A Sierra Storm:1864

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[西から望むMt. Clark]
11月5日、二頭のミュールに一週間分の食料と二枚の毛布を積んだKingとCotterは、マリポサトレイルを使い渓谷の南側に上り、Bridalveil Creekの東の支流まで進み、キャンプをします。翌日はIllilouette谷に下り、モレインを辿り、午後遅くMt. Clark南側のメドウに達しました。この頃から天気が下り坂に向かい始めます。翌12日は雲が低く垂れ込め、周辺の山々を包み込み、風が強く吹き始めました。Kingは天気の回復を待つこととし、この日は周辺で鉱物調査をして過ごすこととしました。夜半9時、突然風がやみ、雪が降り始めます。夜中、毛布がどんどん重くなっていくことを感じつつも、二人は眠り続け、翌朝目が覚めたとき、やっと1フィート半もの雪が積もっているのに気付きます。もはや登山どころではなく、二人は急ぎ朝食を済ませ、引き返し始めます。雪嵐のなか、往路に描いておいた絵地図とコンパスを頼りに、マリポサトレイルにたどり着けたのは出発から8時間後でした。
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[Inspiration Point付近から望む渓谷(現在のOld Inspiration Point付近)。カラーをセピア化しています]
標高も低くなり積雪量は減っていたもの、Inspiration Pointに達した時には、凍てつく雪混じりの烈風が渓谷から吹き上げており、進退窮まってしまいます。凍りついた木の下で1時間近く休んでいると、突然凪が訪れ、真っ白になったヨセミテ渓谷やハイシエラの山々が目前に出現します。このチャンスを見計らい、夕闇が迫る中、二人はトレイルを下り、心配する仲間たちの待つキャビンへたどり着くことが出来ました。夜半、一時的に星が見えたものの、早朝にかけて雷雨が通り過ぎます。降雪で渓谷から脱出できなくなることを憂えたCotter、Wilmer、Hydeの三人は、早朝にWawonaへむけ出発します。一方、King、Gardner、Clarkらは渓谷にとどまり、嵐がもたらした雪と、水と霧が作り出す、渓谷の奇観を見て過ごすことにしました。Merced川の水位は上昇し、キャビンに達するような勢いとなり、ヨセミテ滝は落ちる水で大轟音を発しはじめます。翌15日、夜半からの冷え込みと、再び始まった積雪を見て、さすがに三人も脱出を決意します。渓谷の底では7-8インチ程度の積雪でしたが、Inspiration Point付近では18インチの深さがありました。9時間後の午後4時にはWestfallのキャビン(Bridalveil Creek CGの南西)に到着しました。すぐ後には、心配したCotterがWawonaからのトレイルを戻ってきます。最悪の状況を考えたKingはCotterと共に、雪がちらつき始める中、まだ残ってる足跡を辿り、Wawonaへと向かうことにします。道に迷ったり、Cotterが疲れきって倒れるなどの困難がありましたが、深夜2時、どうにか二人はClark’s Ranchに到着します。Kingの心配は稀有に終わり、天気は翌日の昼までもち、GardnerとClarkも無事下山して来ました。
午後からは再び嵐が通り過ぎ、17日の朝までにWawona周辺に2ft.の湿った雪を降らせます。一行は重い機材は残し、必要最低限のものだけをミュールに積み、ChowchillaトレイルでMariposaに向かいます。交代で雪を掻き分けて進み、昼過ぎには峠に達します。反対側の下りには雪も序々に浅くなり、最後は豪雨の中、ところどころ鉄砲水で分断されたトレイルを進んでいくことになります。機材を積んだミュールが川に落ちておぼれそうになると言うハプニングがあったものの、二日目には天気も回復し、無事にMariposaへ着くことが出来ました。
King、Gardner、Cotterは此処でClarkと分かれ、さらに二日をかけ、ぬかるみとなったセントラルバレーを越え、無事サンフランシスコへと到着、Yosemiteの測量結果を無事Frederick Olmstedに手渡すことが出来ました。こうして、5月に始まってから足掛け半年にも及んだCalifornia Geological Surveyの1864年の活動は、幕を下ろすことになりました。彼らの作成した地図は、やがて”Map of the Yosemite Valley from Surveys made by order of the Commissioners to manage the Yosemite Valley and Mariposa Big Tree Grove by C. King and J. T. Gardner, 1865. Drawn by J.T.G”というタイトルで、1868年Whitneyの出版した『The Yosemite Book』に、ヨセミテ最初の本格的地図として添付されることになります。
『California Geological Surveyのシエラネバダ調査:1863-1864年』(完)

Around Yosemite Walls : 1864

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ヨセミテ州立公園境界(1864年)
10月5日、King、Gardner、Cotterらは、マリポサトレイルからヨセミテ渓谷に入り、Blackのホテル傍のキャビンを測量のベースキャンプに定めました。手伝いとして、マリポサ大隊のFredrick A. Clark、渓谷の住人LongherstとWilmerが加わります。早速翌日、一行は二頭のミュールとともにBig Oak Flatトレイルを使って渓谷の北側に上り、Monoトレイルを辿ってEl Capitanのすぐ西側の沢(Ribbon Creek)のほとりにキャンプ地を構えます。この沢の水は、ヨセミテ渓谷最大の落差を誇るRibbon Fallの水源で、当時はホテルを経営するHutchingsが名づけたVirgin’s Tearsと呼ばれていました。7日、一行はEl Capitanへ行き、渓谷全般の偵察や、岩壁を覗き込んだりしました。翌日からはいよいよ測量を開始します。境界は渓谷の淵からほぼ1マイルのところに設定されます。測量はチェーン測量法を使って一週間ほど続けられ、測量線がBoundary Hillに達したところで三角測量に切り替え、1マイルほど先のYosemite Creekの東側に測点を移します。同時にキャンプ地もNorth Domeの北西付近にあるメドウに移動し、Indian Rockに達するまで測量が続けられました(Clouds Rest、Mt. Star Kingには上っていません)。Kingはこの間、North DomeからRoyal Archの淵まで下ったり、Mt. Hoffmann登山、そしてTenaya Lake方面へ探索をしました。Mt. Hoffmannに登った際には、反対側に下り、Yosemite Creekをその水源からヨセミテ滝の落ち口まで辿ります。そしてモレイン跡や、条線、擦痕など、ヨセミテを覆っていた氷河の痕跡を見つけています。
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Boundary HillからYosemite Creek越しに見るIndian Rock、North Dome、Clouds Rest、Half Domeなど
北側の測量が終わると、一行はヨセミテ渓谷へと戻ってきました。一日休憩した後、今度はマリポサトレイルを使い、南側へと上り、Meadow Brookにキャンプを設営、同様に渓谷の淵から1マイルほどのところで、境界の測量を続けて行きます。こちら側でもKingは地学的探索をし、Bridalveil滝の落ち口付近や、Glacier Pointの東側1,000フィートほど下に見える突き出た岩などへも降りています。さまざまな痕跡を調べたKingは、最低でも1,000ft.の厚さの氷河が渓谷に流れ込み、それらが渓谷の底を覆っていただろうと推測しています。境界測量は一月ほどで終わり、測量隊は11月初旬、ヨセミテ渓谷のキャビンへ戻ってきました。しかしここでKingは、残された時間を使い、Cotterと共に鮫の背びれの形をした山、Mt. Clarkの初登頂を目指すべく、再びマリポサトレイルを上ることになります。
以上は『California Geological Surveyのシエラネバダ調査:1863-1864』の続きです。

日米の架け橋となったアワビ漁師と画家

日米の架け橋となったアワビ漁師と画家
〜小谷源之助・仲治郎と小圃千浦の足跡をたどる〜
 1897年(明治30年)に房総からカリフォルニアに渡った小谷源之助・仲治郎兄弟と男あまたち。兄源之助はカリフォルニアでアワビ事業を開拓し、弟仲治郎は千倉に戻り、器械式潜水技術者を養成して人材供給を行った。兄弟のパートナーシップは大きな功績を果たしたが、その後カリフォルニアのアワビ漁は衰退し、戦争を経てそれぞれの家族は太平洋をはさんだまま暮らし続けることとなった。兄弟が渡米してから110年目にあたる今年、兄源之助の末子・ユージン氏とその娘キミさんが初めて南房総を訪れ、小谷家のルーツをたどる。
 同じ時代に渡米し、風光明媚なヨセミテ国立公園を描いて認められ、戦前からカリフォルニア大学バークレー校で教鞭をとり、名誉教授にまでなった日本人画家・小圃千浦(おばたちうら)。日米開戦後に移送されたタンフォラン日系人収容所内では美術学校を開き、多くの後進に夢と希望を与えた功績をもつ千浦は、ユージン氏の夫人ユリさんの実父である。源之助と千浦を祖父にもつキミさんは現在、ヨセミテ・アソシエーションの理事として、千浦の作品管理や講演などを行い、活躍している。ユージン氏とキミさんの来日に合わせて、お二人の協力のもと、源之助・仲治郎兄弟と千浦画伯の足跡をたどる記念講演を行う。
日 時:2007年6月19日(火)開場12:00 開演13:00 終了予定15:00
開 場:たてやま夕日海岸ホテル(館山市八幡822 TEL.0470-23-8111)
参加費:1,000円(資料代含む、ソフトドリンク付)
内 容:スライド講演
    (1)「小谷源之助・仲治郎兄弟の功績」山口正明氏(南房総市在住)
    (2)「小圃千浦の芸術と生涯」キミ・コダニ・ヒル氏(カリフォルニア州在住)
       *終了後、かんたんなティーパーティーを用意します。
主 催:NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム
後 援:館山市、館山市教育委員会、南房総市、南房総市教育委員会(予定)
    たてやま海辺のまちづくり研究会、オーシャンクィーン
(関係者の山口様からいただいた情報を掲載しています)

Yosemite Valley Railroad

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140号線でマーセド川に沿ってヨセミテに向かうと公園ゲート直前の小さな街がEl Portalです。
1907年から1945年までMercedからこのEl Portalまで鉄道「Yosemite Valley Railroad」が運行されていました。
El Portal には140号線から「El Portal Road」を北へ入っていったところに旧駅舎があり、いまは「The Yosemite Association」の事務所になっています。またその前には機関車、貨車が保存されています。
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140号線では、マーセド川を挟んだ対岸にもとの線路跡(レールや枕木は取り外されている)をみることができ、2006年の崖崩れで通行止めとなり対岸に仮ルートが建設された部分も、もとの線路跡を利用していることになります。

California Geological Surveyのシエラネバダ調査:1863-1864年

1860年、カリフォルニア州政府は岩石、化石、土壌、鉱物資源、植性などの収集や、地図の作成を含む地質調査を目的とした組織California Geological Surveyを設立し、Yale大学出身のJosiah Dwight Whitneyをリーダーとし、William H. Brewer、William Ashburner、Charles Hoffmannといったメンバー[1]らが選ばれました。隊は1860年末から活動を開始しましたが、最初の2年は海岸沿いやサクラメント川沿いでの活動を中心とし、シエラネバダの調査を始めるのは、1863年の春も終わる頃でした。以下はBrewerの日記を中心に、ヨセミテ周辺での足跡を簡単にまとめたものです。
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地図:California Geological Survey、1863年夏のヨセミテ調査ルート
1863年5月、南カリフォルニアのTejon Pass方面(I-5、LAの北50マイル)での調査を終えたBrewerとHoffmannは、San Joaquin Valleyを北上し、Murphyの町(CA4沿い)でWhitneyと合流します。一行は近くにある発見されて10年ほどのCalaveras Grove[2]に行き、セコイアの巨木を観察します。このときWhitneyは、倒れていたセコイアの木の年輪を1225まで数えています。Brewerは伝わる話によると、大きな木々は倒れ、そのなかで”Father of the Forest”と呼ばれたものは、直径116ft.で、高さは400ft.あったと書いています。Murphyの町に戻った後は、金堀でにぎわうColumbia、Sonoraの町を経由し、いよいよヨセミテに向かいます。途中立ち寄ったBig Oak Flatも金鉱で賑わう小さな村で、その名の由来は、昔生えていた直径10ft.の樫(Oak)の木にあると書きとめています。翌11日には、村の北にある近くの小高い丘から、雪を被ったシエラネバダ、Table Mountain(120号が108号から分岐する付近)、そしてSan Joaquin Valleyの西側の山々を見ています。
14日にはBig Oak Flatを出発し南方へ向かい、Merced Riverの北俣沿いでキャンプし、すぐ傍にある石灰岩質のBower’s Caveを見学します。いくつもの洞穴をこれまで見てきたBrewerですが、これがいちばん綺麗であると感想を述べています。15日はCoultervilleトレイルを使いBull Creek、Black’s Ranch、Deer Flatに沿って進み、Crane Flatに到着し、翌日にはTuolumne Groveの見学に出かけます。1週間前にCalaveras Groveを訪れたばかりだったためか、スケールの小さいここにはあまり感動していません。この先のトレイルはかなり荒れ始めます。いくつかの谷や尾根を越えて、突然渓谷が視界に入り始めます。
この日はBridal Veil Fallを越えた、Tu-tuc-a-nu-la(El Capitan)の麓にキャンプをします。
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次の日はMerced Riverを対岸(南側)に渡り、Yosemite Fallsが真正面に見えるところまで行き、ベースキャンプを設営します。隊はこれから一週間ほどかけて、渓谷内の調査・測量を行うことになります。Brewerは、個々の滝や岩壁の形状や高度についての、詳細な記述を中心とした渓谷の概要を書きまとめています。また余談として、キャンプ地の付近のMerced川の流れが強く、渡ろうとしたら馬の足がさらわれて川に落ちたこと、ヨセミテ滝を測量しようとして、Hoffmannと共に高度差3,000ft.もある横の谷(現在のトレイルのある谷)を6時間掛けて登り、そこからみる景色に感嘆したこと、この頃渓谷にはたった12人ほどの観光客しかいなかったことについて触れています。 ところで、California Geological Surveyの最初の報告書”Geology I”は1865年に作成されますが、その中でWhitneyは学術的な話題をそれ、ヨセミテ渓谷について2点ほど面白いことを書きとめています。一つは、渓谷へのアプローチのとり方です。最初に感動的な渓谷の全容を見たいのならば、Mariposaトレイルを使い、Inspiration Pointから渓谷にルートをとるべきであること、渓谷めぐりをして個々の景観の様子を知ったあと、最後に全容を見て感動するならば、Coultervilleトレイルから入り、Mariposaトレイルで渓谷を出るルートを進めています[3]。本人はそう書いてはいないものの、Coultervilleのトレイルは今ひとつと言った感じが伺えます。もう一つは、渓谷を訪れる最適の時期について触れ、5〜7月の水の多い満月の頃に訪れることを勧めています。水のない季節に来て大岩壁を見て感動し、水がなくて少し残念だったと思うのは大間違いで、最も感動する状況を逃していると強調しています。
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6月23日、隊はいよいよヨセミテ渓谷を出発します。いったんColutervilleトレイルを西に戻り、途中でMonoトレイルに入り、この日はPorcupine Flatまで進みます。ここは標高8,850ft.のロッジポールパインの林に囲まれた小さな平地で、蚊がかなり多いと記しています。しかし、シエラの大展望があり、Whitneyはそれらを14,000ft.級の山々と思い込みかなり興奮したようです。翌日はその西側の尾根をたどり、標高11,000ft.ほどの山に初登頂します。これはメンバーの名前をとってMt. Hoffmannと名づけられました。周りには標高12,000ft.を越える山々が50ほど見られ、それらのほとんどは雪を抱いたり、急峻な岩壁を持つ花崗岩の岩峰であるとBrewerは記します。そしてスイスアルプスほどに綺麗ではないが、その広大な荒涼さが特徴であろうとしつつも、”The scene is one to be remembered for a lifetime”とその印象深さは一生ものであると書き残しています。6月25日にはTenaya Lake湖畔にキャンプをし、26日にはTuolumne MeadowsのSoda Springsに入ります。この日近くでトレイルの探査をするために近くでキャンプしていたパーティから、南軍がペンシルベニア州に侵入したことを知らされ、一行はかなり落ち込んだと記しています[4]。ともかくもこの日の夜は快晴で、月明かりに照らされ周辺の山々が美しい風景を作り出していました。
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27日にはキャンプをMono Passから3マイル付近に移し、翌28日、調子の優れないWhitneyを残しHoffmannとBrewerはガレ岩、氷、雪を越えて標高13,000ft.強の山に登り、Mt. Hoffmann以上の大展望を得ることが出来ました。この山はアメリカの地質学者の名前をとって、Mt. Danaと命名されます。キャンプに戻ってきた二人の話しを聞いたWhitneyは自分も登ると決心し、翌日三人は、再びMt. Danaの頂を目指します。Hoffmannは別の峠[4]を観察し、其処にもトレイルが作れる可能性を示唆します[5]。Berwerは、Monoトレイルが、すでにシエラの東側で見つかっていた鉱山への補給のため、パックトレインが週一度の頻度で、山を越えていることを記しています。また周辺の山々には昔あったであろう氷河の形跡がいたるところにあることを書き記しています[6] 。 30日には再びSoda Springsに戻り、翌7月1日にはWhitneyとパッカーのJohnはBig Oak Flatへ向けて戻ります。一方HoffmannとBrewerの二人はTuolumne riverの上流に探査に向かいます。谷に道はなかったものの、この日は10.5マイルほど進み、平らな谷の行き止まりでキャンプをします。
20070304E.jpg 奥には13,000ft.を越える雪を抱いた花崗岩の山が、青空を背景に聳えたっていました。 ”It was most picturesque, wild, and grand. And what an experience!…” Brewerはかなりの量を割いて、そのキャンプ地一帯の美しさを書きとめています。
7月2日は早朝に行動を開始し、奥に見える最高峰を登りに出かけます。樹林帯をぬけ、昔氷河によって磨き上げられた岩の斜面を越え、あと高度差にして1,000ft.までに迫ります。そこからの斜面の雪は場所によっては柔らかく、2-3ftも潜り始めます。出発して7時間後、二人は頂上直下125〜150ft.に達するも突破できず、其処であきらめます。高度は13,000ft.付近を示していました。この山は、英国の地質学者の名を取り、Mt. Lyellと命名されます。
20070304F.jpg翌日は朝遅くまで休んでから出発、ゆっくりとSoda Springsへ戻ってきます。7月4日、今度はTuolumne River沿いを数マイルほど下り、一帯の測量をします。Brewerは南に聳えるUnicornとCathedral Peakの二つの尖峰が特にすばらしく、まさに後者は巨大なCathedral(聖堂)のようだと書いています。あくる日は、二人はTuolumne Mewadowsの北にある岩峰[7]で最後の測量を済ませ、7日にはMono Lakeへと下りヨセミテ渓谷を出てから2週間にわたるテントなしでのヨセミテ・ハイシエラの駆け足の調査を終えました。
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資料:
”Up and Down California in 1860-1864: The Journal of William H. Brewer” William H. Brewer(1930)/Univ. of California Pressより再版
”Geology, vol I. 1865”, J. D. Whitney(1865)
挿絵(”Geology, vol I. 1865”より):
1. Yosemite Valley (Fig. 62)
2. The Obelisk Group – from Porcupine Flat (PLATE IV)
3. Cathedral Peak Group – Upper Tuolumne Valley (PLATE VI)
4. Mount Lyell and the source of the Tuolumne River (PLATE VII)
5. Summit of Mount Lyell (Fig. 73)
6. Glacier Polished Surface in Tuolumne Valley (Fig. 72)
注釈:
[1]1860-1864年の間のメンバー:
Professor J. D. Whitney … State Geologist
Professor W. H. Brewer … Principle Assistant, 1860-64, in charge of Botanical Department
J. G. Cooper, M.D. … Zoologist, 1860-64
W. Ashburner … Assistant in the Department of Economical Geology, 1860-61
C. F. Hoffmann … Principle Topographical Assistant, 1861-64
V. Wackenreuder … Topographical Assistant, 1862, 1863
W. M. Gabb … Palaeontologist, 1862-64
A. Remond … Volunteer Assistant in the Geological Field work, 1862, 1863
Clarence King … Volunteer Assistant in the Geological Field work, 1863-64
J. T. Gardiner … Volunteer Assistant in the Topographical Field work, 1864
C. Averill … Clerk, Comissary and Barometrical Observer, 1860-63
[2] 1852年に発見。
[3] Coulterville及びMariposaトレイルは、現在の車道CA120とWawona Rd.は全く別のところを通っていました。
[4] 当時は南北戦争の最中:6月3日、Lee将軍率いる南軍がペンシルベニア州に侵入、やがて7月上旬のGettysburgで敗北を喫する。
[5] Tioga Pass。
[6] Muirは1870年、シエラに氷河が現存する事を発見します。ヨセミテ・シエラの氷河は、形状だけを見れば万年雪渓のようなもので、ヨーロッパでの大氷河を見ている3人にとっては、氷河と考えるに到らなかったと思われます。
[7] Ragged Peak。


1863年8月、ヨセミテを越えたBrewerとHoffmannらは、Mono Lake南岸のクレーターや、カリフォルニア・ネバダ州境にある金で賑わう町Auroraを訪ねた後、Sonora Passを越えて、出発地点のMurphyの町へ戻ってきます。その後、Ebetts PassやCarson Passを越えるルート(現在のCA4、CA88号沿い)を調査し、Lake Tahoeを周り、Sqaw Valleyからシエラを西に越えて、San Franciscoへの帰路に着きました。途中Brewerは、Sacramento川を下る蒸気船の中で、一年前にYale大学を卒業し、東海岸からカリフォルニアへと旅をしてきたClarence King(後にUSGSの初代所長となる)とJames Gardnerに出会います。すぐさまKingは無償のアシスタントとして隊に参加し、Brewerと共に年末いっぱいまで、Lassen Peak登頂を含む、北カリフォルニアのCascadeやKalmath地方の調査をしました。冬の間、KingはHoffmann、Ashburnerらと共に、Olmstedが監督するマリポサの金鉱で地質調査の仕事をし、その合間を縫って近くの山に登ります。そのとき遥か南方に白い峰々を望み、カリフォルニアの最高峰が、当時考えられていたMt. Shastaではなく、南部にあるとの確信を得ます。翌年4月、ネバダ州の西部探査の際に、同行したKingからその話を聞いたWhitneyは、そのシエラネバダの地図の空白部へ調査隊を送る決断をします。
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[横断ルート:5月~7月、下の▲はMt. Brewer。上はMt. Goddard]
1864年5月24日、Brewer、Hoffmann、King、Gardner、そしてCotterらはSan Franciscoを出発し、Visallia経由で6月10日にThomas’ Mill(現Kings Canyon NPのGeneral Grant Groveのすぐ西側)に到着しました。一行は、手配中の荷物が届くのを待つ間、周辺に生えるセコイアの調査を行います。木々の太さや高さは、巻尺や三角測量を使ってかなり正確に測られました。いちばん大きなセコイアは、根元付近の円周が106ft、.高さ276ft.もあるものでした。また、火事で焼け中空となったセコイアの倒木があり、それは馬に乗ったまま、20メートルほど奥に入ることが出来るほどの巨大なものでした。Brewerはすでに幾本かの小さなセコイアが伐採され、フェンスの材料にされていること、数年のうちにまた幾本が切られるかもしれないと書きとめています。偵察のために近くの山に登ると、東には、雪を抱くシエラネバダの険しい山々が見え、Brewerはその荒々しさはいまだかつて見たことが無く、はたしてたどり着けるであろうかと、心配しています。
荷物が届き、6月17日にはいよいよ東へ向けて出発します。進路はおおむねKaweahとKings水系を分ける分水嶺に沿うもので、途中には数百本ものセコイアが見られます。Big Meadowsで数泊した後、6月28日は分水嶺上に聳える11,000ft.の山に登り、それをMt. Sillmanと命名します。その後Kings水系側の谷に下り、Roaring Riverを越え7月1日には、とある沢にキャンプを設営します。翌日BrewerとHoffmannは、沢の奥に聳えるピラミッド状の山(Mt. Brewerと命名)に登り、13,000ft.級の山々の連なるシエラネバダの主稜がさらに東にあることを発見します。戻ってきたBrewerとHoffmannの話を聞いたKingとCotterは、その一つの山(Mt. Tyndallと命名)を登りに出かけ、無事初登頂を成し遂げました。5日後二人が戻ってくると一行はキャンプ地を引き払い、エスコートのためにVisalliaからやってきた兵士たちの待つBig Meadowsへと戻ります。7月12日、Brewerは痛む歯の治療のため、Kingに付き添われ一時Visalliaへと山を降ります。其処からKingは別行動をとり、Mt. Whitneyへの登頂を試みるものの失敗、その後単独でWawonaへ戻り、Brewerらの帰りを待つことになります。
治療を終え、16日にThomas’ Millに戻ったBrewerは、待っていた隊に合流し、翌日Kings渓谷へと向かいます。途中Owens Valleyからトレイルを作りながらKearsarge Passを越えてきた採鉱者らに出会い、シエラを越えるルートが開かれたことを知ります。18日に3000ft.の急斜面を下り渓谷の底に降り立ったBrewerは、川(South Fork Kings River)に鱒があふれんばかりに泳いでいたと記録しています。次の日は渓谷を上流に10マイルほど進み、川が二股に分かれるメドウ地帯にキャンプ地を定めました。Brewerはこの大渓谷の印象を、”Next to Yosemite, this is the grandest canyon I have ever seen. It much resembles Yosemite and almost rivals it”と、そのヨセミテに次ぐ大渓谷で、様相も似ていると表現します。
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[Kings渓谷(South Fork)]
Hoffmann、Gardner、Brewerらが渓谷の南側を調査する間、兵士たちは、たった5マイルで4,000ft.も高度を稼ぐ急峻な北側の斜面を偵察し、Kings渓谷を抜け出すことが可能と思われるルートを発見します。一行はそれを辿り峠を越えて、次の測量地点として定めたMr. Goddardへと向かうべく、北側の渓谷Middle Fork Kings Canyonへの下降ルートを探し求めます。しかし、その急な斜面に荷物を持ったパックが通過が出来るルートは見つけることは出来ず、Kearsarge Passからのルートを使い、ひとたびシエラを東に越えて、北側から回りこみMt. Godderedを目指すことにします。Kings渓谷に戻った一行は、26日にBubbs Creek沿いのトレイルを辿り始めます。最初の1,500ftの斜面はかなり急で、所によっては馬やミュールを引っ張りあげなければなりませんでした。苦労をしながらこの日はBubbs Creek、Charlot Creek沿いに11マイルほど進み、翌日はKearsarge Passを越え、28日には灼熱のOwens Valley(Independence)に下りました。
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[Middle Fork Kings River越しに望むMt. Goddard(左)]
一行は、Palisade(隊が命名)山群をはじめとする14,000?13,000ft.級のシエラネバダの山々を西に望みつつ、Owens Valleyを北上します。この間Brewerは、植物学が専門だけあって、Owens Valleyの植生についてきめ細かい観察を残しています。8月1日、隊は進路を西に変え、Rock Creekを辿り、8,000ft付近でキャンプをします。そして翌日、山陰の小さな谷を上り、雪と岩、そして砂に覆われた標高12,000ftの峠(Mono Pass)でシエラネバダの主稜線を越え、San Joaquin水系(Mono Creek)へと入ります。近くの尾根で一帯の偵察をした後、4日には谷を18マイルほど下り、Vermilion Valley(現在のLake Thomas A Edison付近)に到着しました。此処にベースキャンプを定め、隊は二つに分かれ、4人の兵士たちはシエラ西麓のFort Miller(現在はMillerton Lakeの湖底)へと食料調達に、残ったBrewerらは南側(Kings水系)からのアプローチに失敗したMt. Goddardを目指します。
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[横断ルート:8月、▲はMt. Goddard]
馬で進んだBrewerたちは、9日標高10,000ft.、目指す山まであと7マイル付近と思われるところまで達します。翌朝は夜明けと共に徒歩で出発、標高11,000ft程度の岩尾根を乗り越えていきました(Le Conte Divideに沿って進んだと考えられています)。7番目の尾根を越えたときに見たのは、さらに6マイルも先に聳えるMt. Goddardで、しかも二つの深い渓谷が間を隔てていました。すでに行動時間は9時間を越えており、HoffmannとBrewerはそこで断念し、引き返すことにします。Cotterと兵士のSprattはあきらめず、さらに進み続けましたが、ルートが見つけられず頂上まで300ft.を残したところで引き返すことになりました。そして夜通し歩き続け、翌日の午後、出発してから36時間をかけて、食べ物も切らし、馬を残したキャンプ地へと戻ってきました。ベースキャンプに戻り、数日間休養した後の8月15日、今度はSan Joaquin水系の北部探査に向けて隊は進みます。しかし以前から不調を訴えていたHoffmannの足の状況が悪化するにいたり、8月21日、調査を打ち切ることにします。そして8月23日、Clark’s Ranch(ワオナにあったGalen Clarkの経営する宿)に到着し、Olmsted、Ashburner、3週間前にMt. Whitneyの試登(失敗)を終えて戻っていたKingらと再会します。Brewerは、隊員の服はぼろぼろで、馬も傷つき、本人の体重は30ポンドほど減ったと、調査行の厳しさを書きとめています。Hoffmannの様態を見る間Brewerは、Olmstedと共にヨセミテに出かけます。渓谷からはMonoトレイルを使いMt. Danaを目指しましたが、Olmstedはあまり山歩きが得意ではなかったため、馬で行ける隣の山に登り、それをMt. Gibbsと命名しました。Brewerがヨセミテ旅行から帰ってきても、Hoffmannの様態は悪化する一方でした。そこで4人は、Hoffmannを医者に診せるため、担架を使いマリポサへ山越えし、そこから先はKingとCotterがStockton経由でSan Franciscoへ送り届けました。そして後を追うように、BrewerとGardnerもOlmstedと共にマリポサを去ります。
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[”Geology Vol. I”に掲載されたBalloon Dome(Middle Fork San Joaquin River):Hoffmannのスケッチに基づく版画]
San Franciscoに戻ったBrewerは、Yale大学から教授職内定の手紙を受け取り、カリフォルニアを離れる決心をしました。4年間に渡るCalifornia Geological Surveyの仕事の間Brewerが廻った距離は、公共交通機関で4,440マイル、馬で7,564マイル、そして徒歩で3,101マイルの計15,105マイルでした。隊の1864年の活動は、たった3ヶ月半で広大なシエラネバダ山系(ヨセミテの南)の偵察的調査をするもので、時間、予算、人的にもかなり制約されたものでしたが、Kern Riverの水源を確認したこと、Great Western Divide(Kings及びKernの分水嶺)の位置を正しくつかんだこと、シエラネバダに残る氷河活動の跡を確認したこと、幾つもの地点の標高を測量・推定したことなどと、数多くの成果を残しました。
さて、Brewer一行がシエラの調査をしていた6月末、連邦政府はLincoln大統領のサインを得て、ヨセミテ渓谷とマリポサグローブを州の公園として譲渡する法案を通しました。カリフォルニア州では、年末に議会の開催が予定されており、公園の管理委員会メンバーに選ばれていたWhitneyは、それに間に合わせるべく、急ぎ公園の境界地図や報告書を作成する必要がありました。9月中旬San Franciscoに戻ってきたばかりのKing、Gardner、そしてCotterらはWhitneyの命を受け、急遽ヨセミテ渓谷へと向かう事になります。測量に残された時間は、冬の嵐が来て山が閉ざされてしまうまでの数ヶ月しかありませんでした。


資料:
”Up and Down California in 1860-1864: The Journal of William H. Brewer” William H. Brewer
”Geology, vol I. 1865”, J. D. Whitney
”Mountaineering in The Sierra Nevada”, Clarence King
”King of the 40th Parallel”, James Gregory Moore, Stanford Univ. Press
”Exploring The Highest Sierra” James G. Moore, Stanford Univ. Press
”History of The Sierra Nevada”, Francic P. Farquhar, Univ. of California Press
”Clarence King”, Thurman Wilkins, Univ. of New Mexico Press

Clarence KingとMt. Whitney

Eastern SierraのOwens ValleyにあるLone Pineの町の西に座すMt. Whitney(標高14,491ft.)は、アラスカを除く米国49州の最高峰として知られ、毎年多くのハイカーがその頂上に挑みます。この山は1864年California Geological Surveyによって遠方から初めて測量され、推定標高約15,000ft.の合衆国最高峰(アラスカ移譲は1867年)として記録されました。当時の測量隊メンバーであったClarence Kingは、南からアプローチし、登頂を試みましたが、頂上付近で敗退してしまいました。7年後、シエラネバダに立ち寄ったKingは、ついにこの山の初登頂を果たします。しかしその2年後、それが別の山であったことがわかります。Kingは急遽舞い戻り、真のMt. Whitneyを目指し、ついに9月17日、頂上に達しました。しかし時すでに遅く、山は数パーティが登った後でした。以下は、Clarence Kingを中心としたMt. Whitneyの測量と初登頂にまつわる興味深い話のまとめです。

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[3.7] ヨセミテ国立公園:境界変更(1905年)

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1890年10月1日、ヨセミテ国立公園が制定されてから、ヨセミテ渓谷及びマリポサグローブを除くヨセミテ一帯は、連邦政府により保護・管理されることになりました。この法律は、内務省長官が管理の為のルールや規定を作ることを定めており、当時の内務省長官Nobleは、軍隊を用い、伐採、放牧などの取り締まりをさせることを決めています。早速サンフランシスコのGolden Gate BridgeそばのPresidioに駐屯している騎兵隊は、5月〜10月の間Wawonaに本部を置き(ヨセミテ渓谷が連邦に返還される1906年まで)、ヨセミテをパトロールすることになります。最初のヨセミテ公園長(代理)に任命(1891〜1892)されたのは、第四騎兵連隊I-中隊の指揮官Abram E. Wood大尉でした。ヨセミテに入った騎兵隊は、早速判然としない公園の境界問題に直面します。特に西側の公園内には、かなりの数の私有地が存在し、パトロールをかなり困難なものにしました。また放牧者らも、私有地を使い、公園内へと簡単に侵入してきました。Wood大尉は1891年度の内務省長官への報告書で、公園内に含まれる私有地が65,000エーカーにも及び、さらに300もの鉱山の採掘権が許可されていることを指摘しています。そして、公園の規模が小さくなるものの、分水嶺や、川などで新境界を指定することにより、私有地を公園からほとんど除外でき、パトロールが簡単になると述べていました。また連邦議会では、Camminetti議員らにより、境界変更の法案を通す試みが行われましたが、シエラクラブの反対運動によって、成立しませんでした。
1903年、ヨセミテ国立公園内に広大な私有地を持つYosemite Lumber Companyが公園内で伐採を始めると、ついに連邦議会も境界問題にアクションをとり始めます。連邦議会は調査に$3,000の予算をあて、1904年4月28日、内務省長官Ethan Allen Hitchcockに、ヨセミテの境界に関してどの区域が公園として不必要か調査するよう指示します。6月14日、Hitchcock長官は陸軍技術部隊のH. M. Chittenden少佐、USGSの地形図作成係Bob Marshall、内務省Genaral Land Officeの地図課Frank Bondをメンバーとする、境界に関する委員会(Federal Boundary Commission)を設立しました。委員会は6月24日にWawonaに到着し、公園の調査を開始しました。7月9日にはHetch Hetchyを含む主要な地点のフィールド調査を終了、その後サンフランシスコで関係者らの意見を聞きます。7月2日にMuirは、Chittendenから、会って意見を聞きたいという手紙を受け取ります(実際Muirが委員会と会ったのかは資料がなく、不明です)。8月23日には、Muir、LeConte、Colbyらにより、Mercedグローブも含んだ公園南西部の3区画を削除し、東側には現在のTioga Pass(鉱山を含む)、June Lake、Mammoth Lakes付近(同じく鉱山を含む)に区画を追加するという対案書が作成され、委員会に送られました。さらにColbyは28日にChittenden宛に、公園内には多くの採掘権があるものの、それらはほんのわずかばかりの土地しか占めていない。ならば、ある制限のもとで、公園内でそにまま採掘させるのは可能ではないか。その方が、すばらしい景色を楽しめる大きな公園区画を失うよりは良いのではないかとも書き送っています。
公園内の私有地の買い上げも考慮されましたが、評価額は$4Mにも及び、連邦がそのような予算を捻出するのは不可能であること、さらの鉱山の採掘権の問題もあり、最終的な委員会の提案は、新しいヨセミテ国立公園の新境界を、北・東、そして南の境界はTuolumne及びMercedの水系で囲まれ、西側は、ほぼGLOの測地境界とするものでした。シエラクラブとしては不満だったものの、何故か反対運動はしませんでした。12月5日のHitchcockによる議会への最終報告に基づく法案:”An Act to Exclude from the Yosemite National Park, California, certain lands therein described, and to attach and include the said lands in the Sierra Forest Reserve”(H.R. 17345)は議会を通過し、1905年2月7日にRoosevelt大統領によってサインされました。これによって、ヨセミテ国立公園は総面積を1,512平方マイルから1,082平方マイルの約2/3に縮小され、現在とほぼ同じ形状の境界線を持つことになりました。しかしヨセミテ渓谷とMariposa Groveは依然カリフォルニア州のもので、公園内には22,000エーカーの私有地が残されていました。
地図:黄色は1890年に決められたヨセミテ国立公園の境界。白はChittendenらのヨセミテ境界調査委員会が提案し、採用された1905年の新境界。ヨセミテ渓谷、Mariposa Groveは、依然州の所有地。西側の突起は、Tuolumne、Merced Groveを含む地帯。シエラクラブの対案は、1890年の境界から南西の区画を削り、東側に3区画を付け足すもの。
話の流れは[3.3] [3.4] [3.5] [3.6]を参考にしてください。

Stanley Albright

投稿が遅れましたが、42年間NPS職員として働き、1997-2000年の間ヨセミテ国立公園の公園長であったStanley Albright氏が8月18日に亡くなられました。ご冥福をお祈りします。
Albright氏はNPSの創設期にStephen Mather長官とともに国立公園制度そのものを作り上げたHorace Albrightの甥にあたります。
Albright氏は全米10以上の国立公園の誕生に関わり、最後はヨセミテ国立公園の公園長として引退されました。
追悼記事
http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2006/08/23/BAGF5KNDR61.DTL

A Rival of Yosemite: 1891年6月

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Muirの歩いたシエラネバダ(続き)
1891年5月28日、Muirは画家のRobinsonと共にSan Franciscoを出発し、Kings渓谷と出来たばかりのGeneral Grant及びSequoia National Parkへと向かいます。これは1873年10月、1875年7月、そして1877年10月の旅行に続き、Muirにとって4度目の訪問となります。日記[1]によると、5月30日にGeneral Grant National Parkを訪ね、6月1日にはKings渓谷へと下り、そこで2週間近くをすごしています。Robinsonと共に渓谷沿いの岩山(Second Sentinel)に登ったこと、出会った少年が熊をしとめた話、帰るときに増水した川にミュールが落ち、それを助けたことなどのエピソードが書かれています。Muirは渓谷の様子について克明な記述を残しており、そこがヨセミテ渓谷とかなり似た形状をしていると書いています[2]。MuirはここでYosemiteという言葉をヨセミテ渓谷のような形状の谷と一般化し、The Kings River Yosemiteと使っています。
さてMuirは同年11月、Century誌に”A Rival of Yosemite: The Canyon of the South Fork of King’s River, California”[2]という記事を掲載します。これはKings渓谷の概略、アプローチ、渓谷景観の詳細な記述、過去4回の自分の探査行などをRobinsonの描いたスケッチと共にまとめたものです。78ページ目(記事の第2ページ)には、出来たばかりのSequoia National Parkの地図があり、そこにKings渓谷を含む広大な一帯を追加する提案がされています[3]。日記と”A Rival of Yosemite”を読み比べると、後者ではかなり自然保護を訴えていることに気づきます。また日記では淡々と書きとめた熊狩りの話ですが、動物愛護風の書き方に変わっています。
写真:Kings渓谷の上半分を上流から望む。
参考:
[1]”John of the Mountains: Unpublished Journals of John Muir”(Linnie Marsh Wolfe編)
[2]6月1日のエントリーは、渓谷の様子について詳しく書いています。しかしWolfeは脚注で、オリジナルの日記が判読不明なためCentry誌の記事を使って代用したと書いています。注意して読み比べると、数行を除いて完全なコピーとなっています。
[3]”Remembered Yesterdays”(Robert Underwood Johnson著)によると、1891年5月にJohnsonは、Muirに依頼して作らせたKings渓谷付近の地図を内務省長官Nobleに送り、その一帯を保護区とするように提案しています。Muirは常日ごろ、ヨセミテ渓谷よりKings渓谷のほうがよりすばらしいと主張していたとの事です。 ”May, 1891, I sent him a sketch map which at my request Muir had made of the Kings’s River Canyon region to support my proposal that a large reservation should be made to include that gorge, which Muir always asserted was more wonderful than the Yosemite.” これにNobleは8月28日に返信し、Kings渓谷をSequoia NPに組み込む件は、機会があったら大統領に尋ねてみると返答しています。 ”It will greatly please me to bring the additional reservation for the Sequoia National Park before the President as soon as an opportunity is afforded. The necessary legislation will also be asked.”

ヨセミテ国立公園の境界変更案:Caminetti法案(1892年)

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Muirの自然保護運動(続き): 1890年10月1日にヨセミテ一帯を国立公園にする法案が通過すると、Mariposa、Tuolumne、Mono、Fresno郡の人々は、自分たちの税収源が突然失われてしまった事に気づきました。また山岳地帯で自由に放牧をしていた牧畜業者たちは、一帯が突然閉鎖されてしまった事に反対していました。やがて新聞記事、牧畜業者や林業者組合の会合などで反対意見は勢いづき、1891年1月末には連邦議会への嘆願書が出されるに到ります。
このような中、1892年2月10日、連邦下院議員のAnthony Caminetti(元カリフォルニア州の議員)は、鉱山、牧畜、林業者らにとって重要な一帯を、ヨセミテ国立公園の境界から除くための法案HR5764を農務委員会に提出しました(しかしながらCaminettiは、自然資源の保護の重要性も理解しており、脚下されたものの、1892年5月26日には、ヨセミテ国立公園の保護のために1万ドルの予算をつける予算修正案を申請したり、前述HR5764で、ヨセミテ国立公園の湖沼に農務省長官の裁量で魚の放流ができるという項も付加していました)。
同じ頃、内務省長官Noble(R. U. Johnsonとは1890年10月以来書簡のやり取りがある。1891年6月には二人はYale大学より名誉称号を授与されている)は、議会で前年度(1891年)の年次報告をし、夏の間ヨセミテ国立公園をパトロールする第四騎兵隊(Saf Francisco、Presidioが駐屯地)I中隊長のWood大尉(ヨセミテ国立公園長代理)の推薦に基づき、公園境界の見直しを推薦します。Muirは3月24日にNoble宛に手紙を出し、境界の縮小案に賛成の意を表明します。一方、チャーターメンバーのJames Mason Hutchings(Muirがヨセミテに住んでいたとき働いていたホテルの経営主)やJohn T. McLean博士は、同月25日と26日に同じくNoble宛に強固に反対する手紙を出します。特にHutchingsは、更にMt. DanaとMt.Warren一帯(T1N/R25E)を公園に取り込むことを推薦しています。
6月に結成されたばかりのシエラクラブは、10月1日にOlneyの事務所で理事会を開き、クラブとして活動を開始することを決めます。2週間後に開かれた総会では、Caminetti法案の説明がされます。Caminetti議員は、11月5日の総会に出席し、Olneyとディベートをする予定でしたが、これは都合で実現できませんでした。そして、このときクラブは、法案反対の請願書を連邦議会の農務委員会へと送る事で決議しました。当時の理事会の議事録は、1906年のサンフランシスコ大地震の火災で焼失しまい、前述のMuirの境界変更への賛成意見が自分で取り下げられたのか、他のメンバーに押し切られたのかは不明ですが、最終的には境界変更を全く認めないということで嘆願書は作成されました。反対の主な理由は以下の通りです。
[1]T4S/R25、T4S/R25E、T3S/R25E(地図右下の三区画)はSan Joaquin川の重要な水源地帯である。[2]T1S/R19E、T2S/R19E、T1S/R20E(地図中央左の三区画)は重要な森林地帯でまたTuolumneとMercedのセコイアグローブもある。[3]T1N/R19E、T2N/R19Eは州の水源地帯として保護されるべきである(現在はEleanorとCherry湖が出来ている)。[4]T2N/R20EとT2N/R21Eの上半分、T2N/R22E、T2N/R23E、T2N/R24E、T1N/R22Eの上半分、T1N/R23Eの上半分、T1N/R24E、T1S/R25E(残りの地図上側の区画)はTuolumne川の水源地帯であり、Hetch-Hetchyを含む一帯は、将来重要な観光地になることが考えられる。
1893年2月、Caminetti案が農務委員会の議題に上ることを知ったR. U. JohnsonはMuirに電報を打ち、シエラクラブとして抗議することを求めます。2月6日、Muirは委員長宛に”The Caminetti bill is in favor of sheepmen and timbermen chiefly the latter. We urge delay until the light shines”と電報を送りました。これがどう影響を与えたのかは定かではありませんが、まもなくCaminetti案は委員会内で消滅してしまいました。
しかし翌1894年8月1日に、Caminettiは大統領の許可があれば、議会の承認なしに内務省長官が、その裁量で公園の境界変更が出来るという法案(HR7872)を公地委員会へ提出します。すでに長官Nobleは、1893年3月にHarrisonからClevelandへの政権交代に伴い退任しており、新たにHawk Smithが就任していました。MuirはSmithもNobleのように境界変更に賛成する事を恐れ、シエラクラブとしての意見書を送る事にします。シエラクラブの書記のElliot McAllister(カリフォルニア州議員)は、1985年1月15日にCaminettie法案を破棄を呼びかける州法案を提出、これは両院で通過し連邦議会へと送られました。やがてCaminetti法案は1895年3月2日に廃案となり、またCaminnetti本人も選挙での二選目を果たすことができませんでした。こうしてヨセミテ国立公園の最初の境界変更の危機はとりあえず回避することが出来ました。
地図:Caminetti議員が提案したヨセミテ国立公園の境界変更案(青)。赤は1890年に設定された公園境界線。

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