月11日に大統領に宛て、Johnson、Muirのヨセミテを守りたい気持ちもわかるが、人口の集まる(サンフランシスコ)市に水を供給するのがもっとも有効な利用だと大統領の判断を援護しています。そのころMuirは、Keithと共にHetch Hetchy渓谷を12年ぶりに訪れていました。そして11月、Hetch Hetchy問題を指摘する最初の記事『The Tuolumne Yosemite in Danger』がOutlook誌に掲載されます。また前記のMuirと理事らの5人は、全シエラクラブメンバーに宛てて、大統領や内務省長官に嘆願書を出すよう勧める書信を送ります。しかしこれには、すべてのメンバーが同意したわけではありませんでした。
1908年4月21日、MuirがRoosevelt大統領に宛てた手紙では、Hetch Hetchy渓谷とLake Eleanorがダム化の危機に瀕しており、特にHetch Hetchyの許可申請だけでも却下できないか嘆願するものでした。この手紙の冒頭には”I am anxious that the Yosemite National Park may be saved from all sorts of commercialism and marks of man’s work other than the roads, hotels. etc., required to make its wonders and blessings available.”と書かれており、ダムのような産業化のための自然破壊は反対だが、観光化のための人工物建設などは可とする、Muirの当時の自然保護観が伺えます。これに応じRoosevelt大統領は、4月27日、Garfield長官にMuirからの手紙を添え、ダム建設はLake Eleanorだけに抑えられないかと訊ねます。しかし5月11日のGarfieldの決断は、まずLake ElearnorとCherry Creek(Stanislaus保留林区)を優先的にダム化すること、更に水が必要になったならHetch Hetchyをダム化できる、但しそれには議会の承認が必要だという条件を付けたものでした。5月16日、すかさずサンフランシスコ市は、市が所有するヨセミテ公園そばの土地を、Hetch Hetchy渓谷と交換する法案(H.R.184)を提出し、年末から上下院の公聴会が開かれました。当初はサンフランシスコ市の勝利が確定的でしたが、Johnson、Bade、Edmund A. Whitman、McFarlandをはじめとするシエラクラブ、Appalatian Mountain Club、American Civic Associationといった反対側の証言や、Muirのメッセージが書かれたパンフレットの議員への配布などが効を奏し、最終的に法案は保留されることになってしまいました。
1909年3月4日にWilliam Howard Taftが大統領に就任します。内務省長官に選ばれたのはRoosevelt政権のもとGarfiled内務省長官に解雇された内務省General Land Office(GLO)のRichard Achilles Balingerでした。とりあえず賛成・反対の両者は政権の動きを見守ることになりますが、10月にTaft大統領はヨセミテを訪れ、Muirと共に、4マイルトレイルのハイキングも含め3日を共に過します。その際、Hetch Hetchyダム化案の再調査をBalingerに指示し、MuirはBalingerに同行してHetch Hetchy渓谷を訪れます。戻ってきたMuirは視察を振り返り、Taft政権がHetch Hetchyを守る側につく確信を得たとColbyに書き送っています。
しかし当時のシエラクラブは一致団結してダム化反対を表明していたわけではなく、この頃内部での対立がかなり表面化し始めます。またサンフランシスコのメディアも市に同情的で、Muirらを厳しく非難していました。1910年1月29日Colbyの提案で、クラブとしての方向をはっきりさせるための投票が行われました。結果は589対161でダム化反対の意見が多数を占めました。ダム化賛成派は、主にサンフランシスコ湾周辺に住むメンバーで、結果に不満を抱く50人ほどのメンバーが退会しました。一方ワシントンでは、Balinger長官のアラスカでの利権に絡む政治スキャンダルを指摘し続けていたPinchotが、Taft大統領により解雇されてしまいます。
1910年2月末、Balinger長官はサンフランシスコ市に対し、5月までにHetch Hetchyをダム候補地に入れる理由を提示するよう命じます。5月25日にその公聴会が開かれ、サンフランシスコ市は1911年6月まで調査期間を延長することが許されました。
[1.22] 南米・アフリカ旅行(1911〜1912)
1911年Muirは、44年近く前に夢見た南米旅行を実現させることになります。1月末、Johnsonに宛てて書いた手紙からは”I hope to make that journey before it is too late.”と、既にその計画が温められていることが伺えます。早春の間は家に閉じこもり、”autobiography, and a book on Yosemite Valley and other Yosemites”と3冊の本を執筆します。最後の本は『My First Summer in the Sierra』で、1月から4月にかけてAtlantic Monthly誌での連載がされています。4月20日Muirは、Harriman家の専用列車に乗ってカリフォルニアを発ち、東海岸を目指します。5月8日、ワシントンではJohnsonと共に、Taft大統領、3月に健康を害して辞職したBalingerの後を継いだばかりのWalter Lowrie Fisher内務省長官、下院議長のClarkらに会い、Hetch Hetchy問題やヨセミテ一般に関する話をしています。Taft大統領は後に(7月8日)アメリカの領事館宛に電報を打ち、Muirの旅行を支援するように指示しています。5月8日Colbyに宛てた手紙では、6月にHoughton Mifflin社から出版されることになる『My First Summer in the Sierra』の扉にシエラクラブに捧げるというメッセージ”To the Sierra Club of Califonia Faithful Defender of the People’s Playgrounds”を入れることに決めたと書いています。
その後3ヶ月ほど東海岸で過し、Harriman家(E. H. Harrimanは1909年にすでに没しており、この年Harriman婦人の依頼でMuirは遺稿本を書いています)を訪れたり、Yale大学からの名誉学位授与式への出席、出版社との打ち合わせ、Osborn家での『The Yosemite』の執筆などをして過します。『The Yosemite』を書き上げたMuirは、8月12日Brooklyn港からDennis号に乗って南米へと出航しました。8月22日Barbados島で燃料補給に立ち寄った後8月30日、アマゾン川河口近くの港Belemに到着します。ここからは船で知り合ったYale大学卒業のゴム輸出業者のF. H. Stanfordとともにアマゾン川をManausまで船で遡りました(9月5日着)。9月末にはBelemを発ちBrazil東岸を南下しRio de Janeiro経由でSantosに着き、そこから汽車で10月12日にSao Pauloを訪れます。月末には船で更に南下し、11月7日にはアルゼンチンのブエノスアイレスに着き、車でアンデス山脈を越えサンチャゴ、ビクトリアまで足を伸ばし、11月27日にブエノスアイレスへと戻ってきました。12月10日、アフリカへ向けてMonte Vistaの港を去ります。その日の日記には、ブラジルの人々が親切で礼儀正しいこと、そして領事や公使らが色々と面倒を見てくれたことが書きとめられています。
大西洋を横断した船は、12月末カナリー諸島のTeneriffeに着き、そこで船を乗り換え、アフリカ西岸沿いに南下し、1月13日にケープタウンに到着しました。そこでMuirはビクトリア滝(ザンベジ川)、Beria(モザンビーク)、モンバサ、ビクトリア湖、Adan(イエメン)、紅海、地中海経由でナポリへ行く旅行券を買います。
ヴィクトリア滝の近くでは、アフリカ旅行の目的のひとつであったBaobab(Adansonia digitata)の木を見つけ、絵と共に日記に詳しく書きとめています。3月9日にはナポリに到着し、ポンペイ観光などをして一週間ほどを過し、3月末にニューヨークへ戻ってきました。4月には、南米旅行前に書き上げた『The Yosemite』が出版されます。そのHetch Hetchyの章は”Dam Hetch Hetchy! As well as dam for water-tanks the people’s cathedrals and churches, for no holier temple has ever been consecrated by the hear of man.”と、ダム建設を非難する厳しいメッセージで締めくくられています。
[1.23] Hetch Hetchy渓谷ダム化問題:後半(1912〜1913)
Fisher長官はHetch Hetchy問題に詳しくなかったため、前長官Balinderが指定したサンフランシスコ市の報告期限をさらに延長していました。1912年7月15日、技師のJohn R. Freemanは400ページにも渡る報告書を提出し、Hetch Hetchy渓谷のダム化が何故必要なのか回答しました。それには実質的なダムの建設の方法や、他の水源地の可能性の調査だけでなく、ダム化により美しい湖ができ渓谷の景観は損なわれず、また蚊の大発生も防げるという観光上の利点が述べられていました。Freemanの報告書に対抗してシエラクラブは”Colby Brief”と呼ばれる報告書を作成します。それはHetch Hetchy渓谷の将来は観光にあり、50〜100年後には、国民がHetch Hetchyに求めるキャンプ・ホテルなどの価値は、サンフランシスコが渓谷に水源として求める価値よりも遥かに高くなること、そしてHetch Hetchy渓谷にキャンプ場やホテル、Tuolumne Meadowsへと向かう縦断道路の建設などを提案するものでした。晩年のMuirの自然保護観は、このリクリエーショナル・ツーリズム的なものとなっており、年末にAmerican Alpine ClubのHoward Palmerへ出した手紙でも、交通事故の可能性はあるものの、観光の便を考え、ヨセミテ渓谷内に自動車が入ることに賛成の意を表しています。
11月25日、Fisher長官はようやく引き伸ばしになっていた公聴会を開き、Freeman、Masonの後を引き継いだMichael M. O’shaughnessyをはじめとするサンフランシスコ市側代表と、Colby、Johnson、Bade、McFarland、Whitman、Steven Matherらの反対派が出席して、6日間の討論が行われましたが、結論はでず軍の技術専門家に検討依頼がされます。1913年2月13日に出された結論はダム建設を支持するものでしたが、3月1日、退任を間際にひかえたFisherは、この件に関しては連邦議会の許可が必要であると判断し、決断は次の政権に持ち越されることになりました。
3月4日、Woodrow Wilsonが新大統領となり、内務省長官には、サンフランシスコで弁護士としてHetch Hetchyダム建設を推進していたFranklin K. Laneが選ばれました。これによりダム建設への動きは急速に進むことになりました。5月14日、Muirは長年の友人であり、隣人でもあるJohn Swett(1870年代にMuirはサンフランシスコで間借りしていた、後にSwettはMuir家の隣に引っ越してきた)と共にカリフォルニア大学(現バークレイ校)から法学の名誉博士号を授与されます。しかしSwettは8月その数ヵ月後には亡くなってしまいます。同月上旬には、カリフォルニア出身の下院議員John E. Rakerにより法案(H.R. 7207)が提出され、9月3日には下院を183対43の大差で通過します。この夏Muirは、東部の新聞社や雑誌社に反対の記事を書き、また10月末のシエラクラブの会合では、メンバーに、上院議員に対して抗議の手紙を送るよう強く訴えていました。法案はやがて上院に送られ、12月6日には43対25で通過し、12月19日にWilson大統領がサインをし、法案は成立しました。
[1.24] 終焉(1914)
この頃Muirは流感を患っていました。ダム論争に敗れたものの、OsbornやMerriamに宛てた手紙からは、落胆よりは、賛成した議員や大統領への怒りが伺えます。1914年1月12日、娘Helenへ出した手紙には、決着がついてほっとしたことや、アラスカの本を書き始めた近況を伝えています。
ところでMuirは、1912年秋からシエラクラブのMarison Randall Parsonsの助力を得て『Travels in Alaska』の著作に取りかかっていましたが、健康や、Hetch Hetchy問題の取り組み等で、著作活動は幾度も中断されていました。Parsons女史によれば、1914年のMuirは7時に朝食をとり、食事以外は夜の10時まで執筆に専念していたようです。特にMuirは文章の組み合わせにはかなりの時間をかけていたと書いています。1914年、卒業前の夏期休暇に東良三がタコマ(ワシントン州)から訪ねてきたときには彼を泊め、たまたま同じ時に訪ねていたCorwin号のHooper船長と引き合わせ、東のアラスカ旅行のきっかけを作ります。12月3日、Muirは誰もいない家から娘Helen宛の最後の手紙を出し、1週間後長女Wandaに見送られて、Helenの住むDaggett(Mojave砂漠の西側)へ向かいます。途中風邪を引き体調を崩したMuirは、Los Angelesの病院に移されます。一時状況は持ち直したかに見えましたが、クリスマスイブの夜に息を引き取りました。


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